前
湿度の高い真っ暗な地下へ続く階段を下る
軋む扉を開けばろうそくのゆれる炎の中、とてもエキサイティングしている濃紺のフードを被った俺の主人がいた
「イ~ヒヒヒ─フ、…ブブッハッ後これさえ入れればヒィ、ア・アン快・感!史上最悪最強のハーモニー、クッソ不味さに筋肉繊維よじ切れフノウとなるが良い!ゲテモノ民族リア充どモオオオオオィ!」
モーーイ
モーイ…
モーイ…………
嗚呼、雄叫びがほの暗く反響している
俺の主が可笑しいのはいつも通りだ問題ない警察を呼ぶか。…待て文法が俺まで怪しい。目の前の人に感化されては色々とイケない不味いふざけるな気持ち悪い。その上、それに、けいさつとは一体
、何
不意に頭の中で光が弾ける。閃いていく生まれて一度も聞いた覚えのない単語や困ったときはひゃくとおばん!といった意味不明な呪文を分からないと思う思考と同時に元よりそれらのことを知っていたような感情がせめぎ合い、魔か不思議な感覚が心に氾濫する
ふ、と呼気を吐き出し粟立つものを全てドクリと脈打った心臓と共に黙殺すると主の方へ一礼する
何気に鋭いところのある主は即座に奴隷(俺)の気配に気付き、途端に興味が失せたように大鍋をかき回していた火かき棒を投げ出した
乱雑に扱われた棒がブレながらも鍋の縁に収まったのを目の端で確かめながら既に先を行く始めた主の後を数歩遅れて従う
主人を見送り一人になった後、そっとこめかみに手を当てた
ついて出るのは溜め息ばかりだ。ああ、また思い出してしまったと、窓の外に見える小さな花弁すら面倒くさ気に眺めてしまう
─おそらく過去世、もしくは前世というものの記憶の破片が唐突に頭に浮かぶことが昔から極稀にあった
それらが前世のものだと思うのは、…よく分からないがなぜかそうと確信を囁く俺の内側と、毎度ざわめきが収まった後、必ず残る引き潮の痕のごとく引きずり出された感情
“切ない”と言おうか…、本来、物のとして扱われる俺の内には芽生えようのない高度な情。それを表現する言葉も、学のない俺は前世の記憶から探し当てた
何にせよ前世のことを思い出すと疲れるから嫌なのだが、主の奇行のショックからかだんだん頻度は高くなってきている
しばらく前からその狭間に主を見つけるようになった。前世の自身が主のことを知っているとは─記憶がよみがえる瞬間、無理に探ってなんとなく俺が娯楽としていたものの中に彼の存在があったことを知った。意味があまり分からなかったが、一度こじ開けた記憶は流れやすくなるのか、情報は深まり俺はさらに主が命を落とすビジョンを見る
ポツリ、と窓に唐突に垂れた雫を見て仕事を思い出した俺は壁にもたれていた上体を起こした
フラリと回廊を進む俺の左袖は束縛なくプラプラと揺れる
俺には、片腕しかない
利き腕の方が無い
俺の主人は─まぁ、本当に趣味が悪いとだけ
それから割と長い日が経ち、それでも俺が予期していたよりもずっと早く
決別の日はやってきた
胸に咲く赤い血とナイフ
ぜぇぜぇとか細く鳴る喉
常なら余裕しゃくしゃくとしている人の顔が呆然としていた
それに安堵して上がったくちびるが震える
「駄目、ですよ……あなたは、あ、な.ぁ…グッ……はったは、わたしの……主、の…家族なんで、す……っから。」
思うように位置を調節できない片腕で、それでも背後の主の目を覆おうと力を入れる
主が死ぬまでの粗書きをこのときまでに俺は大部分思い出していた
主を刺そうとし、結果俺を刺したのは主の伯父ダンゲだ
最も主を害そうとしたのは貴人本人の意志ではない
何時感染したのかは分からないが“陰”に操つられて…
“陰”に感染した者は左右の瞳どちらかの色が変わる
貴人はいつもなら左目にモノクルを掛けているが、今日、左右が逆なのは誤魔化すため。主はもしかしたら変化に気付いていたかも知れないが、貴人が感染していたことまでは察しようがない
その貴人は既に正気に帰っているようで、ああ…良かったと思う
内臓が傷つき口から流れる血が熱く不快だ
主の死を予見したとき、こうなるのではないかという予想はぼんやりとあった
俺が片腕をなくしたのは幼い頃、危険な仕事でミスを犯したのが原因で、本当はもう役に立たない奴隷は処分される流れだった
例えもし生かされたとしても、欠陥品の奴隷ならばよりアンダーグラウンドに落とされ口に出すのもおぞましい、汚れ役を絶命の時までやるしかない
図らずも、結果、片腕となったその佇まいと切断面の傷口が気に入ったという、俺を拾い主となった人の趣味の悪さに救われた
主は行動も嗜好も常識を逸しているが、これで意外と頭の中身は整然としており、限りなくグレーではあるが彼が作り売り出している薬類は強いが安心の効能と副作用が大幅に軽減された良質のものだ。ただ健康面に害はなくても、違う意味で服用者が逝ってしまうような工夫が玉に傷というか破壊している
左腕を失った経緯で俺は痛みに弱い
筋繊維がプツプツ弾け骨が内側から捻り切れて皮膚を突き抜いた比喩でなく地獄を見た
だから、今回最後の最後で主を守れるか自信なかった
しかし結果俺は刺され─意識もいまだ保てている─ああ、これが答えだった
主が死ぬと思った時、驚くほど自然に足は前へと踊り出た
ダンゲ様、どうか主を傷つけないでください。貴男が思っているよりこの人は、
(血が止まらない)