困った花嫁(卅と一夜の短篇第11回)
昔、中華の国の西の地方で、役人の役宅が集まっている区域があった。その中でも素封家の大層な一族がおり、立派な屋敷を構えていた。その家の跡継ぎは二十歳を出たばかりであったが、当時のこととて既に妻がいた。嫁いできて一年なのだが、まだおめでたの話がないので、周囲は気の早いもので気を揉んでいた。
「添い嫁がないのだから、第二夫人を考えたら?」
と心配げにいう親戚がいる。しかし跡継ぎはまだ父から家督も譲られていない身なのだから、焦る必要はないと断っていた。
妻は夫の心遣いを有難く思う一方、焦る気持ちで一杯になっていた。次の一年で子ができるようにと、神仏に縋る思いであった。
或る早春の晩、ひどい嵐になった。雷まで鳴り、壁に礫がぶつけられているのかと思うほど雨が横殴りに強く叩きつけられた。
翌朝、妻は姑と共に、主婦の務めと屋敷を見て回った。掃除だけでなく、修繕の要る場所があるかと侍女や下男を連れて点検していく。屋敷の庭をぐるりと廻った所、どこから這入りこんだのか、厩の近くの物置の軒下に狐がいた。
「下男をやって追い出してしまおう」
と姑が言ったが、妻は少し考えてからこう言った。
「お義母様、見ればあの狐にはお腹に子があるようですわ。この季節ですからじき産まれるようです。このまま追い払っては後生が悪うございます。少し様子を見てやりましょうよ」
「そうだねえ。功徳があればあなたに子宝に恵まれるかも知れない」
妻はほっとした。
「しばらく軒を貸してやるから、家の物や鶏に悪戯をしないでおくれね。落ち着いたら、元の住まいにお戻り」
その呼び掛けに狐は肯いたようだった。
妻は数日狐の様子を見に行った。見て取った通り、狐は数匹の子を産んだ。侍女に持たせた干し肉を投げてやりながら、「古くて悪いんだけど、これくらいしか余りが無いから、我慢しておくれ。長くは置いておけないから、子狐ともども歩けるようになったら、出ていくんだよ」と言い聞かせた。
月が変わろうという頃、狐の親子は姿を消した。妻は寂しくなった。それだけ子宝で悩んでいると、自分が哀れであった。
気分が沈み、胸もつかえるようで、食事を摂るのが苦痛になってきた。心配した夫が医者を呼んだ。
「これはおめでたです。つわりの所為で食がお進みにならないのですよ。気持ちを大らかにして、食べ易いものから召し上がるようにしてください」
そのように診断されると、気が晴れてきた。妻は安心して、狐の親子を思い出しながら日々を過した。
やがて月満ちて、元気な男児が誕生した。屋敷は喜び一色となった。
男児は健やかに成長していった。
数年後、あるじが隠居したので、夫が後を継ぎ、妻が屋敷の差配を任されるようになった。
男児は賢く、真直ぐな性質をしていたが、なかなかの腕白坊主で、使用人の子どもたちと混じって、よく遊んでいた。木の枝を振り回して剣術の真似事をしたり、高い所に昇って飛び降りる度胸試しをしたりと、妻も乳母も肝を冷やしてばかりであった。夫は、男の子なのだし、少し痛い目を見た方がその子の為だと強いて咎めだてはしなかった。
しかし、庭で(庭といっても、あるじ達家族が季節や景色を楽しむ所から、畠、果樹など植えている場所などあり、広くできていた)子どもたちが追いかけっこをしていて、落ち葉を焚いて灰を作っている場所に男児が駆け込んで来た。散らばっていた落ち葉で足を滑らせ、男児は焚火に向かって転んでしまった。大慌てで側にいた使用人がお坊ちゃんを助け出し、ぼろ布ではたいて火を消し、ありったけの水を掛けた。
手当の甲斐あって、男児は助かったが、顔の右側と右腕に火傷の跡が残った。男児の腕白が過ぎた怪我であるので、誰も罰しようがなく、痛い目を見たのは男児だけでなく、夫と妻の二人であった。
「使用人の子と遊ぶなともっと強く言いつけていれば良かった」
「いや、元気なのがいいと言っていたのが良くなかったのだ」
夫婦は嘆きつつも、いたわり合い、息子を慰めた。
さいわい息子は火傷の跡以外に瑕瑾なく、成長していった。
家柄、人柄、役所での勤め振りも申し分ない青年となったが、どうにも縁談がまとまらない。火傷の跡の所為なのか、女子は外見を気にするものだと、これはこれで心配の種だった。
青年はいつか縁があるでしょうと、気にしていない様子だった。母は母で、息子の気持ちが慮られて、辛かった。
或る日、屋敷を訪ねる者たちがいた。妙齢の女性と、その親ぐらいの年齢の女性であった。年上の女性は侍女のようで、その侍女はこう言った。
「急な病で両親を亡くされましたが、お嬢様にはまだ決まった縁談がございませんでした。どうかここのお坊ちゃまのお嫁さんにしてくださいませんか」
娘をよく見てみれば、年齢は青年に釣り合うようだし、優れた容姿をしていた。人懐こそうな様子で、挨拶する姿や身のこなしから、育ちは悪くないようだと思われた。
「願ってもないご縁です。しかし、親御さんがいないとなると、結納などどうしましょう」
「無くて構いません。親を亡くして、寄る辺ない身となったのですから、ここに住まわせていただけるだけでさいわいです。私が里に帰るだけの路銀をお恵みください」
とんとん拍子に話が進み、青年と娘は華燭の典を上げた。婚礼を見届けると、娘に付いてきた侍女は去っていった。
母は息子の嫁に、姑として家の管理を任せられるように躾をしなければならなかった。しかし、嫁はのんびりしているのか無邪気なのか、家政を手伝おうとはしなかった。まだ新婚なのだし、息子が嫁を気に入り、何かと側にいたがるようなので、この屋敷に慣れる頃まで一、二ヶ月待とうと決めた。
嫁が青年と馬に乗ってみたいと言い出した。嫁が出歩くのは感心しないと母は口出ししたが、青年は二人で出掛けるのだからと聞かなかった。
二人で馬に乗っていて、嫁がふざけかかり、青年は馬から落ち、足の骨を折った。
怪我をして戻ってきたのを見て、母は理由を問い詰めた。
「私の所為です」
と嫁は謝った。青年は既に嫁を許しており、行く宛てのない娘を離縁と放り出す訳にもいかず、嫁が必死に願い出るので、苦々しく思いながら、青年の看病をさせた。
丁度その地方の近くで夷狄との戦が起こり、若い男性が兵役に取られていった。だが、青年は足を傷めていたので、戦に出ないで済んだ。
人生、何が起こるか判らぬものだと、夫婦は息子の運を――ほかの親たちに申し訳なく思いながらも――喜んだ。
嫁は青年が回復してきたので、母は家政を教え込もうとしたが、のらりくらりと言い逃れて、小さな家事だけをして、使用人の指図や家財の管理を見ようとしなかった。
「困った嫁だわ」
青年が嫁の味方をしていた。新婚の熱が冷めれば、母の言うことを聞くように諭すだろう、そうでなければ家の中が治まらなくなると気付くはずだ。
足が完治し、青年はしばらくぶりに役所に復帰することとなった。
「では沐浴いたしましょう。旦那様のお風呂の準備は私がします」
嫁は母に請い、風呂の支度を始めた。少しは家政を知る気が出たようだと、母は嬉しさを顔に出さぬように指図した。
嫁は浴槽に湯を沸かすほかに、何か薬草を鍋に入れて煮立てていた。
「傷や痛みに効くのです」
とその鍋を浴室に持ち込んだ。
青年が浴室に入ってくると、嫁はいきなりその鍋の熱湯を頭から浴びせた。
青年の声と物音を聞いて、家中の者が浴室に駆けつけた。
青年は熱湯を浴びせられて、浴室に昏倒していた。
「あなたは息子に一体何をしたのです!」
母の問に嫁は答えた。
「熱い薬湯を掛けました。あなた方がいつも考えていてできなかったことを、私がして差し上げたのです」
母は怒りのあまり、嫁に掴みかからんばかりだった。
「あなたはなんという……、出ていきなさい!」
「はい、出ていく時が来ました」
その時、倒れていた青年が起き上がった。
「母上、妻と言い争わないでください」
そう言う青年の姿に母も父も、使用人たちも驚いた。熱湯を掛けられたのになんともない様子であるばかりか、顔や右腕にあった火傷の跡が消えていた。
嫁は母に跪いた。
「奥様、私は人ではありません。奥様になさけを掛けられた狐の娘でございます。奥様への恩をお返しするために母の代わりに、私がここへ参りました。
若様が兵に取られそうになるのを防ぎ、こうして古い傷跡を消して差し上げ、恩返しが済みました。私はここを去ります。
どうか、若様は新しい奥様をお迎えください」
母は、若い日、軒下にいた狐を思い出した。なかなか子が授からなくて心細かった日々や、子育てで喜びにつつまれた日々、息子が火傷を負った日が次々と甦ってきて、涙が溢れそうになった。子を守ろうとしていた母狐の姿は心の支えであった。
「ああ、あなたはあの時の子狐なのですね。でしたら、ここを去るなどと言わないで。ここにいてちょうだい」
取り縋ったが、嫁は静かに言った。
「私は人ではありません」
青年もたまらずに我が妻を引き留めようとした。
「浅からぬ縁で夫婦となったではないか。今更、別れると言うのか。あれほど私と夜毎語らい過してきたではないか。私を夫と少しも慕っていないとは言わせない」
嫁も真剣だった。
「心からお慕いしておりますとも。
しかし、私には大きなお屋敷の奥様の役目を果たすことができませんし、子もできません。先祖の祀りを守り続ける為にも、どうかもうお引き留めくださいますな。
妻を家財の一つと考える人間の男が多い中で、真心で接してくださる旦那様をいっときでも夫とできたのですから、私は女として仕合せです。
二度と狐を妻と呼んでいけませんよ」
嫁はくるりと体を回転させると、狐の姿となった。一つお辞儀をして、風のように飛び去っていった。
夢のような出来事であったが、夢ではない証拠に青年の火傷の跡は消えた。
周囲から強運の持ち主と噂され、青年には新たな縁談が来た。青年はどうしてもかつての妻が忘れられなかった。
母はほんの少しの施しだったのに、大きな恩を返してくれた狐の娘を失い、胸に大きな穴が空いたようだった。
父は息子と妻の嘆きようを見て、同じように悲しんだ。
「いつまでも過ぎた日を想っていたら、狐たちは何の為に恩返しをしたのか判らなくなってしまうだろう」
父の言葉に、家族は肯き、少しずつ嘆きを忘れ、前向きに明るくなった。
一年後、青年は新しい妻を迎えた。
婚礼の晩、宴の席から寝室へと向かう廊下から庭が見えた。狐が一匹座っていた。青年は庭へ降りようとしたが、狐は青年を認めると姿を消した。
「今まで見守っていてくれたのだろうか」
感謝の言葉は誰にも聞こえなかった。