第7話
首相官邸総理執務室では連日のように抗議デモの声が聞こえていた。
国会でも野党から戦前回帰、民自党の野望、山之内総統閣下などと野次が飛んでいた。
山之内や与党民自党は文句を言うなら代わってくれ、今なら党本部だって付けてあげるから代わってくれ、という思いであった。
そもそもの原因は日本以外が消えて輸入が途絶えたことにあった。
国家備蓄や企業備蓄で当面の必要量を確保できていたが、自衛隊と米軍の探索で徐々に明らかになったこの世界の状況から長期間の物資不足が懸念された。
地球に戻れる保証も無く、産業革命以前の文明で日本が必要とするだけの物資を生産している保障は限りなく低い。
産業革命以前の文明について尋ねるため招聘した歴史学者がした例え話は上手かった。
『地球における産業革命以前の文明で考えると、現代の地球にアメリカすら圧倒する国力を持った超大国が出現して、食料だけでアメリカ一国分、各種資源は一日の要求量が世界の年間消費量に匹敵する国家が出現したようなもの』
仮にここが産業革命以前の地球に日本が現れた場合を現代の地球で例えるとこうなる。
それほどまでに生産力は産業革命以前と以後では天と地ほどの差があるのだ。
現代の知識や技術を用いれば、生産力の向上は可能だが、向上するにも、生産するにも時間がかかる。
日本の備蓄は相当量だが、節約したとしても数年単位の年月を耐えられるほどでは無く、生産力が向上する前に備蓄は確実に無くなる。どんな悲観論者でも日本が産業革命以前の文明レベルの異世界に転移する想定で備えることはしない。仮にそんな備えを主張したとしたら、黄色い救急車の出番である。
そして、日本単独では1億2千万人の日本国民を生かすだけの生産力は無いのも現実である。
件の歴史学者が最後の言葉への米国大使の呟きが現状を正しく認識している人々の共通した思いであった。
『ここまではあくまで地球だった場合です。ここが地球と全く同じであることはありえません。もしかすると地球以上の生産力があるかもしれません。日本が異世界に移動する奇跡が起きたのですから、異世界の資源も手付かずで十分な量があるかもしれません』
こういった希望的な願望に対して、思わず米国大使が呟いたのだった。
『God bless us.』
我らに神のご加護があらんことを、まさに神仏頼み以外に解決法が無かった。
山之内は首相として物価の凍結と一部、物品の販売規制を行った。国民生活にすぐに関わるくらい厳しい規制ではなく、すぐに関わる規制は計画停電くらいで多少節約すれば問題ない程度の規制であった。
日本の現状を認識している人からはやむを得ない処置として支持されていたが、それ以外からは厳しい非難の声が寄せられていた。
共産党と民社党からは連名、他の政党からも日米安保に基づき米軍に実施している援助を非難され、一部政党からはアメリカ本国が消えたのだから、米軍も解散させ日本の執政下に置くべき、という過激な意見まで出された。
そんなことをしたら、米軍とて武力で抵抗するに決まっている。最終的に自衛隊が勝つのは分かりきっていることとはいえ、その過程で生じる犠牲や消費される大量の物資を無駄に出来るほど日本の現状は甘くない。更に北にはロシア軍という脅威が今もいるのに、内輪もめする馬鹿がどこにいる。
こんな馬鹿な政党が一つであったなら良かったが、複数の政党から要求されていて、この時ばかりは山之内も谷森も心を一つにしてため息をついたのだった。
国民世論にも国民が物価統制などで普段の生活を制限されているのに、外国軍の米軍に大量の物資を今までと同じ量を渡すな、というのもあった。実際には、米軍は今まであった米本国からの物資が途絶えたため、今まで以下の物資で国民以上に節約してやりくりしているのが真実であった。
しかし、時に人間にとって事実より自己が考える姿が真実になることが往々にしてあった。今回もそうであり、国民は米国なき在日米軍、国民にとっては大量の、軍隊にとっては不足している日本政府からの物資提供への非難の声は、メディアの煽りもあって、高まっていた。
しかし、この国民世論が思わぬ働きをしていた。
米軍も解散させ日本の執政下に置くという馬鹿な思いつきを国会で堂々と述べた政党は小規模で、現実を知っているなら与党は無論のこと主要な野党からも無視される放言であった。実際、始めのうちは与野党は無視していたが、日々高まる米軍への物資援助の非難と結びついたことで主要な野党どころか、与党内でも将来の選挙を見据えている議員は無視できなくなった。
政府は米軍非難をどうにかするために、米軍も自衛隊と同じく日本のために働いていて、無駄飯食いではないという分かりやすい宣伝が必要であり、これが日米合同部隊創設に真実であった。
無論の事だが、米軍だけが物資の消費者ではない。
物資の最大の消費者は米軍や自衛隊ではなく、日本の民間企業たちであった。
経団連など経済界とは今後の日本経済について幾度も話し合いの席が設けられたが、その度に決裂していた。
経済界は現在の物価統制の必要性は認めるまでは譲歩したが、どの程度まで認めるかで足並みが揃わず、政府からの譲歩についても意見が割れていた。
大企業などは内部保留があり体力があるので物価統制には比較的協力的であったが、中小企業は体力が無かったため赤字補填などの政府からの支援無しには協力はしないと割れていた。
大企業も協力的であっても労働法の特例を認めるなどの優遇措置を要求していた。しかし、これには労働組合が強固に反対しており、物価統制にも非協力的であった。政府も企業には雇用を最大限維持してほしいから、揉めていた。
大企業も、中小企業も、労働組合も揃って要求しているのが免税であった。法人税だけでなく、所得税や消費税など個人、法人を問わずに全ての税金の免除という要求であった。無論、受け入れられないと分かった上での交渉のための要求であったが、どの程度受け入れるかで政府内で意見が纏まっていなかった。
現在は首相である山之内の強権で統制経済を強行しているが、更なる統制経済には経済界の協力は必須であった。
日本を支える経済界は山之内の資本主義を否定する政策に猛烈に反対していたが、物価統制だけなら、違法な買占めや闇市など問題は山積みであっても、この状況ならそこまでの非難を浴びなかっただろう。
ここまでの非難を浴びている最大の要因は米軍への物資提供や物価統制ではなく、自衛隊に治安出動待機命令が発令されたためである。
日本が地球以外の未開の惑星に移動し、物資調達の見込みも無く、備蓄物資の節約を実施、節約しても備蓄物資は不足するという予想による深刻な社会的混乱を懸念したために発令された。
治安を守る警察が物価統制や割り当ての取り締まりも追加されたことで警察官の人員不足が深刻化したため、統率が取れて訓練された大量の人員を抱える自衛隊を駆り出す、という目的もあり、表向きの発令理由はこちらであった。
物価統制とそれに続く治安出動待機命令の発令ならびに日本本国の情勢は派遣された幹部自衛官以外の自衛官には伏せられていた。今のこの状況でこれ以上の不安要素を抱えたくないという思いと派遣中の自衛官の心理状態を気にした、内閣府と自衛隊の考えが一致した結果であった。
総理官邸の執務室のドアがノックされ、本多統幕長が入室してくる。
「総理、派遣部隊から緊急のご報告があります」
異変以来変わらない真剣な表情であったが、いつも以上に真剣な表情だった。されども、山之内は報告を受ける代わりに別の話を始めた。
「本多さんならどうしますか?私はね、ここで総理と呼ばれるよりも長期休みに来るだろう孫や子供たちを楽しみにしながら、生まれ故郷の田んぼを耕して自給自足の日々を送りたかった」
非難の声と連日の疲労、将来への不安と責任などが山之内の心を削っていた。
「本官が総理だったなら逃げています。自衛官の宣誓をする前なら、家族を連れて逃げています。家族の分の食料や物資くらい今のうちなら手に入りますから、家族を連れて人の住んでいない山奥に逃げて生き延びます。宣誓をしたから本官は今ここにいます。だから、総理のどんな決断にも従います」
「私の言葉に付き合ってもらえる人はほとんどいません。本多さんも私に従い過ぎたら後で後悔しますよ」
「総理、もう手遅れです。官邸前では目立ちませんが、市ヶ谷にお越しいただいたら、デモ隊が手作りした看板をご覧下さい。『本多幕府本陣』とありますよ」
久々に本多の顔から厳しさが和らぎ、山之内も一時の休息を得られた。
「征夷大将軍の任命も国事行為ですから陛下に奏上しておきますよ」
「内閣の承認が必要ですよ、総理。それに征夷大将軍など謹んで辞退します」
「辞退されても三度までは謙遜して断るのが礼儀らしいですよ」
「三度来られても、役不足ですから辞退させていただきます」
山之内は一瞬呆然とするが、本多の自信にあふれた顔で得心した。
「さて、報告を聞きましょう」
本多の表情が真剣なものに戻り、戦後の日本で最も忌避されてきた報告をする。
「派遣部隊からの報告で現地での戦闘に巻き込まれ、指揮官の鈴木一尉が戦死、他3名が負傷とのことです。ならびに、現地の戦闘で生き残った側との接触、さらに負傷者を『いずも』まで搬送したという報告が届いています」
「戦闘は避けようがなかったということですか。鈴木一尉は迅速に本土の彼の家まで帰してください」
山之内の言葉に本多は渋面をして、持っていた資料を開いていく。
「そのことなのですが、鈴木一尉の頭部は頭蓋骨の一部まで炭化しており、このまま遺族に見せるのは心情的にどうなのか、という意見があり、総理のご判断を」
山之内は見せられた写真から思わず目を逸らしたが、自身の決断の結果であったから目を写真に戻してから応じる。
「遺族にはどんな形であっても遺体が必要です。彼の遺物と戦死した状況や理由を添えた報告書とともに説明に行ってください。私からも追悼の言葉を送っておきます」
「分かりました。遺族には既に知らせていますが、鈴木一尉が帰国するまでには報告書を纏めておきます」
「軍事には詳しくありませんが、頭蓋骨も炭化するほどの戦闘に巻き込まれて戦死者が一人だけとは」
最も重要な報告と相談を終えたが、本多はまだ残っている報告を続ける。
「そのことなのですが、木の杖から火の玉が飛び出して一瞬で炭化させた、という報告が届いており、使われた杖は回収済みで日本に送る、とのことです。届き次第、分析に回します」
分析という言葉に山之内が疑問をぶつける。
「どこでどういった分析をするのですか?」
本多が珍しく困った顔を見せた。
「複数本あるということなので、理研やニムス、大学、防衛装備庁などに分配して調べてもらいます。火の玉が出る木の杖を調べてもらうにはどの研究機関の分野なのか分かりませんから、手あたり次第に調査要請を出す予定です」
山之内は箒を抱えて、異色の液体が煮えたぎる巨大な壺を前にした尖がり帽子に真っ黒のローブを着て、怪しい液体の入ったフラスコを片手にした老婆というステレオタイプの魔女が思い浮かんでいたが、頭の中身を仕事の続きに戻した。
「派遣部隊からは今後の指示を求めてきた、というところでしょうか。戦死者を出してしまい、現地人を保護したという大きな動きがあっては、現場判断ができる領域を超えていますね」
「待機指示を出しておいていますが、統幕長としましては現地調査の継続を進言いたします」
「とりあえずは待機です。この案件は久遠さんと相談する必要があります。一両日中に国家安全保障会議を開きますから、準備をしておいてください」
「それまでに情報を整理しておきます」
本多は派遣部隊からの報告と相談という要件を終えたが、退出する様子はなく、ここからが本題だという雰囲気を出していた。
「まだ何かありましたか?」
「例の案件ですが、概要が纏まりました」
山之内は抽象的な物言いに一瞬戸惑ったが、何を指しているかを理解すると今まで以上に悲壮で真剣な表情で応じた。
「ここではこれ以上の話は出来ません。地下にある安全な部屋に行きましょう」
総理官邸の総理執務室でも出来ない会話があった。
全くの偶然だったが、時を同じくして米国大使館の中でも米国大使が在日米軍の将校、米下院議員と密会中であった。
大使館内にはプレハブみたいな独立して存在している盗聴対策が施された秘密の部屋があった。そこで行われている会話はいかなる天のいたずらか、総理官邸で行われている秘密の会話と同種のものであった。
総理官邸と大使館で行われている会話の内容は誰にも漏れてはならない類、存在していないことになっていることであった。
黄色い救急車は都市伝説ですからね。
実在していませんから、本気にしないでくださいね。