4
崇峻天皇五年(五九二年)、十二月。
雪がしんしんと積もっていた。
邸の一室に、妙齢の女性と、それより二回りほど年下の男性が一人ずついた。
「初瀬部皇子(崇峻天皇)も、馬鹿なことをしたものです。浅はかというか、短慮というか……」
「叔母上……」
厩戸皇子、後の聖徳太子はたしなめるような、呆れたような口調で額田部皇女(推古女帝)に声をかける。彼女は厩戸皇子の父親の同母妹、よって皇子からは叔母にあたる。
「公の場で、献上させられた猪を見て『いつかこの猪の頭を切る様に嫌なやつの首を切りたいものだ』と言うだなんて。敵に付け入る隙を与えるようなものでしょう。不用意にもほどがあります。いくらお飾りの大王、というのが面白くなかったとはいえ、ね」
崇峻天皇は、一時しのぎで立てられた大王だった。大王は辺鄙な山奥の倉梯の宮に移され、肝心の政は額田部皇女やその叔父蘇我馬子が執る、という有様だった。
「私の叔父の悪口はほどほどにしておいてくださいよ」
厩戸皇子がくすっと笑って言う。初瀬部皇子は皇子の母親の同母弟だったのである。
「そんなことを言ったら、初瀬部皇子は私の異母弟だわ」
これまた笑って額田部皇女が答える。
「正直、たくさんきょうだいがいるものだから、実の弟が殺されたというのに、あまり情が湧きませんのよ」
額田部皇女は、冷めた表情をしていた。そうした表情をしていると、彼女の怜悧な美貌はますます際立つ。
「初瀬部皇子は蘇我の叔父上に弑逆されました。臣下が大王の首を刎ねるというのは異様なことだけれど、起きてしまったことは仕方がないわ」
「そうですね」
「皇子、なぜあなたが呼び出されたのか、あなたならわかっているでしょう」
「念のため、お聞かせ願えますか?」
厩戸皇子はうっすら笑みを浮かべて言う。
「本当に聡い皇子だこと。私から言質をとるつもりね」
「私が勝手に動いたことにされては困りますからね。後になって不利になることがないように。備えあれば憂いなし、というやつです。出る杭は打たれる、とも言いますからね」
「頼もしいこと。では私から命じます。私は大王となります。厩戸皇子、あなたには摂政を任じます。この上は私を助け、朝廷のために働きなさい」
「大王の仰せならば」
厩戸皇子は深々と礼をする。
「伯母上、いえ大王。蘇我の大叔父は、あなた様になにを呈示したのですか?」
「なにって?」
すましていた額田部皇女の表情が一瞬崩れた。動揺、のように見受けられる。
「伯母上は敏達天皇の大后として、確かに朝政に携わってこられた。だが女性が大王として立つ。これは我が国はじまって以来のこと。引き受けるのには、相当な覚悟が必要だったと思われますよ。ならばそれに見合うだけの対価を、と考える方が自然でしょう」
額田部皇女はしばらく沈黙していたが、やがて観念したのか口を開いた。
「厩戸皇子。我が甥ながら、なんと頭の回転の速い……。ならばすべてを話しましょう」
額田部皇女はそこで一呼吸置いた。
「初瀬部皇子は私の叔父蘇我馬子に殺されました。今後も朝廷では馬子が政治を主導することになるでしょう。私を大王にというのは、群臣たちからの嘆願でもあるのです。馬子の姪である私なら、馬子と上手くやりながらも大王家の威信も守れるのではないか、とのね」
「それはわかっています」
「蘇我の叔父上はこう言いました。『あなた様が大王になってくだされば、私どもは竹田皇子を全力でお支えしましょう』とね。私の生んだ皇子、竹田皇子をゆくゆくは大王の位につけること。これがあなたの言うところの対価です」
すると厩戸皇子はくっくと笑い始めた。
「何がおかしいのです」
額田部皇女は少し気色ばんで問い返す。
「聡明な伯母上もまた、一人の母親だと思ったら、なんだか微笑ましくて。それでつい笑ってしまったのですよ」
厩戸皇子は額田部皇女の目をじっと見つめた。二人の視線がぶつかる。先に目を逸らしたのは、額田部皇女の方だった。
「私は竹田皇子の母親です。母が子を思って何が悪いというのですか」
「悪くはありませんよ。ただ、あなた様が大王となれば話は別です。朝政に私情を挟むのはもってのほか。まして親子の情など、とんでもない!」
額田部皇女はうつむいている。
「それに、です。大王の位につくことが、竹田皇子の幸せとは限らないでしょう。初瀬部皇子は、愚鈍だったから臣下に殺された。他の臣下が蘇我の大叔父を処罰せず、その行為を黙認したのがその証拠です。竹田皇子が初瀬部皇子のようにならないと、誰が保証できますか!」
「厩戸皇子は、我が子竹田皇子が、初瀬部皇子のように愚昧だと、そういうの……」
額田部皇女の声は少し震えていた。
「いいえ。私はただ、可能性の一つを言ったまでです」
厩戸皇子はなおも続ける。
「竹田皇子は立派な人ですよ。ですが、人の上に立つほどの器量かと問われると、首肯は出来ない。まだ若いということもあるのでしょうが、勝気で人に譲るところを知らない、というところがある」
「若いと言ったって、竹田皇子はあなたと同年代でしょう」
「ええそうですとも。私もまた若い。だから私は大王にはなりません。少なくとも、今のところは、ね」
「蘇我の叔父上は、あなたにも打診したのね」
「そんなことはどうでもよいではありませんか。大王は伯母上で決まったのだから」
厩戸皇子は涼しい顔をして言う。
「私と蘇我の叔父上との密約を聞いて、私を大王の座から下ろしますか」
「そんなことはしませんよ。ただ、一つだけ進言しておきます。大王として生きることを決めたのならば、母としての情は捨てることですね。それがゆくゆくは竹田皇子のためにもなるというものですよ」
額田部皇女はしばらく黙っていたが、やがて口を開いてこう言った。
「わかりました。蘇我の叔父上には、竹田皇子のことはなかったことに、と伝えておきます。私は、大王家のため、この国のために、政務を執ることにします」
「それでこそ、聡明な敏達天皇の大后、私の伯母上です。わが国最初の女帝にもふさわしい」
「なんだかうまく丸め込まれたような気がするわ」
額田部皇女はふうっと息を吐いた。
数日後、額田部皇女は大王として即位式を行った。
「確かにあり得ない話ではないわね」
「そうだろう? さっきのタロットで、僕はこの思いを強くしたんだ」
興奮気味のアナン。
「面白いとは思うよ。小説的に過ぎる気はするけどな」
星桂が冷めた口調で言う。
「その小説もどきは紙に書いといてくれ。研究に使うかもしれないから。あと、タロットカードの写真も撮っておきたいな」
「ああ、わかったよ。さっき口頭で説明したことと一緒に紙にまとめておくよ」
アナンは少し不服気だった。それを見て取った曜子が、声をかける。
「ありがとう、アナン。すごく勉強になった」
「曜子がそう言ってくれるならまあいいか」
そう言ってアナンは紙に文章を綴りはじめた。それが終わると、四人は曜子の部屋を後にした。