40、年上の妹
窓から差し込む穏やかな日差し。
まるで全てが停止したかのようなその部屋で、小鳥のさえずりだけが、小さく時間の流れを知らせていた。
……エストにキスをされてしまった。
あまりに突然の出来事で、嬉しいのかどうなのか、いまいち自分の感情が把握できない。
ただ、ひたすらに戸惑いだけが頭を駆け巡る。
「ま、まあアレだ。良かったな。一応それでも女の子だぞ」
苦笑いをたたえ、とりあえず的にフォローを入れるケイメン。
だが『一応』という言葉が引っ掛かったのだろう、エストは一瞬、ジロリと横目でケイメンをにらんだ。
太郎は何も答えられずにいる。
そして、その答えを待つかのように、エストは無邪気な笑顔で太郎を見つめていた。
艶やかな金髪と整った顔立ち。
百人に聞けば、百人全てが美少女と答えるだろう。
だが、その外見は”美しい”というより、”可愛い”と形容すべきだ。
もっと言うと、幼すぎる。
体はもちろんのこと、その心までもが。
キスの意味も、本当にわかっているのだろうか。
そんな彼女は、太郎にとって完全に恋愛対象外であった。
そんな太郎の感情を敏感に察知したのか、彼女の瞳に不安の色が浮かぶ。
そして恐る恐る、こちらに尋ねてきた。
「あの……、もしかして、あまり嬉しくありませんでしたか?」
その言葉を受け、やっと太郎の頭にも冷静さが戻った。
きっと彼女は、自分を元気づけようと、勇気を出してキスをしてくれたのだ。
そんな彼女の気持ちを、踏みにじるわけにはいかない。
「そ、そんな事ない。嬉しかったよ。とても嬉しかった!」
「そうですか?でも、何か複雑そうな顔をしてましたけど……」
「そうか?それは……、突然でちょっとビックリしただけさ」
「………良かった」
胸に手を当て、エストは安堵の表情を浮かべる。
そんな彼女を見て、太郎も胸をなでおろした。
とりあえずこれで良かったのだろう。一件落着……のはずだ。
これまでのエストの表情には、自分に対する愛とか恋の感情は見て取れない。
恐らくは、本当に自分を元気づけるためのキスだったのだろう。
だからこれもキスとしてはノーカウントだ。ノーカウント!
だが、そう思ったのも束の間、予想だにし得ない言葉が続く。
「じゃあ……、もう一度、キスしましょうか?」
「………え?」
その瞬間、エストの背後に立つ黒い影。
それは、顔にこれ以上ないほどの笑顔をたたえたアイシャであった。
笑顔ではあるが、その顔はまるで能面のように感情が読み取れない。
太郎の体に、思わず鳥肌が立った。
「エスト、ちょっといいかしら?」
「え、でも……」
「二人だけで話があるの。こっちに来てくれる?」
首根っこを掴まれ、背後へと引きずられてゆくエスト。
やがて二人が出て行ったドアが、力の限りバタン、と閉められた。
▽
ホッと胸をなでおろした太郎は、大きくため息をつき、そのままベッドへと倒れ込んだ。
どっと押し寄せる疲れ、それまで忘れていた体の痛みも、徐々に戻りつつある。
ケイメンは二人が去ったドアを眺めつつ、口を開く。
「そのまま聞いてくれ。ここからは真面目な話だ」
「ああ……、何だ?」
「俺とエストに、政庁から出頭命令がきた。どうやら面倒な事になりそうだぞ」
「面倒な……こと?」
「俺たち三人が魔神と戦っているところを、誰かが目撃して政庁に報告したらしい。まったくふざけんなって話だ。見てたんなら一緒に戦えって、なあ。まあ三下が出てきたところで、足手まといになるだけだが」
「それで、政庁は俺たちに何を?」
「恐らく、だ。政庁は俺たちを、都市を救った英雄に仕立て上げるつもりなんだろう」
ゆっくり歩みを進めるケイメンは、やがて窓の前で立ち止まり、外の風景を眺めつつ続けた。
「たくさん人が死んだ。城壁や都市結界の修復にも莫大な費用がかかる。いすれ市民からは不満が噴出するだろう。こういう時、政治家は何をするか知ってるか?戦犯を作って責任をなすり付けるか、英雄を作って注目をそっちに逸らせるのさ」
英雄―――、か。
単語としてその意味は知っているものの、実際の英雄がどんな存在かなど、知るはずも無い。
だが少なくとも、太郎にとってそれはマイナスイメージの単語では無かった。
むしろ、なれるものなら、なってみたいものじゃないか?
「おい、まんざらでもねーって顔だな」
「そ、そんな顔してたか?」
「まあ、俺は無視するつもりだがな。お前は立場上、出頭しないわけにもいくまい?」
「そうだな。しかし、何で英雄になるのが嫌なんだ?」
「めんどくせえだろうが。それに……、だ」
「………?」
「英雄ってのは、祭り上げる奴らも多い分、足を引っ張ろうとする奴らも多いんだぜ。それに……だ、持ち上げられた分、足場が無くなった時の落差も大きい。まあ気を付けろよ。これは親友からの忠告だ」
▽
その頃、扉の外ではアイシャがエストに向かい、お説教を垂れていた。
「だから、キスってのは、好きな人にしかしちゃダメなの。わかった?」
「でも私、タローさんのこと、好きですよ?」
「……そういう”好き”じゃないのよ。夫婦とか恋人同士だとか、そういう間柄の人たちがするものなの。キスってのは」
「そうなんですか……」
うつむき加減で、何かを考えるエスト。
やがて彼女は、閃いたように顔を上げ、アイシャに言った。
「じゃあ、キスをした私は、もうタローさんの恋人ってことですか?」
「……そ、そういうものじゃないのよ。だいいち相手が認めてくれないと恋人にはなれないでしょう?」
「それなら、タローさんが認めてくれたら、私は恋人ってことですね!」
アイシャは、うっ……、と言葉を詰まらせ、返答に窮した。
泉での一件もある。もしも太郎がロリコンだったらどうしよう。
そんな考えがアイシャを混乱させた。
その時、遠くから響いてきたのは、カツカツと、階段を上る甲高い靴音。
ほどなく姿を現わしたのは、黒髪のショートカットに、騎士の制服を着た女騎士。
制服には赤黒く変色した返り血がこびり付き、頬には薄赤い痣ができていた。
だが、むしろそれらは、彼女の野性的な美しさを際立たせているようにも見える。
何とも凛々しい女騎士だろうか、とアイシャは思った。
アイシャが思わず見とれたその彼女は、他でもない太郎の同居人、ルディアである。
やがて、こちらに向いた顔を見て、アイシャは、彼女と以前に面識があることを思い出す。
確か、以前に太郎が連れて来た奴隷の少女だ。あの時はまだ首輪が有り、みすぼらしい奴隷服を着ていた。
エストは気付いていないようである。まあ、当時と今とでは、あまりに印象が違いすぎるので、無理もないだろう。
ルディアもこちらを忘れているようで、「誰……?」と、警戒した様子で尋ねてきた。
「あ、あの、私はですね、市長様にタロウさんを治療するように依頼された回復術士で……」
「彼が帰ってきているの?それに治療って………!?」
「……重傷でしたが、もう大丈夫だと思います。先ほど意識も戻って……」
その言葉を聞いた瞬間、ルディアの顔色が変わった。
早足でこちらに迫ると、二人を素通りしてドアの前に立つ。
だが、いっこうにドアノブへと手を伸ばさない。
ルディアはその場でうつむき、太郎にかける言葉を探していた。
その脳裏に、太郎の肩に突き立った短剣の光景がよみがえり、彼女は顔を歪める。
謝らなくちゃいけない。だけど怒っていないだろうか。本当に許してくれるのだろうか。
だが、いつまでもここに立っているわけにもいかない。
彼女は覚悟を決め、震える手でドアを開けた。
▽
全てが消えてしまった。
横たわる太郎の痛々しい姿を見た瞬間、用意していた筈の言葉が、全て頭から消えてしまった。
まるで夢遊病者のような危なっかしい足取りで、彼女は太郎の元へと進む。
そんな彼女の存在に、太郎もほどなく気付いた。
「……ルディア、もう体は大丈夫なのか?」
それはこっちのセリフよ―――!
そう思ったが、言葉にならない。
もはや、涙をこらえるので精一杯だった。
やがて、ベッドの脇に立った彼女を見て、太郎は少し怯えた顔を見せる。
「な、何だよ、そんな怖い顔するなよ……」
自分はそんなに怖い顔をしているのだろうか―――?
そう考え、少し顔を緩めた瞬間、両目からこぼれ落ちた涙が、次々とベッドに落ち、滲んでいった。
そして口からは、感情のままに、次々と言葉が紡ぎ出されてゆく。
「な、何でそんなに傷だらけなのよ!」
「ああ、ちょっと派手にやられちまってな……」
「どうしてそんなになるまで戦ったの、逃げられなかったの?」
「……逃げるわけにはいかなかったんだよ」
「何よ、逃げられない戦いって?死んだら意味が無いじゃない!」
そう叫ぶと、彼のベッドへと崩れ落ち、泣き始めた。
太郎は戸惑ったが、すぐにその頭に手を当て、優しく髪を撫で始める。
「お、おい、泣くなって。もう大丈夫なんだし……」
その光景を、アイシャはドアの脇で見守っていた。
胸が痛む。目の前のその光景を見ることは、まるで彼女にとって拷問のように感じられた。
何なの……、あの光景は。まるで恋人同士じゃない―――!
いや、それとも、二人はすでに………!?
そう考えてしまった瞬間、彼女はこのままドアから走って逃げ出したい衝動に駆られた。
だが、踏みとどまる。それは白旗を上げ、全面降伏をする行為に感じられた。それだけは、彼女のプライドが許さない。
最後まで見届けよう、この光景を。
そして思いっきり傷付いて、もう彼の事はあきらめよう……。
そんな彼女の手が、か弱い力でギュッと握られる。
見ればエストが、心配そうな顔で、こちらを見つめていた。
「アイシャ、大丈夫ですか。顔色がすごく……」
「……ありがとう。でも大丈夫よ」
彼女はエストに優しく微笑み、目線を戻す。
その先では――、泣き止んだルディアが顔を上げ、太郎を見つめていた。
▽
潤んだ黒い瞳が、太郎を見つめていた。
その無言の訴えに、彼はあの時の約束を思い出す。
そうだ、約束をしたのだ。
もう、彼女を独りにはしない―――と。
自分の命を疎かにしたということは、あの約束を疎かにしたことになるんだろう。
きっと彼女は、それに怒っているのだ。
「ねえ、あの時の約束、覚えてるわよね?」
「あ、ああ、もちろんだ」
その言葉を受け、ルディアの顔に安堵の表情が広がった。
と同時に、花の咲くような笑顔が、その顔をつつむ。
それまでの硬い表情とは裏腹なその顔に、太郎はそれまで彼女に抱いていなかった感情を覚えた。
彼女は頬を桜色に染め、恥ずかしそうにうつむきながら、言葉を続ける。
「じゃあ、ひとつ……聞いていい?」
「……な、何だ?」
「あの時、ずっと私のそばに居てくれるって言ったよね?」
「あ、ああ、そうだな」
「あれって、どういう意味?」
「………!!」
意味も何も、あの言葉は彼女の狂戦士化を止めるため、咄嗟に口から出たものだった。
そんなに深く考えて発した言葉じゃ無い。太郎は返答に窮して口ごもる。
だが、その答えを、彼女が続けようとしていた。
「あの言葉の意味って……」
くる。間違いなく告白がくる。
そして、今の自分には、恐らくYesしか選択肢が無い。
でも、いいのかもしれない。こんな可愛い子と、ずっと二人で暮らせるのなら……。
すでに太郎は、全面降伏を覚悟していた。
そんな彼に向けて、言葉が続く。
「私の兄さんになってくれるって事よね?」
………?
その斜め45度から襲ったパンチは、彼の脳髄を揺らし、一部の記憶を周囲に撒き散らかすようだった。
混乱する頭の中で太郎は考える。何言ってんですか、意味がわかりません……と。
何も答えない太郎を見て、ルディアは不安げに尋ねた。
「……違うの?」
「いや、その前に……ひとつ聞きたいんだが」
「……何?」
「ルディアって、いくつだっけ?」
「17……だけど」
「俺さ……16なんだよね」
「それがどうかした?」
「こういう場合、普通は君が姉さんで、俺が弟じゃないのか?」
それを聞いた瞬間、彼女は少しキレ気味に言う。
「年齢は関係ないでしょう?」
―――いやいやいや、思いっきりあるだろ!!
「私の兄さんになるの、ならないの、どっち!?」
全面降伏状態で、Yesしか選択肢を用意していなかった太郎は、無論こう答えるしかない。
「なります。君の兄さんに……、なります」
「……良かった。嬉しい………」
幸せそうな笑顔で、太郎の手を握るルディア。
手に彼女の温もりを感じつつ、太郎は乾いた笑い声を、周囲に響かせていた。




