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家に帰った曜子は、テレビをつけた。アナウンサーが抑揚のない声でニュースを読み上げていた。
「北朝鮮自治区は、今日も不穏な空気に包まれています」
今から百年ほど前に、北朝鮮は大国中国に飲みこまれた。そして日本政府は以前北朝鮮があった場所に、北朝鮮自治区を作りあげた。
北朝鮮自治区には日本政府の力を借りて北朝鮮の独立を成し遂げようとする軍人と、日本政府の力を借りずに国家として自立を図ろうとする人々がいた。北朝鮮自治区が出来てから何年も経つのだが、この両者には深い溝があり、衝突を繰り返していた。
「こちらではくり返しデモが起こっています」
現地にいるレポーターが、興奮した様子で言う。
曜子の胸は痛んだ。そしてそんな自分を、今まで北朝鮮自治区のことなんてほとんど関心を払っていなかったのにどうしてだろう、と不思議に感じた。
「曜子の同級生にもいるんじゃない? 北朝鮮自治区出身の人」
曜子の母親が、ダイニングキッチンから声をかける。
「う、うん。いるよ」
「大変よね。曜子、気遣ってあげるのよ」
そう言って曜子の母親はテレビに背を向けた。
曜子は思った。もしかしたら、星桂のことが気にかかったのかもしれない。多分、友達として。
曜子はその夜、どうしても寝られなかった。
火曜日の放課後、早めに授業が終わった曜子は、コンピューター室へと向かった。そこには星桂が一人だけ先に着いていた。
「早いのね」
「ああ。さっきの選択制の授業、自習だったんだ。座ったら?」
星桂が向かいの椅子を目で指す。
「うん」
そう言って曜子がその椅子に座る。
「ねえ、星桂。星桂はどうして西洋占星術に興味を持ったの?」
「どうしたんだ? 突然」
星桂が笑う。笑うと年相応の幼さがにじみ出る。曜子にはそれが何となくうれしい。共同研究を始めたころは、随分と居丈高な態度だったのに。彼は意外と親しくなると変わるタイプなのかもしれない。
「私、以前誰かからちらっと聞いたことがあるの。星桂の先祖は北朝鮮の高官だったって」
星桂の顔色が変わる。
「……それが、どうしたんだ」
「その高官の末裔が、どうして西洋占星術を学ぼうと思ったのかなって、不思議に思って」
「……」
星桂は沈黙する。
「ごめんなさい。変なこと言って。単純に疑問に感じただけなの。気に障っちゃった?」
曜子が星桂の顔色を窺うように見る。
「いや、気に障ってはいないよ。ただ、なんだか驚いてしまって」
「驚いた?」
「昨日のニュースで、北朝鮮自治区の暴動をやっていただろ? それで今朝から腫物を扱うような接し方をされていたから」
「ごめんなさい! 私ったら」
曜子が顔を真っ赤にして頭を下げる。
「いや、いいんだ。そうした扱いを、俺は気詰まりに感じていたから。だから曜子の問いかけがなんだか新鮮でさ。それで驚いてしまったというわけ」
星桂がそこで曜子に笑いかける。気分を害したわけでは本当になさそうだ。
「質問に答えようかな。俺がなぜ西洋占星術を学ぼうと思ったか」
そう言って星桂は一呼吸置いた。
「それは俺の国を滅ぼしたものの原因の一つに、『占い』があったからなんだ」
「占いが?」
「二千年代に活躍した占い師、水沢晶子を知っているか?」
「ええ、まあ。水沢晶子。通称スイショウさんのことよね」
「その水沢晶子、スイショウさんが、二〇二〇年ごろに予言をしたんだよ。『北朝鮮は二〇二八年に、中国に併合されるだろう。巨大な赤い蛇が蛙を飲みこむがごとく』って」
「でも、それはあくまでも占いでしょ。その一言で国家が滅ぶなんてこと……」
「もちろんそうだ。だがその予言がボロボロだった北朝鮮にとどめを刺すことになった。中国は日本の一占い師の発言を好機ととらえ、あたかもそれが本当に起こることかのように喧伝した。そして内通者を作り、中国の実力者を送り込み――もっとも、これは予言以前に行われていたことかもしれないが――、あとは首をすげ替えるだけ、という状態を作った。そして二〇二八年、北朝鮮の最高指導者は暗殺された」
「そんなことが本当にあるなんて……」
「俺は祖父からそう聞いているよ。百パーセント信じているわけではないけどな」
星桂は落としていた視線を上げ、こう続けた。
「俺はスイショウさんのことを恨んでいるわけじゃない。ただ、知りたいだけなんだ。占いで何が、どこまでわかるのか、さ」
「そのスイショウさんのメイン占術が西洋占星術だったというわけね」
「そうだ」
星桂が短く答える。
「それで、わかりそうなの? 実際に西洋占星術を学んでみて」
「西洋占星術は奥が深くて。ただ、気づいたことがある」
「どんなこと?」
「西洋占星術は、占術を行使する人間によって答えが無数にある、ということさ」
「それは他の占術でも同じことが言えると思うわ」
「そうだな。同じ『結果』が出ても、その結果の『伝え方』が一つとは限らない。答えは無数にある。スイショウさんの予言だってそうだ。二〇二八年の東アジア諸国をプログレス法で占ってみると、確かに北朝鮮と中国は印象的な星図を形成していた。でも、その星図だけで北朝鮮の滅亡を予言することが出来たとはとても思えないんだ。これは俺の勉強不足かもしれないけれど」
「何か別の方法や占術を使ったのかしら」
曜子も思案顔をする。
「わからない。だからこそ、惹かれるんだと思う」
そう語る星桂の目は爛々と輝いていた。その目が本当に綺麗で、曜子は吸い寄せられるようにその目をじっと見つめた。
曜子がまばたきした瞬間、唇に温かいものが触れた。キスをされたのだと気づいた時、星桂が声を発した。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「それは……」
星桂が困ったような声で言う。
そのとき、ドアの近くで何かが落ちる音がした。
二人がドアの方を向くと、そこには璃茉が立っていた。
「璃茉!」
曜子が声を上げると、璃茉は走ってその場を去ろうとした。
「待って」
曜子が追いかける。
璃茉は曜子にあっけなく追いつかれた。
「……泣いてるの?」
涙のような雫が一滴、廊下にこぼれていた。
璃茉が振り向く。
「泣いてないわ」
「泣いてるじゃない」
曜子にはわけがわからない。
「アンタって本当に鈍いわね!」
曜子が小首を傾げる。
「私はたった今、失恋したの」
「失恋って、誰に……。えっ、星桂?」
曜子が目を大きく開く。
「だって璃茉、はじめはあんなにいがみ合ってたじゃない。それがどうして……」
「私にもわからないわよ! 私の家のことを話した時にやさしい言葉をかけてくれて。それから意外といい奴なんだなってなんとなく意識しはじめて……。でもそれだけの、はずだったのに」
璃茉がくやしそうな顔をする。曜子はなんと言っていいかわからず、絞り出すように
「ごめん」
とだけ呟いた。
「やめてよ。私がみじめになるだけだわ」
璃茉はそう言って曜子に背を向けた。曜子が璃茉の肩に手を掛けようとすると、強い力で振り払われた。
璃茉は走って去っていく。
「璃茉……」
そう呟いて、曜子は立ちすくんでいた。
アナンはそんな二人の一部始終を見ていたが、声はかけなかった。