夏宵待ちのクリームソーダ
毎年、この季節に訪れる店がある。
「そうだ。喫茶店に行かなくちゃ」
私はそんなことをつぶやいて、白昼夢みたいな白い道で足を止める。
私の目の前に、いかにも年代物な喫茶店があった。
つるつると輝く木の扉、小さな看板に、赤や緑に染められた、はめ殺しの窓硝子。
今はちょうど昼下がりだ。
黒い日傘を閉じると、真っ白な日差しが顔に突き刺さって私は思わず目眩を覚えた。
夏の日差しは遠慮なく降り注ぎ、昔のようなノスタルジック感を与えてはくれない。
そんな光から逃れるように、私は扉を開けてすぐに中へと駆け込む。
「いらっしゃいませ」
……と、涼しい店内に穏やかな声が響き、私は少女のように少し照れた。
薄暗い喫茶店。丸テーブル2つにカウンター席6席程度。
照明を落とした室内は、コーヒーやタバコの香りが染み付いて、薄く茶色に染まっている。
この喫茶店を知ったのは、もう何年前になるだろうか。この季節になると喫茶店のことを思い出す。そしてつい、足を運んでしまう。
「毎年時間、ぴったりですね」
カウンターの向こうに立つのは、渋い顔立ちの店主だった。
薄くヒゲを蓄え、うす青い眼鏡をかけた彼は毎年と同じ白いシャツに、黒の腰巻きエプロン。
じっと見つめるのも恥ずかしく、私は顔をうつむける。
男性をジロジロ見るのははしたない。私はそう母に躾けられた。
しかし彼はそんなこと気づきもしない顔で、言葉を続ける。
「そろそろ来られる頃じゃないかって、先程みなさんとそう話をしていたのですよ」
「まあ」
……隠していた気持ちがじわりと湧き出しそうで、私はその考えを振り払う。
年を重ねた女が抱くには、はしたない妄執だった。
「常連のみなさんは?」
「もう出られました。今年ははじめてのお客様もいらっしゃったので、その方を送るついでに」
「まあ。外は暑いのよ。もう少し日が落ちてから行けばいいのに」
どうぞ。彼がさり気なく指差す席は、カウンターの右端。私の一番のお気に入りの席。
座ると目の前に、小さな鏡がある。女性が使うような、アンティークな手鏡だ。
そっと覗き込むと、歳を重ねた顔がそこにある。走ってきたせいか、髪の毛まで乱れていた。
慌てて……しかし急ぎすぎず、はしたなくない程度に髪を整える。一瞬、店主がこちらをみて少しだけほほ笑みを浮かべた。
「今年は盆休みが会社によってバラバラのようで……いつもよりご家族が早く来られるようなんですよ」
彼は慣れた様子でカウンター越しに冷たい水を差し出す。表面に汗をかいたグラスの水は、一瞬で喉の乾きを癒してくれる。
「ご注文、今年も同じものでよろしいですか?」
「え……ええ、お願いします」
少し照れて頷けば、店主は心得たとばかりにすぐに動き出す。
注文を取る前から分かっていたのだろう。緑色のシロップや、泡の細かい炭酸がすでに用意されていた。
背の高い大きなグラスに真四角の氷がたっぷり詰め込まれ、緑のシロップと炭酸が注がれる。冷たさに白く煙ったガラスの向こう、緑の泡が沸き立つのが美しい。
その上には、少しだけクリーム色がかった……アイスクリーム。
シロップに漬けられて少しだけ萎びれた赤いさくらんぼを上に乗せると完成だ。
目の前にそっと置かれたそのソーダは緑色だというのに、夏の海か夏の空にも見える。
夏の空気がたおやかに上がる、透明感。
「ちょっと子供すぎるかしら。クリームソーダが一番好きだなんて」
少しはにかんで、私はまずアイスクリームを口にした。
暑い日差しに茹だった体内に、冷たさがじんわり広がる。
「クリームソーダはアイスが美味しいのよね。アイスの下の……氷と触れ合った場所の、緑色に染まって少しシャーベットみたいになったこことか」
私は銀のスプーンでアイスクリームを必死に削る。先の小さなスプーンは、上品で愛らしくクリームソーダにピッタリだ。
アイスクリームの底は、緑色に染まっていた。柔らかく、クリーミーで、少しだけ炭酸と甘みを帯びた素敵な場所。
それを食べ、まだ硬い上部のアイスを口に運び、オレンジのストローでソーダをすする。
炭酸の少しきつい感じ、甘ったるいシロップが混ざりきらない味。
それが、古びたカウンター席の色と混じり合い、なんともいえない空気を生み出す。
「あなたはいつも、そうでしたから」
店主はまるで見てきたようにほほえみ、テーブルを拭く。
そしてふと、顔を上げた。
「今年も夏祭りがはじまりますね」
喫茶店の扉の向こう、浴衣姿の人々が通り過ぎていく。
この道の向こうで、小さな商店街の夏祭りが開催されるのだ。
先程まで鋭かった日差しも、今は少し緩んでいる。
「綿あめと……りんご飴と……金魚すくい」
色とりどりの屋台の看板を思い浮かべながら私は呟く。
食べ物の名前を染めたのれん、元気のいい呼び込みの声、生ぬるい熱気もすべてが懐かしかった。
そこをふらふらと歩いて、色んな香りを味わうのだ。なんて素敵な夏の思い出だろう。
汗で湿る体も、祭りが終わってしまえば懐かしいものになる。
「でもね確か……一回しか、行ったことがないの」
私は遠い記憶を探りながら、なんとかその思い出を蘇らせようとした。
「私の家は古くて父も母も厳しかったから……」
「名家のお嬢様ですね」
「そういうのじゃないのよ。でも父の執事やお家のことをしてくれる人もいて……その人達は皆、夏祭りが好きでよく出かけていたようだけど、私は一人娘だから、あまり自由もなくて」
私の家はいわゆる名家と呼ばれるもので、父も母も優しさは見せてくれなかった。
(でも一回だけ……)
私はストローで揺れる氷の音を楽しみながら目を閉じる。
浮かんできたのは、とぎれとぎれに浮かぶ夏の情景。
それは、人生で一回だけ行った夏祭りの風景だ。
優しかった人が、私を一度だけ夏祭りに連れ出してくれたのである。
その時、休憩で立ち寄った喫茶店。そこではじめてクリームソーダをいただいたのだ。
それはまだ娘時代。きらきらと輝くような思い出は、眩しすぎて記憶の遠い彼方にある。
(……あら)
残り少なくなったソーダを名残惜しくすすりながら、私はふと首をかしげる。
(厳しい両親は、その後どこにいったのかしら……私はおとなになってから……なにを?)
「では今年、お祭りをご一緒しませんか?」
「えっ」
急に店主から漏れた一言に、私は先程まで考えていたことを忘れて腰を浮かした。
胸がきゅっと痛くなり、どきどきと体中が踊りだす。
クリームソーダを一息で飲んで、私は裏返る声で言った。
「お……お店はいいの?」
「もう、誰もいらっしゃいませんよ。次……来られるのは、みなさんが戻られる、16日か17日頃でしょう」
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えようかしら」
彼が姿勢良くカウンターから出てくる。
私は日傘を掴み、震える足で彼の後ろをついて歩く。扉を開ければ、茜色の温い日差しが顔を打つ。
みんみんと、蝉の声が間延びして聞こえた。
店の前には小さな商店街がある。紅色にとろりと溶けたそこを、大勢の人たちが歩いていく。
道の向こう、屋台の影が揺れている。夕日の色の中で、美味しそうな湯気がゆっくりと上っている。
それはひどく懐かしい風景だった。
見たことなど、ないはずなのに。
「はぐれてはいけないので、よろしければ、どうぞ」
彼が差し出す腕に、おそるおそる私は自分の手を通す。
暖かさと懐かしい匂いが……私の鼻をついた。
「私も昔……こうして」
腕を抱きしめるように彼に近づく。顔を見上げる……。
「こうして……あの人と……」
その瞬間、私はすべてを思い出した。
「ああ……」
「思い出されましたか、お嬢様」
男は……かつての我が家の執事は、私の顔を覗き込んで優しく微笑む。
かつて、私を誘い出し、夏祭りに連れ出した男。
かつて、私にクリームソーダの味を教えた男。
それは、父の執事たる彼である。
私が20歳の頃、家が定めた夫のもとに嫁いだ時から、一度も会っていない……生前は。
「今年も息災で喜ばしい限りです」
「いやだわ。私もお前ももう死んでるのよ」
私は口をおさえて笑う。
いつからだろうか。
盆の季節になると、私はこの喫茶店の前で目覚めるようになっていた。
幸いなことに、死んだときの記憶は曖昧である。
恐らく病気だ。
私が老いる前に両親は没落し、子はなく、夫とはすでに離縁していたため、最期は一人だった。寂しい最期だったように思う。
その生前の寂しさや悲しみを私はあまり覚えていない。それは幸福なことである。
覚えているのは実家で暮らしていた娘時代のことばかり。
私はその頃、ずっと年上の執事の男に恋をしていた。
その恋を秘めたまま遠方に嫁ぎ、恋は知られることのないまま私と一緒に天へとのぼった。
その妄執が死してなお、こんな幻覚を見せているのかもしれない……終わらない夏の夢を見させているのかもしれない。
(幻覚かしら?)
私も彼も、すでに死んでいるはずである。
私は男の腕をきゅっと握りしめる。
この暖かさも、優しさも、香りも……いや、幻覚とは思えない。
「私もお前も……幽霊なのかしら……でもね、極楽だか地獄だが、そこにいる時の記憶はないの。夏以外の記憶がないのよ。生きていた頃の記憶も……毎年薄れていくの」
私の意識は必ず、夏の日差しとともにはじまる。
毎年行く喫茶店……その店の前に立つところから、私の意識ははじまる。
店の内装も、常連客との会話も、何もかも覚えている。そのくせ、彼と自分の関係だけを綺麗に忘れるのである。
椅子に座ってクリームソーダを飲み、夏祭りを眺め……そのうち、私は今のように彼のことを思い出すのだ。
……思い出すが、一緒にいられるのは盆の間の数日だけ。それが終われば、私の意識は記憶のない場所に消えていく。
翌年の夏、もう一度帰ってこられるかどうか、わからないまま。
過去の記憶を思い出すのは毎年まちまちで、クリームソーダを飲んだときに思い出すこともあれば、彼の顔を見て思い出すこともある。
今年は、彼に触れて思い出した。
「ねえ。お前、今年はどれくらいかかった?」
「まだ昨年よりは早いですよ。昨年は、お別れする直前に思い出したでしょう?」
彼はほのぼのと笑うが、その表情に私は胸が押しつぶされそうになるのだ。
「お前が……教えてくれたらいいのに」
「思い出していただける瞬間が好きなのですよ」
彼はなぜか、死者と生者の行き交うこの街の一角で、喫茶店を経営している。
お盆の季節、死者たちはこの店に立ち寄って休憩し……そして懐かしい場所へとかえっていく。
数日後、彼らはさまざまな乗り物と思い出話を胸にここに戻り、そして消えていく。
成仏をしてしまうのか、顔なじみの人々は毎年一人減り、二人減る。
代わりに新しい常連が入る。その繰り返しだ。
その無限の繰り返しの中、彼はただ一人で死者を待ち死者を送り……私を待ち私を送る。
彼の最期は聞いたことがない。しかしこれが何かの罰であるとするならば、これほどひどい罰はないだろう。
私達は成仏という道から外れ、夏という季節を漂う存在である。
「お前は……相変わらず喫茶店をしているのね」
「最近では有名になりまして、お盆の行き帰りに皆様よく立ち寄っていただけます」
しかし、彼は寂しさも微塵も見せない顔で笑った。
「なぜお前だけ記憶があるのかしら。私は……夏がくるたび忘れてしまうのに」
私は悔しく、唇を噛みしめる。
彼だけではない。どの客も皆、自分が死者であることを認識している。
毎年喫茶店に立ち寄ってから、家族の元へ里帰りするのを楽しみにしている。
だというのに、私は自分が死者であることも彼のこともすっかり忘れているのだ。
せっかく思い出しても、また夏が終われば記憶が失われるのだ。
苦しい恋の連鎖である。
「しかし、必ず思い出していただける」
「まぐれかも。いつだって怖いわ。次は思い出せなかったら……どうしようって」
二人の横を、屋台がどんどんと通り過ぎていく。
ここは生者の祭りでもあり、死者の祭りでもある。
死者の出す屋台、その隣には生きた人間が声をあげる屋台。赤や青の綺麗なのれん、可愛い染め抜きの文字。
すでに日は落ち、薄暗い。色んな匂いと音が混じり合い、煙の向こうに屋台の明かりが滲んで見える。
「懐かしいわね。お前に連れて行ってもらった夏祭り。秘密の喫茶店のクリームソーダ……」
……はるか昔、彼に連れられてこっそり覗いた夏祭りは、こんな風景だった。
すぐに連れ戻されて彼は父にひどく怒られ、私も母にこんこんと諭された。
しかし、あの日のことだけが私の中に強い思いとして残っている。
「……私がこの風景に執着しているせいでお前を捉えているのかも」
「私の執着のせいかもしれません」
私達の言葉が同時に重なった。驚いて彼の顔を見ると、めったに照れない男の耳が赤く染まっている。
「私が、生前、お嬢様に抱いた……執着が」
私は熱くなった頬を彼の腕に押し付けて、裏返る声でいった。
「ら……来年からは喫茶店の扉を開ける時に気づくわ。きっとよ」
「楽しみにしています」
どこからか、盆踊りの曲が聞こえる。
小さな子供のそばには、半分透けた年寄りの笑顔。女の横に寄り添うような死者の影。
あちらに生者、こちらに死者。
天国も地獄も此岸も彼岸も地続きとなるこの時期は、世界の面積がぐっと小さくなるのだ。
だから私は仕方なく、彼の体に自分の体を密着させる。
「……きっとよ」
夏祭りの熱気が、私の耳元を駆け抜けていった。