夏花火、青の憧憬
思えば母は信仰心の強い慎ましやかな女であった。
だから僕は奔放な人に焦がれたのかもしれない。
「入浴剤は好きよ。できるだけ粉がいいわ。色は青ね。高いところから粉を散らすと、青い色がゆっくり……ほぐれて広がるの。素敵だと思わない?」
この女と知り合ったのは、婚約者の父親に紹介された高級クラブだったように思う。
彼女は偶然にも僕の席についた。会話が盛り上がった。数日後、たまたま道で再会した。
どちらが先に誘ったのかは覚えていない。手を握ったのは僕が先であるが、唇を重ねてきたのは向こうが先だったはずだ。
逢瀬の場所は人寂れた喫茶店からホテルとなり、時をおかず彼女の家となった。
生まれて28年。
僕の人生には一度だって失敗の文字はない。慎重すぎる母と厳格な父に育てられたおかげだろう。
母は常に言っていた。
『人の道を邪魔する、人間の皮を被った悪魔は大勢います。けして気を抜かないように……』
母の言葉を、どこかで鬱陶しく思っていたのかもしれない。遅れてきた反抗期である。だからこそ、こんなところでタガが外れた。
自分自身の結婚式をあと一ヶ月に控え、僕はまだこの女を切れずにいる。
「また、ぼうっとしてる」
細い外国製の煙草に火をつけて、彼女は笑う。
苦い香りの煙草だ。それを一度唇に付け……彼女はそれを留める。
彼女は悪戯っぽく笑って、僕の口に吸口をさしこんだ。
「癖でつけてしまったわ」
笑うと涙袋がふっくらと膨らむのが、妙に色っぽかった。
白い煙の向こう、彼女の目元が妖しく光る。
つややかな膚に、長い爪。指の先まで完全なる湿度を持ったこの体は、これまで僕の周りには居ないタイプだ。
夢中になってしまったのは、仕方がない。しかしその夢もそろそろ終わりにしなければならない。
「入浴剤を買ってきたの。みて、きれいな青よ。今から、あたしがここに入るの。素敵だと思わない?」
女が腰掛けているのは、大きな湯船である。
彼女のマンションは、若い女が住むには不相応な部屋だ。
都心の高級マンション最上階。大きな窓からは美しい夜景が広がる。湯船は二人が沈めるくらい広く、床は冷たい大理石が広がっている。
家賃を聞いたこともない。しかし安くはないだろう。彼女は高級クラブ以外にも、なにか別の副収入を持っている……そんな気がする。
彼女の体には、酒と煙草と男の香りが常に染み付いていた。
別れたいと願ういまでさえ、その香りに嫉妬してしまうのは男の悲しさだった。
「みて、入浴剤、ゆっくり湯船に広がっていくの……まるで、花火みたい」
彼女は素肌にガウンを纏っただけのあられのない姿で、綺麗な瓶から入浴剤を湯に落とす。
冗談のように青い粉が湯に落ち、それはゆっくりと広がっていく……濃い青、薄い青。まるでダンスを踊るように。
「あたしね、耐えるとか堪えるとか、身を引くとか……できない女なの」
女はまだ薄い腹をそっとなでて、僕を上目遣いに見上げる。
「……知ってるわよね」
湯はどんどんと青く染まる。その上に、赤や緑、青の輝きが映り込んだ。
「ああ。うるさい。そうね、今日は花火大会だったわ……」
地響きのような音とともに、黒い夜空に無数の輝きが生まれる。
……打ち上げ花火だ。鈍い音は空気を震わせ、空を震わせ、そして黒い夜に輝きを添える。
綺麗な火花の散ったあと、濃紺の空には白い煙だけが靄のように残っている。
まだ始まったばかりなのだろう。時間をおかず、花火は何度も打ち上がる。
「このマンション、普段はいいのだけれど夏のこの時期は困るわ。あたし、本物の花火って嫌いなの。うるさくて臭くて……ねえ、早くカーテンをおろして頂戴」
彼女は僕の口から煙草を奪う。
少し苛立つようにそれを銅製の灰皿でもみ消し、僕に指だけで指図する。
「お風呂上がりには、あなたにはシャンパン。あたしにはぬるいソーダ水。きちんと用意してね、大事な体なんだから……」
ガウンを脱ぎ捨て真っ白な膚を惜しげもなく晒す。その体に花火の輝きが映る。まるで、撃ち抜かれたように。
(誰かが撃ち抜いて……くれれば)
真っ青な顔のまま立ち尽くす僕は、彼女の裸身をただ呆然と見つめていた。
彫像のような真っ白で……完璧な体。しかし、そこに沈むものは邪悪だ。
(邪悪なものは……悪魔だ)
僕は震える手で彼女の肩を掴む。
悪魔というのは、恐ろしい響きである。信仰心の強い母は常日頃から悪魔について僕を様々に諭して聞かせたものである。
人生の邪魔をする、人の皮をかぶった悪魔。
(そんな女がお前を狙っています。けして気を許さないように……)
幾度も繰り返された言葉が今になって身にしみる。
(ごめんなさい……母さん)
「なあに? ふふ、怖い顔……待って、先にお風呂に……」
「あ……悪魔……め」
「悪魔?」
彼女は異常に気づいたのか、半歩、足を引く。
僕は、肩から白い首へ手をゆっくりと移動させた。
「悪魔って……」
(確か、母さんが、言ってた……悪魔は……)
悪魔に一度目をつけられたら、振り払っても振り払っても執拗につきまとってくる。
(……だから……悪魔は)
滅ぼすしかない。
彼女の小さな悲鳴は、すぐに水に沈んだ。
あれから、5年という月日が流れた。
あの花火の夜……僕は彼女をこの手で水に沈めた。彼女が美しいといった、青い浴槽の中で。
暴れる足の音だとか、鋭い悲鳴は花火の音がごまかしてくれた。
どれだけ押さえていたのか覚えてもいない。気がつけば、青い浴槽の中で彼女の髪の毛が海藻のように揺れ、真っ白な体はますます白く染まり、黒い目だけがまっすぐに天を見上げていた。
その湯の上に、きれいな花火が映り込んでいたことだけを覚えている。
怯えて過ごしたのは最初の一ヶ月だけだ。
彼女の死体は『彼女の知人男性』によって翌日未明に発見されたものの、犯人探しは難航した。
彼女には交友関係が多すぎたのだ。
中には反社会的な人間も多かったとみえ、捜査はそちら側に流れていった。
指紋がでやしないか、彼女の腹にできた子の検査で足がつかないか……そんな不安は杞憂だった。
すぐに世間は彼女の事件を忘れ、当然、僕のもとに警察が来ることもなかった。
そして僕は一ヶ月後に予定通り、母の決めた女と結婚式をあげ、1年後に娘を授かったのである。
今宵、すぐ近くで花火大会が行われるらしい。
「パパ」
「だめだよ」
今年4つになる娘は親ばかかもしれないが、愛らしい。
妻の選んだ浴衣をまとい、じっと僕を見上げてくる。
彼女が慎ましくねだるのは、花火大会である。
小さな子がみなそうであるように、娘もまた花火が好きである。
しかし僕は苦手だ。幸い、その理由は妻にも母にも知られてはいない。
「パパは花火大会が苦手なんだ。ママと花火大会にいくといってただろう。ママはどこだ?」
舌打ちを押さえ、僕は読みさしの新聞を机に放り投げる。
「パパ」
娘は言葉少なである……彼女は幼い頃より、パパ、ママ。という言葉以外を口にしない。
どの病院でも異常は見つからず、そのうち、そのうちで数年が経った。
なぜそれ以外の言葉をしゃべれないのか。そのことは妻と僕の間では禁句となり、最近は二人の間に会話も少ない。
今日は娘を連れて花火大会にいくとメモが残っていた。確かに二人は、数時間前に駐車場から出ていったはずである。
しかし、気づけば娘だけ残して彼女は消えている。
怒りを抑え、僕は娘を抱き上げた。
「ママに置いていかれたのか? それにしても何時間も……どこに隠れていたんだ。仕方がないな……花火はお婆ちゃんと一緒に行きなさい。送っていってあげるから」
「パパ、あのね……あのね」
娘の名を呼ぼうとした瞬間、彼女の小さな口から漏れた小さな言葉に僕は愕然とすることとなる。
「あのね、おしえてあげるね」
パパとママ。2つしか言葉を知らない娘が、はじめて会話らしき言葉を口にした。
「おまえ……言葉を」
「ママがね、さいきん、男の人とあっているの」
たどたどしいが、それはこれまで彼女が放ったこともない、言葉である。しかし、内容は幼い声には似合わないものだった。
「なに……」
「パパより、ずっとその人のことが好きなんだって。もう、何ヶ月もよ……今日もね、ついさっきもね……」
言葉はだんだんと流暢になる。
流れるような、色気を含ませた……女の声。
「何をいって……」
「きっとその男の人は悪魔なのね」
彼女の声は、はっきりと……明確に変わっていく。それは、子供の声ではない。
かつて、きれいな浴室で聞いた……声だ。
「お前……」
思わず娘を投げ出し、僕は尻餅をつく。見上げた先に、娘の笑みが見える。
その目には、綺麗な涙袋が浮かんで見える。
彼女は、ゆっくりと浴衣を解く。
その幼い体は白い。真っ白な体にも、手にも、気がつけば、赤い滴りがいっぱいに広がっていた。
「ねえあなた。外に止めた車を見てきて御覧なさいな。綺麗な……赤い花火がふたつ、あがっているわ」
白い裸身、爪の先まで完璧な湿度をもった……完璧な体。
「だから花火大会には行かなくてもいいわ。代わりに、青い入浴剤を頂戴。汚れたから綺麗に洗わなくっちゃ」
「お……まえ」
「ねえ。あなた」
かつて僕が殺した女の声で、彼女は言う。
「なぜ、あたしを殺したの?」
時刻は宵闇。
薄暗い空に一つ、花火が上がる。
同時に、唸るようなパトカーのサイレンが、この住宅街にうるさいほど響き渡った。