緑羅の焦燥
その日もいつものように、緑羅は苛立ち、指先でかつかつと肘掛けを叩いていた。
父から呼び出され、あの呪いの言葉を聞かされた日はいつもこんな感じだ。
この争乱は緑羅の父である青羅が、大陸を治めていた貴の国の王を討ったことから始まった。
貴の国が長い大陸支配の中でご多分に漏れず疲弊し、腐敗していたからこそ、たいした身分があったわけでもない青羅にも、簡単に討つことができたわけだが。しかし、大きな後ろ楯を持たないことで大陸を支配するには至らなかった。
それでも、青羅は初めのうち、理性的な良い王になれると民衆から歓迎されていた。しかし、ある日、ふらりと現れた占い師から予言を受けてしまったことで、その評価は一変する。
占い師は言った。
「あなたは、貴の国の血を引く者にその命を奪われることになるでしょう」
貴の国の血を引く者など既にいない。貴の国の王を討った時に全て滅ぼしたはずだと誰もが思った。しかし、ただ一人、青羅だけはそう考えなかった。
「瑠の字を継ぐ娘…」
瑠とはこの大陸の東に寄り添うように浮かぶ島国で、代々「瑠の字を継ぐ娘」と呼ばれる、不思議な力を持つ者が、支配する国だ。
貴の建国にこの「瑠の字を継ぐ娘」が力を貸したという伝説から、貴の国の妃は「力を失った瑠の字を継ぐ娘」と決まっていた。
緑羅にはよくわからないのだが、どうやらこの不思議な力とやらは、年齢を経るごとに失われていくらしい。その力を失った者は昔、贄として神に捧げられていたそうだ。
それを妃として迎え入れたのが初代貴の国王であり、それ以来ずっとそうしていた。
だから、先の国王も瑠の字を継ぐ娘を妃に迎え入れ、子が産まれた。しかし、その子が公にされることはついになかった。本来、祝福されるべき、ことなのにまるで無かったことのようだった。
人々は異変を感じて噂した。
ある人は「死産だった」と言い、また、ある人は「無事産まれはしたが、程なく亡くなった」と言った。
しかし、どんな話より強く囁かれたのは「本来、この大陸に産まれるはずのない『瑠の字を継ぐ娘』だった」という話だった。「だから、公に出来ないのだ」と。
仮にもう一人男児が産まれたとしても瑠の字を継ぐ娘を妃として迎え入れることはできない。なぜならば姉弟だから。これは滅びの予兆なのでは……と。
しかし、これはあくまで噂だったはずだ。
言っている者達も本気でそう思っていたわけではなかっただろう。
だが、ここに来て青羅がその話を信じた。
「それ以外にはあり得ない。瑠の字を継ぐ娘を捜しだしその命を断たなくては、いつか自分が殺される」
青羅はそう信じた。
そこで始まったのが「瑠の字を継ぐ娘狩り」と呼ばれるものだ。
それは、その年頃の娘を全て「瑠の字を継ぐ娘」として処刑するという凄まじいものだった。
本当にいるかどうかもわからない娘の代わりに次々と命が奪われていく。
これでは「良い王」なんぞになれるわけもなく。
青羅は身分としてはそれほど高くないながらも、その人柄が買われ、一度は大陸の半分を掌握していた。しかし、この行動は次々と離反を生む。気がつけば、羅の国は四方を敵に囲まれ存亡の危機に瀕していた。
緑羅が呼ばれたのはこの頃だ。
それまでの緑羅は、適当な身分の元、適当に生きていた。その頃、何をしていたのかさえ、今となってはよく覚えていない。ただ、幼い頃から面倒を見てくれていた冬雅の頼みを断れず、羅の国と呼ばれるようになった生まれ故郷に帰って来た。
今までだって、父を尊敬していたわけではないが、久しぶりに父を見たとき、あまりの変貌ぶりに背中に冷たいものが走った。
目は落ち窪み頬はこけ…絵に描いたような「何かに取りつかれた狂人」の様にその場で逃げ出したくなる衝動を抑え、なんとか説得し、表舞台からご退場いただいた。それが、今から三年前のこと。
表舞台からのご退場により、「瑠の字を継ぐ娘狩り」は終わったが、代わりに、緑羅は父の呪いの言葉を聞く。
「瑠の字を継ぐ娘を殺せ」と。
それを聞いた日は、誰が見てもわかるほど、いや、自分でも抑え切れないほど苛つくのだ。
四方が敵だらけの状態は、今でも変わらないが、それでも、多少は良くなった。
それもこれも、勝のお陰だ。
数年前、旅先で出逢ったこの年上の友人は、こういう方面での非凡な才能を余すところなく発揮し、少しずつ領土を広げていくことに成功していた。
それでも。
勝てない戦はある。
一月ほど前、羅の東北に位置する伊の国から急に攻撃を受けた。
急とはいえ常にその備えはあった。だからこそ、逆に伊の国を追い込むことができた。
あと一息だった。
たった一つ、あの砦を落とすことができなかったために勝てなかった。
「勝てない時というのはこういうものだ」
勝は穏やかにそう言ったが、そう簡単に悔しさは晴れない。砦の前で身動きが取れないでいた間に、和平を持ち込まれ、勝はその交渉でここ数日不在にしている。
羅の国から示す和平の条件はたった一つ。
「あの砦を守りきった武将をこちらへ引き渡すこと」
それだけだ。
あの砦を守り抜いたその将は、驚くほど強かった。兵を上手く束ね、何よりその信頼を勝ち取ることができる実力を持っている。
是非、羅の国に欲しい。緑羅も勝もそう考えた。
相当、優秀な奴だ。そう簡単に手放してもらえるとは思っていない。だからこそ、勝を派遣したのだ。
そもそも、緑羅が来た頃の羅の国の兵力は大陸を見渡しても弱小の部類だった。それを剣闘士を登用することでなんとか肩を並べられる程度にまで持ち上げた。
「どうせやるなら勝ちたい」
緑羅はそう思っていた。
勝つことで苛立ちは薄れていく。
争乱が始まる前から感じていた焦燥は、勝つことで和らぐことを緑羅はこの数年で学んでいた。
だからこそ。
あいつが欲しかった。
「今、戻った」
勝の声が聞こえ、緑羅は思わず立ち上がる。
「意外と早かったな」
勝が発ってから、まだ五日は経っていない。もうしばらくかかるものかと思っていた。
「ああ。意外とあっさりこちらの要求を呑んでもらえたから」
勝は緑羅の傍のいつもの場所にゆったりと座った。
「では、もう来ているのか?」
早く会いたい。緑羅の気は逸った。
「ああ。来てはいる。ただ…」
珍しく勝が言い澱む。少し困った様に首をかしげ、一度、大きく息を吐く。
「まず、あの者だが。武将ではなかった。だからこそ、簡単に手放してもらえたのだが…」
「武将ではない?」
別にそれに拘るわけではないが、だとしたら何故最後まで重要な砦を任されていたのか、理解出来ない。
「簡単に言うと。あの砦を守っていた『本当の武将』はあっさりと逃げ出したそうだ。代わりとなったのが、剣闘士あがりのあの者だった。こちらが『あの武将をいただきたい』と告げたときの騒動はただただ面白かったんだが」
曰く。まずは「本当の武将」が呼ばれたが、引き渡しを要求したところ、あっさり「自分ではない」と白状したそうだ。
「処刑されるとでも思ったんだろう。でも、それまで『救国の英雄』扱いだったからな……」
だが、そうすると更にわからない。何故、手柄を横取りされて黙っているのか。
「そこがよくわからないってのはわかるが、その気も起きないようなひどい扱いを受けていたのも確かだ。連れては来たんだが、あまりにひどい姿だから、今は身体を清めさせている。あの国で剣闘士あがりでは、人間扱いされないのも仕方ないのかもな」
なるほどな。緑羅は思う。
そもそもが大した身分ではなかった羅の国と違い、伊の国は貴の国でも身分が高かった者が建てた国だ。
「闘牛の牛、闘犬の犬」と同じと言われる剣闘士を雇い入れただけでも不思議なくらいだ。
「まぁ、雇い入れたのは、伊の国の王女である伊奈だそうだが。なかなか賢い姫でな、とりあえず、緑羅、お前に嫁いで来るそうだ。一応、遠慮はしたんだが、もう一度攻められたら、今度は伊の国が負けるからと言い出してな。最もだと思ったから…」
「了承したのか?」
緑羅の問いに勝はにっこりと答える。
「まぁな。断るのも失礼かと。緑羅も嫁の一人や二人いてもおかしくない年齢だし、美しい姫君だったよ」
緑羅は大きく溜息を吐く。確かに勝の言う通りだが。
「さて、そろそろ迎えに行って来る」
勝は立ち上がって部屋を出て行く。珍しく言い澱んでいたのは「武将ではない」ことではなくてこのことだったのかと緑羅はもう一度盛大な溜息を吐いた。
いくらか待つと、もう一度、勝の声がする。
「緑羅、入る」
「ああ」
勝は扉を開き、後ろに付いている者に入るよう促す。
「えっ?」
小さい。
確かに勝は背の高い男だが、それにしても小さい。「鬼神のごとき」と言われたその戦いぶりから、大男を想像したせいか、その差にただ驚く。
整った所作で緑羅の前に立つと、これもまた驚くほど優雅に一礼する。
「水都と申します」
男と表現するより、少年と表現する方がまだしっくりくる。
いや、それよりも。少女と見紛うほどだ。
少女と見紛うほどの美しさ。今まで見たどんな女よりも美しい。
砦を守るどころか、剣を振るう姿すら想像することができない。
思わず勝を疑う。
「本物か?」
つい零れた一言を聞いても、水都の表情は全く変わらない。いや、そもそもその表情には何の感情も表れていない。緑羅はそれに、多少の不気味さを感じざるを得なかった。
「勝、剛流を連れてこい。勝負させる」
「はい」
その不安を悟られないよう声を張った。しかし、それでも、水都の表情は変わらない。視線を下げ微動だにしない。その様子から、声をかけることすら憚られた。
「連れてきたぞ」
勝が連れて来たのは、やはり元剣闘士。羅の国最強の剣の遣い手だ。
剛流は水都を一瞥し表情を変える。
「剛流、こいつと戦え。手加減はいらない」
「手加減?」
そう言うと剛流は大きく息を吐く。そして、何かを呟いてからさっと剣を抜いた。
水都も剣を抜く。その身体に似合わない大振りの剣。
ここにきても水都の表情は変わらなかった。
「いくぞ」
剛流はぼそっと言う。水都はこくりと頷いた。
彼らには彼らの合図があるのだろう。一度音も無く、それぞれの剣を交わらせ、次の瞬間、それが始まった。
最初は、剛流が打ち水都がそれを受ける。しかし、防戦一方のはずの水都の表情は、まだ変わらず、緑羅は剛流の必死な表情に驚く。
そのうち、受けるだけだった水都が一太刀、二太刀と攻撃を浴びせ始める。それは端から見ていても正確で、徐々に剛流を追い詰めていく。
緑羅は、水都の無駄のない動き、変わらない表情に目が離せなくなった。
こいつは…本物だ。
更に、水都からの攻撃が増える。気がつくと剛流が防戦に必死だ。
その中で、水都は剛流がやっと繰り出した剣を受けて、一度すっと視線を下げる。
ふっと往なして視線を上げたとき、緑羅は背中に冷たいものを感じた。
微笑んでいる。
口角を少し上げただけの微笑みだが、それはぞくぞくするほど妖艶だった。
次の瞬間、水都は剛流の剣の隙をつきその首筋に剣を突き付けていた。
「そこまで!」
勝の声で、水都はその妖艶な表情を元の無表情に戻し、剣を収めた。
「うわあああっ」
今の今まで気付かなかったが、窓の外は武将や兵士達で一杯だ。
後で知った話だが、大陸最強と言われた剣闘士同士の戦いを観ないわけにはいかないと、ほぼ全員がそこにいたらしい。
「緑羅、もういいだろう。剛流、水都を部屋に案内しろ。お前の部屋の隣に用意してある」
「わかった。水都、案内する」
剛流が自然に水都の名を呼んだので、緑羅は少し驚く。
「知り合いか?」
剛流は振り返り頷く。
「元々同門の剣闘士だからな。俺は一度もこいつに勝てたことが無い」
「冗談だろ」あの時の剛流の呟き。あれは聞き間違いではなかったのか。
「水都、これからはよろしく頼む」
緑羅は去っていこうとする水都に声をかける。水都は振り返り
「こちらこそ」
と言うと、鮮やかに一礼し部屋を出た。
「なんだ?あいつは」
水都がいる間、部屋に緊張感が漂っていたせいで息苦しさを感じていた。だから、出ていった瞬間、緑羅は大きく息を吐いた
「あの砦を守り抜いた者だ。あれくらいはやるだろう」
いや、そうじゃない。そういうことを言いたいのではない。
では、何が言いたいのか?
あの表情のなさか。
あの強さか。
それとも、あの美しさか。
どれをとっても、緑羅が今まで会ったことのない種類の人間だということだけがわかっている。
「いくつなんだろうな?」
その容姿から、二十歳は越えていないだろう。
「さぁ。道中ずっとあの調子で、自分のことは一切話さなかった。話したことと言えば、名前と馬のことくらいかな」
「馬?」
何故、馬?
「伊の国では馬番だったそうだ。あと、水都にしか扱えない馬を一頭渡されたのでその話を」
あいつにしか扱えない馬?
「ひどく気性が荒い黒い馬。水都は賢くて勇敢だと言っていたが、伊の国とっては厄介払いだな。一度、見てみるといい。伊の国王が金にモノを言わせて買っただけあって、綺麗な馬だ」
「大枚叩いて自分の乗れない馬を買ったわけだ。この御時世に呑気なことだ」
緑羅は呆れ返る。
「そうだな。きっと水都もそんな風に買われたんだろう。伊奈に言われたというより、大陸一美しい剣闘士をただ自分のモノにしたかったのではないかと思う。だから、事が起こるまで馬番をさせていたんだろう。剣闘士を武将として同列に立たせるわけにもいかないとでも思っていそうだ」
「勝、前から水都を知っていたのか?」
勝の口調から何となくそう思う。
勝に闘技場通いの趣味は無かったはずだが。
「時々、兵士達の話題に登ってたから、名前は聞いていた。緑羅は全く知らなかったのか?」
緑羅は頷く。知っていたら、あんなに驚くことも無かった。
「よく兵士達と話をしているから。意外だな」
あいつらだって話題は選ぶ。
剛流の目の前で、それより強い剣闘士のことを、俺に話すわけがない。
こうなるまではあいつらに近い生活をしていたから、話をすることは多い。だが、実際に腹を割って話すところまでは至っていないということはわかっていた。
今の緑羅の立場では、それも仕方がないということも。
「とりあえず。良い武将を手に入れたと喜ぶべきか」
大きく伸びをしながら、緑羅は言う。
「今は一人でも多く優秀なのが欲しいところだから、働いてもらうとしよう」
自分に言い聞かせるように緑羅は呟いた。