一人だけのブルペンで
余計なことは何も要らない。ただひたすらに、無心で腕を振ればいい。指先をスナップして硬球に回転を伝え、真っ直ぐに速く狙った場所へと白球を投げ込む。脚で強く地面を蹴って、そして地面を踏みしめて、前へと力を伝える。
単純なことだ。今まで何千、何万回と繰り返してきた。
必要なのは自分自身のコントロール。重心を崩さずに、リリースポイントを乱れさせずに、呼吸を整えて一心に、想像したキャッチャーミットへ硬球をぶち込んでいく。
甲子園初出場を記念して十年前に増設されたというブルペンには、今はもう俺しかいない。最後に時計を見た時は午後九時を指していた。それからどれくらい時間がたったかはわからない。どうでもよかった。俺はただ、この硬球を投げ続けるだけだ。それだけでいい。それ以外は何も要らない。
汗が額から流れ落ちる。
今は十一月の頭。もう冬に入っているはずだ。なのに身体が暑い。汗をぬぐって俺は、また硬球を握った。そしてワインドアップ。指先にボールの縫い目を意識、そして脱力し振りかぶる。
硬球が架空のミットを突き抜けて、ネットへとぶつかった。
それを確かめて、俺はまた新しいボールを握る。これでいい。何も要らない。余計なものは、一切何も──
それでも俺は、泣いていた。
加藤京香と付き合い出したのは、九月のはじめだった。
新チームが発足して、まだ一ヶ月も経っていないころ。俺は新チームの一年エースとして期待されていた。一つ前の代では二番手に甘んじたけれど、もう違う。はっきり言って、先輩のピッチャー陣よりも俺のほうが上だ。甲子園のマウンドだって経験した。俺がエースをつけることに、誰も疑問は抱かなかっただろう。
敗退した甲子園の試合だって、俺じゃなくてエースの先輩が崩れたんだ。リリーフで登板した俺は、五回ノーアウト一三塁から無失点で九回まで切り抜けた。満点の内容だったことは、間違いない。
それでも学年で──いや、校内でも一目置かれている加藤京香から告白された時は、純粋に嬉しかった。
同学年の加藤京香は、ショートカットで目が大きく、大人びたと言うよりもいわゆる可愛らしい部類に入る。スタイルだって悪くない。明るいクラスの人気者、というやつだ。
俺は小さいころからずっと野球ばかりをやってきた。
リトルリーグではエースで四番。中学では部活に入らずにシニアでもエースで四番を張った。同じ学校の奴らが遊んだり学校生活を謳歌しているときも、ひたすら野球。プロの二軍崩れである父親の思いに答えなきゃいけなかったし、純粋に野球が好きだった。
俺から野球を取ったら何もない。ここ数年で甲子園の常連校となっている今の高校にも、推薦で入学した。俺には本当、野球しかない。他には何も、持っていなかった。
そんな俺を、加藤京香は好きだと言ってくれたんだ。
初めて帰ったその日は今でもよく覚えている。
俺の高校の野球部には週に一回だけ、オフの日がある。その日に俺は京香と一緒に帰った。喫茶店に寄って他愛のない会話をして、ただそれだけ。
京香は笑うといつも以上に可愛らしい。小ぶりなくせに艶っぽい唇が異様に魅力的で、そして俺にしか見せない笑顔を向けてくれた。
今まで経験したことのない暖かさ。胸の鼓動が高鳴って、身体が熱くなるような感覚。
恋、というやつなんだろう。
いつかは自分もそういうことをする時がくるんだろうと思っていた。しかし、そんなものは今までドラマや映画の中の話でしかなかったんだ。だからなんというか、実感がない。けれど目の前にある京香の笑顔は、本物だ。
毎日が素早く過ぎていった。
京香は俺の隣のクラスだ。昼休みには学食で一緒に昼食を食べる。放課後は夜遅くまで俺の練習が終わるまで待ってくれて、そして一緒に帰った。途中でファーストフード店や喫茶店によって他愛のない会話をして、それが楽しくて楽しくてしょうがなかった。今までの俺の人生の中で、一番幸せな時間だったと思う。
それが、二ヶ月ほど続いた。
そして十月の終わり。三日前のことだ。
俺は、地区大会の決勝で負けた。
一点リードした、九回裏ワンナウト一塁。相手の四番打者を相手に投げた俺の渾身の一球は、驚くくらいにあっさりと打ち返されたのだ。九回裏ワンナウトからのツーランホームラン。なんとも情けない負け方だった。
何も言えない。俺の力不足だ。
三塁側スタンドで泣いている京香が目に映る。
俺に向けてくれたあの笑顔が、くしゃくしゃだ。泣いているんだ。ああ、俺は今、確かに負けて──
──なんだ、これは。。
俺の中から、怒りが湧き上がってくる。
──なんで俺は、負けてこんなことを考えている?
どうしようもなく、ムカついた。
京香を見れば、心が安らぐ。慰められる気がした。そして俺は安心している。それがたまらなく、イラついた。
なんで俺は、安心しようとしているんだ?
なんで俺は、負けを受け入れて平然としようとしているんだ?
ふざけんじゃねぇ。
そんなもの、いらない。
京香の笑顔は優しい。けど、だから、甘い。
あの笑顔を見て、俺は安らいでしまう。
でもそれじゃ駄目なんだ。俺の中にある何かが、少しずつ萎えていく。
そう、京香と付き合いだしてから俺は練習を若干早く切り上げてしまっていた。
いつもなら練習後にも投げ込みをやっていたのに、それよりも俺は京香の存在を優先してしまったのだ。
野球をし続けることは辛い。それよりは、京香と一緒にいたい。
けど、それは甘えだ。ほんの少しの妥協が俺を弱くしていく。すぐに諦めてしまうようになる。
もっと、やれることはあった。
もっと、俺は強くなれるはずだった。
俺の最後の一球を思い出す。
ベストコンディション、のはずだった。なのにあの球は俺が甲子園で投げた、あの一球と同じものだったのだろうか。手ごたえはあった。なのに、実感がない。あれが俺の今までで一番のものだったという、確信がない。
俺は、前に進めていないのか。
いや、そもそも、後ろに下がっているんじゃないのか?
スタンドの京香が、俺を見ていた。
それだけで心が温まるような気がする。この悔しさが悲しみに変わって、そして温もりに癒される気がする。それはきっと、間違っていないだろう。
けど、いや、だからこそ、俺は怒っているのだ。
いらない。
こんな俺は、いらない。
京香が嫌いになったわけじゃない。
俺は今でも、京香が好きだ。
けどそれ以上に、俺は野球の方が大事だという、ただそれだけのこと。
もったいねぇな、と誰かが言った。
でも俺にはわかるんだ。
あの優しさは確かに魅力的だ。あの温もりは手放すには惜しい。けれども、それを断ち切らなきゃいけない場所がある。俺の目指す場所は、俺の求める頂点は、俺が今の甘い俺のまま到達できるほどのものじゃない。
ただ、それだけのことだ。
だから俺は硬球を投げる。
誰もいなくなったブルペンで、ただ硬球を投げ続ける。
流れ落ちる涙すら、俺にはいらないものだ。
なのにそれは止まらない。
自分で止めることはできない。
悲しいんだ。俺はやっぱり、あの暖かさを失いたくなかったんだ。
けど。
だけど。
それでも俺は、硬球を投げ続けていたい。