20、月夜の闘技場
西へ沈みゆく太陽。
まるで闇に溶けてゆくように、光と影の境界線はその曖昧さを増していた。
付近は暗闇に包まれようとしている。
おぼろげな闇の中に浮かぶ、折り重なるような男女のシルエット。
太郎はルディアの体に馬乗りとなり、その両手を固く掴んで押さえ込む。
あからさまな敵意むきだしの目が、太郎に向けられていた。
その鋭い眼光で、ルディアは問いかける。
「あなたは誰、騎士?」
「───違う」
「商会の追っ手?」
「───違う」
「じゃあ、あなたには関係ないでしょ。離して!」
「ダメだ。バカな真似はやめるんだ」
それを聞き、ルディアの両目が一段と険しさを増す。
「あなたに何がわかるの?事情も知らないくせに!」と、叫びながらジタバタともがき始めた。
それは少女のものとは思えない力強さである。太郎は困惑し、その手に力を込めながら思案する。
どうすればいい?
どんな言葉で、彼女を説得をすればいいのか?
こんな修羅場とも呼べる場面に遭遇したのは、人生で初めてであった。
半ばテンパった頭脳を駆使して、必死に説得する言葉を探してゆく。
一方、抜け出せないことを悟ったのか、ルディアの体からは徐々に力が抜けていった。
「………死なせて」
やがて、ルディアはポツリと、そうつぶやいた。
その目にあふれた涙が、ポロリと一筋頬を伝う。
その言葉と表情に、太郎の心は痛んだ。
「……死なせて。この場所で死んだら、私はきっと兄さんと同じ場所に逝ける」
なるほど。この場所に居た理由はそれか。
そう、何となく納得したが、彼女の希望をかなえさせるワケにはいかなかった。
それはきっと、アウランも望んでいないハズだ。
「ダメだよ、あんたの兄さんは、そんな事を望んじゃいない!」
彼女を鎮めようと発した言葉であったが、むしろそれは逆効果となった。
ルディアは、目の前の少年───太郎が、アウランの対戦相手だったとは気付いていない。
そんな見ず知らずの少年が、兄の気持ちを語ったことに、むしろ逆上してしまう。
「ふざけるな!あなたに、私たち兄弟の何がわかる!」
そう叫ぶと、突如として体をひねるようにし、脱出をはかる。
その右手が、太郎の手から外れた。
───マズい!
その手の先には、短刀が落ちていた。
太郎は慌てて体を浮かし、先に短刀を奪取すべく手を伸ばす。
だが、彼女は短刀に手を伸ばしはしなかった。
それに先じて、自らの右足を、太郎の股間めがけて蹴り抜く。
「…………………!!!」
鈍い衝撃が体中に響き、言いようの無い激痛が、股間から脳天にかけて突き抜けていった。
思わず、声にならない悲鳴が口からもれた。
股間を押さえ、悶絶しながら地面を転がる太郎をよそに、ルディアは短刀を拾い上げると、闇に向かって駆け出した。
彼女の足の速さは先ほど見せつけられた。このまま闇に溶け込まれれば、探すのは困難を極めるだろう。
───ダメだ。このまま行かせてはダメだ!
太郎はその口から、絞り出すような叫び声を上げる。
「………ま、待て!お、俺は、あんたの兄さんと、さ、最後に戦った勇者だァァ!!」
太郎の視線の先、その遙か向こうで、ルディアの影がピタリと止まった。
そして、ゆっくりと振り返る。続けて太郎に向かい、歩みを進めてきた。
完全に没した太陽は、空における影響力を完全に失い、時刻は完全な夜となっていた。
代わりに、雲の切れ間から月が顔をのぞかせ、その光が闘技場に差し込んでゆく。
「お前が……兄さんを………」
月光に照らされた彼女の表情を見た瞬間、太郎の背筋に冷たいモノが走った。
それは、激情では無く、冷徹と呼ぶべき表情。その鋭い眼光からは、凍てつく刃のような感情が発せられている。
それは、殺意と呼ぶべき感情であった───。
─────来る!
太郎がそう感じた瞬間、その刀身をキラリと輝かせながらルディアは跳躍し、その喉笛めがけて短刀を振り抜く。
その攻撃を紙一重でかわすと、今度は疾風のような回し蹴りが飛んだ。
素人の動きでは無いことは、すぐにわかった。
ルディアは右手に持った得物だけに頼ることなく、拳や蹴りを混じえて攻撃を仕掛けてくる。
太郎に格闘技の知識は無いに等しいが、その実力は肌をもって感じ取ることができた。
だが、アウランには遠く及ばないことも、ほどなく感じ取る。
繰り出される短刀を、その腕ごと掴み、背後へと投げ飛ばす。
ルディアは空中で、猫のように一回転し、その先の砂地へと着地した。
アウランよりも勝っているものがあるとすれば、この軽い身のこなしだけであろう。
倒すだけならば、すぐにできるような気がした。
だが、できることなら傷つけることなく決着をつけたい。
───何とか、もう一度、組み伏すことはできないか?
そう考える太郎の耳に、わずかな金属音が入ってくる。
それは、鍵穴を回す音───続けてジャラジャラと、鎖が擦れる音が聞こえてきた。
これは──まさか───!?
嫌な予感が頭をかすめる。
「おい、ちょっと─────うわっ!」
ルディアにそれを知らせようとしたが、気付けばその短刀が目前に迫っていた。
咄嗟に体をさばくが、若干反応が遅れる。ローブの胸元を横一文字に切り裂かれてしまった。
「待てよ!あれを………!」
連続攻撃を試みるルディアを手で制し、出入口ゲートを指さす。
そこで彼女も、やっとその違和感を察しとったようであった。
それは、ゲート前にあふれるように集った無数の松明の火。
ガラガラとゲートが開かれると、その火は濁流のように闘技場へとなだれ込む。
「おい!誰かいるぞ!」
「やっぱりここだったのか!」
「いや、でも2人いるぞ。もう一人は誰だ?」
「おい、そこの2人、動くな!!」
松明を持った騎士の数は、ざっと見ても50は下らないようである。
そんな彼らを呆然と見やるルディアの手を、太郎は掴むと叫んだ。
「おい、逃げるぞ!」
その言葉が意外だったのであろう。ルディアは驚いたような顔で太郎を見る。
そんな彼女を、半ば無理矢理に引っ張ると、太郎は騎士たちとは反対方向へと駆け出した。
「お前は……私を捕まえに来たんじゃないのか?」
「違う、俺はあんたを助けに来たんだ!」
叫びつつ、観客席の金網へと飛び付き、下のルディアへと手を伸ばした。
ルディアは一瞬ためらいを見せるが、背後から迫る騎士団を見ると、覚悟を決めたように跳躍し、太郎の手を取った。
力まかせに彼女を引き上げる。そして金網を掴む彼女に「登れ!」と命じた。
「おい、待て、待てぇぇ!」
松明を投げ捨て、必死に金網へとジャンプする騎士団を尻目に、二人は観客席へと降り立つ。
続けて観客席を駆け上がり、外壁上へと跳躍した太郎は、先ほどと同じ要領でルディアへと手を伸ばし、彼女をそこへと引き上げる。
その頃には、観客席の出入口から、松明を持った騎士たちが現れ始め、彼らの方へと迫っていた。
ならば、と外壁の外へ視線を送る。
だが案の定、その下にも、うごめく無数の松明の火が見えた。
「おい、この上にいるぞ!」
「気を付けろ、飛び降りてくるかもしれん!」
その様子を見たルディアの顔に、絶望の色が浮かぶ。
「ダメだ……もう、逃げられない」
そう、弱気な発言をしたルディアを横目に、太郎はその手を強く握りしめた。
「大丈夫だ。必ず逃げられる!」
そして、その手を強引に引き寄せると、彼女の体を抱き上げた。
「え………ええっ!?」
「跳ぶぞ。しっかり掴まってろよ!」
突然の出来事に戸惑うルディア。
太郎は前を見据えると、膝に屈伸をもたせ両脚に力を込めた。
この場所では助走もできない。
しかも体重は二人分。果たして思うように跳べるのか、着地に成功するかもわからない。
だが、やらねばならなかった。
いや、今の自分であれば、必ずできると確信していた。
太郎は叫び声を上げながら、足場を強く蹴って跳躍する。
ざわめく騎士たちの頭上───月夜の空を駆け抜けるように、太郎の影が過ぎ去っていった。
流れる景色と、頬を撫でる風───。
────まるで、空を飛んでいるようだ、とルディアは感じた。
やがて太郎は、騎士たちの遙か向こうへと着地する。
続けて、二人は脱兎のごとく走り去っていった。
それは、にわかには信じがたい光景であった。
騎士たちは、しばらく呆然とその光景を眺めていたが、やがて我に返ると騒ぎ始める。
「な、何だ、今のは!?」
「生身の人間が、あんなに跳べるハズがない。きっと魔法だ!」
「追え!とにかく追いかけるんだ!!」
慌てて二人を追いかけるが、もはや後の祭りであった。
駆け足の者は無論のこと、騎馬で追走した騎士たちですら、太郎に追いつくことはできなかったのである。
◇◆◇◆◇
二人は騎士団の追跡を振り切り、小川のほとりへと来ていた。
付近に民家は無い。太郎は木陰に身を隠すと周囲を見渡し、そして大きく息を吐いた。
夜の闇の中で、川のせせらぎの音が、少し不気味に響いていた。
だが、この場所であれば、話をしても周囲には聞こえづらいであろう。
「………あの、いい加減、下ろして」
わずかに顔をそむけ、どこか恥ずかしそうにルディアがつぶやいた。
「あ、そうだな。ごめん」
太郎は言われるがまま、彼女の体を地面へと下ろす。
だが次の瞬間、鋭いパンチが顔面に飛んできた。本能的にそれを手で受け止める。
「何故、私を助ける?」
その率直な問いかけに、太郎は考えた。
この辺で、全てを話しておくべきだろう。
たとえ、信じてもらえないとしても。
「俺は、あの試合の最後で、君の兄さん───アウランに頼まれたんだ。君には身寄りが無いから、俺に君の今後を託したい………とね」
「…………ウソだ」
「ウソじゃない。そうだ、そういえば、君は奴隷から解放されるんじゃなかったのか?何故、まだ首輪を………?」
それを聞いた瞬間、ルディアの表情に動揺が走った。
奴隷からの解放は、兄と自分しか知り得ぬ話ではないか。
それを知っているということは、目の前の少年が言っていることは……事実なのか?
だけど、信じたくは無い。
よりによって、兄の仇が、自分の保護者になるなど!
「ウソだ、ウソだ!兄さんが、そんな事を言うハズない!兄さんは……私が後を追うことを望んでいるはずだ!」
その瞬間───、乾いた音が響く。
太郎はルディアの頬を平手打ちしていた。
思わず手を出てしまった事に後悔し、ハッと手を見る。
ルディアは両目に涙をため、体を震わせながら太郎をにらんでいた。
「それは君の願望じゃないか?アウランはそんな事を望んじゃいなかった!君に、この先も生きて欲しいと望んでいた!」
それを聞いた瞬間、彼女の両目から涙がこぼれ落ちる。
そうだ。この少年の言っていることは事実なのだ。
兄が、自分の死を願うハズは無い。そんな事、始めからわかっていたのに。
剣闘奴隷の宿舎で暮らした彼女には、よくわかっていた。
たとえ言葉を交わさずとも、戦いを通じて友情が芽生えることがある。
そして、たとえ親友であっても、剣闘試合の相手となれば、その命を奪わねばならぬ事を。
ルディアは涙を流しながら、口に手を当て、低い嗚咽をもらす。
そんな彼女に、太郎は低い声で告げた。
「君に伝えなくちゃいけない。アウランの最後の言葉を……。彼は”約束を守れず、すまなかった”と言っていた……」
それを聞いた瞬間、ルディアはその場に泣き崩れる。
その低い嗚咽を、小川のせせらぎが少しずつ、かき消していった。
太郎は月を見上げながら、この先について思案する。
───これから、どこへ行けば良いのか。
だが彼にとっても、身寄りと呼べる場所は、ひとつしか無かったのである。




