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玉虫蛍の地蔵盆

挿絵(By みてみん)


 むしむしと、膚に張り付くような夏の夜だった。


 月のあかりに地面が光る。

 この場所は、白石の散らばる河原である。足場も悪いその場所に、生青白い顔立ちの人々が粛々と並んでいる。

 白い月明かりが人々の顔を照らすのを見て、玉虫ははたと、

「ここは賽の河原やないの……」

 ……と、気がついた。



「嗚呼、嗚呼……本当に、死んでしもうたんやなぁ……」

 玉虫は口をぽかんと開けたまま、つぶやいた。

 太ももにまとわりつくのは、質の悪い経帷子だ。

 死装束のその襟は、ご丁寧に左前。

 先日まで纏っていた絹の着物はどこにも見えない。

 ……艶やかな京友禅、玉虫自慢の着物。それは自分から流れた血に染まったはずである。

 経帷子の懐を探れば、なぜか懐紙に包まれた南蛮菓子だけがころりと転がり出た。


「嗚呼、嗚呼。本当に死んでしもうた。これは噂に聞く賽の河原や。服を剥がれて川を泳いで鬼に虐められるんや……六道さんの坊から、そないな話を聞いたことがあるわ……」


 勝山に結い上げた頭を抑え、玉虫は呻く。

 髪の飾りと椿油の香りだけが、生前を引き継ぐものだ。

 玉虫は京の花街、一番芸者。三味線と踊りだけは誰にも負けぬ。

 自慢ではないが床の腕も手練たもので、地獄花街に落ちた観音さまと囁かれた。

「……どうせそのうち死んでしまうにしても、あんなしょうもない男のために命捨てて……」

 そんな玉虫にふらふらと近づいてきたのは、大坂商家の阿呆な二代目。

「悔しい悔しい勿体ない勿体ない」

 青臭いその男は、あっという間に玉虫の掌中に落ちた。そのせいで商売が斜めに傾いて、地面にまでめり込んでしまった。

 商売が傾くまでの間、たった半年。

「あないな男の……青臭い言葉に騙されて……」

 商売はいよいよだめだ。どうか一緒に死んでくれまいか……と、男は玉虫にせがんで甘えた。

 最初こそ袖にしていた玉虫だが、ここまで自分を好いてくれる男はそうもいない。

 とうとうその熱意に折れたのは、前日に見た心中絵巻のせいか。

 ちょうどその頃、京から遠く離れた江戸市中で遊女と男の心中物が大当たり。歌舞伎も浄瑠璃も満員御礼、禁止令が出たほどであるという。

 そんな世間の空気に絆されたわけではないが、玉虫は不意に「死んでも良い」。などと思ってしまった。

 玉虫は齢5つで実父に売られ、花街の空気に染まって生きてきた。

 芸を学んで綺麗なおべべは纏えても、真実の愛なぞ無いものとして生きてきたのだ。

 そんな自分と一緒に死んでもいいという男の声は、存外誠実に聞こえるものである。

 死ぬと決まれば話は早い。

 その夜、玉虫は郭の四つ辻にある、小さな地蔵にだけ決意を告げた。

 5つの頃、売られてきた日がちょうど、地蔵盆と呼ばれる地蔵菩薩の祭だったのだ。

 祭で配られたのは南蛮菓子。その途方もないうまさに、5つの玉虫は目を丸めたものだった。

 菓子は地蔵様のお下がりだ。地蔵盆は子供のための祭である。地蔵菩薩は子供の守り仏である。

 すでに子供ではない玉虫だが、菓子のうまさの感激に、地蔵菩薩への念仏を欠かしたことはない。


(盛り上がって……死んでしもうたんやなあ……)


 玉虫は南蛮菓子の包まれた懐紙を撫でながら、呆然と呟く。

 懐に銭ではなく菓子が入っていることが、まるで自分の人生そのもののようだった。見目もよく、甘いばかりで川はわたれぬ。

(河原……よおさん、死んだ人が並んではる……)

 目の前に広がるのは白い河原。向こうには、川が見える。噂の三途の川というものだろう。

 ここには風も温度も湿度もない。

 しかし死んだ夜、その日は確か湿度の高い夜であった。

 蛍の明かりもうるさい夏の夜更けに男と手を取り廓を抜け出し、あだしが原ではないものの、京のはずれの寂しい道を駆けたときには「嗚呼、これこそが、夢の夢こそ哀れなれ」などと思ったものだ。

 人の居ない寂しい場所にたどり着き、二人の気持ちはいよいよ高まる。

 好きだ好きだと念仏のように唱える男が抜いた白刃に貫かれ、首に巻いた数珠が血とともに地面に舞った。

「自分だけ死んで、あいつだけ生き残るやなんて……」

 玉虫は唇が噛み切れるほどに噛み締めて、畜生畜生と地団駄を踏む。

 そうだ。死んだのは玉虫だけである。男は玉虫の血を見て、ひいと叫ぶなり情けなくもそのまま気を失った。

 結局、男は後を追うこともなくのうのうと此岸に残った。この賽の河原にいないのが、何よりの証拠。

「……ええ、悔しい……化けてでてやろうか」


「おまたせしました」


 奥歯をぎりぎりうならせる玉虫の前に、影がおちる。

 物静かな声に驚き顔を上げると、清廉とした香が玉虫の顔を打った。


「……へ? ぼんさん?」

  

 玉虫は賽の河原の石を握りしめたまま、唖然と呟く。

 目の前にいたのは、袈裟をまとった美僧なのである。

 年の頃は20そこそこ。頭のそり跡も美しい。

 地獄に仏とはこのことか。彼は突然のことに唖然とする玉虫の、白い手を彼は遠慮なく引いた。

「こちらへ行きましょう」

 彼の白い手に引かれ、玉虫はゆるゆると歩き始める。

「なあ、誰? うちの知り合い?」

「さあ」

「三途の川に案内してくれるん?」

 三途の川に並ぶ列はずいぶん長い。その先に、着物と記憶をはぎ取る奪衣婆がいるのである。

 川を渡る船賃をもたぬ死者は、衣服をはぎ取られて裸で川を泳ぐ羽目となる。

「なあ、着物を剥がされへんの?」

「私と一緒にいれば大丈夫ですよ」

 彼がしずしずと向かうのは、賽の河原のその先だ。

 見ればまだ幼い子供たちが、石を重ねて遊んでいる。

「ちいさい子たち、かあいらし」

「あの子等は親より先に死んだため、ああして石を重ねては鬼がつぶすのです。親不孝の罪のために」

 僧侶は哀れむようにそういった。

 たしかに、子供たちは皆ぼろぼろの恰好で、白い砂にまみれて石を積み上げている。石が積まれると、巨躯の鬼がそれを無情につぶしていく……。

「死にとうて死んだわけでもないのにね」

 自分と違って。と、玉虫の喉に苦いものが持ち上がる。

 5つで売られた玉虫は、これまで悲しいことも死にたいことも山のようにあった。玉虫を生かしたのは、南蛮菓子の味のおかげだ。

 もし幼い時分に死んでいれば、自分を売った親のために再び理不尽な目に遭わされるところであった。

(嗚呼。それなら、死んだのは今でよかった……阿呆親父のために、二度もつらい目にあわされるところやった……)

 その瞬間、なぜか玉虫の中でするりと憑き物が落ちた。

「かあいそ。どうせうちは地獄行きやけど、あの子らは……」

「行きましょうか」

「いややわ、ぼんさん。地獄につきあってくれるん?」

 玉虫は、薄く笑う。もう笑うことしかできなかった。

 憑き物が落ちるとはこういうことか。

 妙に心が静まって、記憶がほろほろと清められていく。

「地獄に落ちるか、極楽へいくかは貴女の心がけ次第」

「それなら地獄やね。遊女は生きて地獄、死んで浄土へなんぞ言うてみても……」

 玉虫は、自身の指を見る、足先を見る。

 その名のごとく、玉のように美しい膚だ。

 しかし、さんざんに汚れた体である。花街とは名ばかりだ。綺麗にみえる花弁の内側は、どろどろと腐った膿で充満している。

 そんな場所で踊って唄って三味線を叩き、挙げ句、男たちに組み敷かれてきた。死んで浄土へいけるはずもないのだ。

「結局、どこへ落ちても地獄地獄」

 懐に手をおくと、かさりと乾いた感触がある。

 はたと思い立ち、玉虫は音もなく河原に駆け寄る。薄汚れた子供たちが絶望の顔で玉虫を見つめる。鬼が訝しげに玉虫を見つめる。

「……こんなもん、川の渡り賃にもなりもしない」

 そんな子供たちの手に、菓子をひとつふたつと、置いて歩いた。

「ああ、落としてしもうた落としてしもうた。しゃあないから、置いていこ」

 子供たちの目が菓子をみてぱっと輝いた。驚くように手の中のものを見つめる子もあった。

 それは随分昔の、自分の姿に重なった。

「置いていこ、置いていこ」

 一人二人と配り歩くうちに、白いだけの経帷子が風に舞う。

 薄暗い郭の中、友禅をひけらかして舞うよりもそれはずっと美しい。


「ああ。雨」


 はたりと頬を打つ暖かさに顔を上げれば、灰色の空より雨が降り落ちたところだった。

 急な雨に、河原の子供たちは小さく歓声をあげる。土の汚れと涙の跡が雨に落とされ、子供たちに笑顔が見える。

「賽の河原に降る雨は、慈愛の雨ともうします」

 気が付けば坊主が玉虫を抱えていた。

 背に負われ、その以外な力強さに玉虫は照れる。

 抱かれたこともあれど、背に負われたのははじめてだった。

 坊主はそのまま河原にすすむと、三途の川にじゃぶりと浸かる。

 なんの躊躇もないその動きに、玉虫はひいと悲鳴をあげた。

「やめよ。やめよ。袈裟が濡れてしまう。うちは泳ぐから……」

 言って聞かせても、坊主は強引に玉虫を背負ったまま、ずぶずぶと水を歩く。

 川では裸で泳ぐ男女があちこちに浮き沈み。地獄のようなその川を、清廉とした坊主がずぶずぶと歩くのである。

「ぼんさんは知らんことかもしれんけど、うちは男にだまされて死んだ体で」

 到底、坊主に背負われ川をわたる権利などないのである。

「そうですね。甘い言葉にだまされて、あなたは死んでしまった」

 坊主がちらり玉虫を見上げる。

「……恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」

 坊主の口から飛び出したのは、昨今はやりの都々逸である。

「あなたは……5つの頃より、見守っていた私よりも、うるさい蝉がお好みだったようで」

 玉虫の目が丸く見開かれた。

「ああ。あんた……」

 触れた肩が、頭が、背が、石の色を帯びていく。体は重いはずなのに、川には沈まぬ。

 それは、彼が仏の眷属であるからだ。

「花街の……おじぞうさん?」

 5つの頃から、玉虫が唯一心を開いてきたのは花街の地蔵菩薩。

 蝉のごとくうるさく愛を囁く客は多い。鳴かず愛を囁く男があればと夢に思うたが、そのような男はついぞ現れなかった。

 ……静かに身を焦がす蛍は、案外近くにいたのである。

「はは」

 玉虫は冷えた地蔵の頭に額を押しつけ、笑う。

「蝉と心中したつもりが、蛍と心中してもうた。身が焦がれるのはうちのほうか」

 さすが花街の地蔵というものは、他の地蔵よりも俗に少々まみれているらしい。

 玉虫を抱くその背は、湿り気を帯びている。

「今頃、地蔵盆で……よおさん人が集まってはるやろうのにねえ」

 花街はちょうど地蔵盆。菓子を配り、破戒坊主が念仏唱え、皆が着飾って灯籠灯りの下で酒を飲む。 

 売られたばかりの子は、玉虫のように菓子に喜び、親に売られた悲しみを忘れる頃である。

「……うちが連れ回して……地獄へ付き合ってくれるんやねえ」

 地蔵の背に、唇を押し付け玉虫は笑う。魂の抜けた地蔵に祈る、花街の連中を思い浮かべると笑みが溢れる。

「さて。極楽やも」

 地蔵菩薩のほほえみは、浄土の笑み。

 ずぶずぶと三途の川の水を浴び、玉虫は遠くに三味線の音を聞く。

 口から漏れた南無阿弥陀仏のつぶやきも、郭の癖か唄の調子に近くなる。

 三途の川の向こうには、柔らかな光が満ちているようである。

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