ピンクちゃん
その赤いライターには、白く小さな字でお店の名前と電話番号が入っている。赤に白を混ぜた色だからと言って、そのライターの事を真理ちゃんは「ピンクちゃん」と呼ぶ。ピンクちゃんは真理ちゃんのスーツ、左ポッケで最近を過ごしている。お店のママに捨てられそうになったピンクちゃんを、拾ってくれたのが彼女だからだ。
ピンクちゃんは普通のライターなのだけれど、少なくとも外見上はごくごく一般的なライターなのだけれど、ちょっとした弱点がある。そして、そのウィークポイントはピンクちゃんの最大のピンチを何度か運んできている。
ピンクちゃん、ライターなのに火が点かないのだ。
それは生産された時点からの欠点で、どこが悪かったのか何が原因だったのか、ピンクちゃん本人にもちっとも分からなくて、オイルは充分に入っているし、ピンクちゃん自身も小さなボディにはちきれそうなぐらいに頑張りで充満しているのだけれど、やる気はまるで空回り。どんなに頑張っても、ほんの小さな火花を見せたり見せられなかったりする程度。
その役立たずなライターは、もちろん使い物にならないので、最初に渡されたお客さんから返されて来ていた。
「ママ、これ使えないよ」
ピンクちゃんが身体に刺青している名前と電話番号は、ちょっとした繁華街の中、古いビルにあるスナックのもので、ピンクちゃんにとってその事はとても有利に働いた。普通ならぽいと捨てられてしまって、はいそれまでよの人生だったはずが、お客さんがママの、「あら、ゴメンナサイねぇ」と鼻にかかった甘い声が聞きたいが為に、お店に連れて帰って来てくれたのだ。
ママはもちろん役立たずなピンクちゃんをうりゃっと捨てようとしたのだけれど、幸いな事にまたしても救いの神が現れた。それがピンクちゃんの現在の存在場所をくれている、真理ちゃんだった。
「あ、ママ、捨てちゃうならそのライターくださいな」
あらやだわ、変なもの欲しがる娘ねぇ、ところころ笑いながらも、ママは可燃物のゴミとしてライターを捨ててもいいものかと迷っていたので、別にゴミなんかくれてやっても、と思ってピンクちゃんを真理ちゃんにあげた。
真理ちゃんがピンクちゃんを救ったのには、ちょっとした事情があった。
彼女はスナックの中でも一位二位を争う、美人ではない娘なのだ。もちろん、 そういうお店に勤めているのだから、不細工って訳じゃない。でも、真理ちゃんはどちらかといえば可愛い、田舎っぽい顔で、ファンデーションを取れば鼻の上にそばかすが散っているのが悩みだった。そして、彼女はあるお客さんからプロポーズされているのだ。
そのお客さんは飯田さん。髪の毛だけはふさふさいっぱいあるのだけれど、背は低いし、ぽってりした体系をしている。年だって、そんなに若くない。彼の年齢なら、結婚して子供がふたりほど居てもおかしくないくらい。
彼は実家で作ったのだと、ジャガイモやトマトを店にお土産として持ってくるので、従業員や常連さんからは少し笑い者にされているような人だった。
悪い人ではない。
いい旦那さんになりそうな、いいお父さんになりそうな、老後も夫婦で美味しいお茶が飲めるであろう、ふくふくとした人だ。今まで貢ぐだけ貢がせるような男ばかりを恋人にしてきた真理ちゃんには、彼のプロポーズは嬉しかったし、お嫁さんになれる自分というのにくらくらしたりもした。
けれども。けれども、と真理ちゃんは思う。
私だって一応夜の女、燃えるような恋の方がお似合いなのじゃないかしら。
プロポーズの返事はいつでもいいよ、と言われている。
でも、やっぱりいつまでも待たせておけるものではない。
真理ちゃんはピンクちゃんを飯田さんに渡して、返事をするつもりだった。
『ごめんなさい、あなたじゃこのライターと同様に、私の心に火を点けられないわ……』
そう言って。でも、本当は真理ちゃんも悩んでいるのだ。おばあちゃんの家は農家だったし、農業だってお手伝い程度だけれど多少は出来たりする。飯田さんはいい人で、今までの恋人達に比べたら、真理ちゃんはとても幸せにして貰えるだろう。そういう人は、優しいオーラが出ているからちゃんと分かる。
ただ、夜の女としての、プライドが。
人はそんなもの、邪魔だというだろう。馬鹿なつまらないプライドで、幸せを逃すなんて救いようがないと。
店のドアが開く度、真理ちゃんはスーツのポケットの上からピンクちゃんをそっと押さえる。硬い感触。お店に入ってきた人が飯田さんではないと知ると、途端に真理ちゃんはほっとする。
ほっとする真理ちゃんなのだけれど、どこか寂しい気もしてしまうのだ。
今夜も来ないのかしら。
どうしてだろう、断ろうと思っているのに、飯田さんを待っているとどきどきした気分のようなものを味わってしまうのは。
ピンクちゃんはもちろんそんな事知らない。ただ、そこにあるだけ。ピンクちゃんに、ひとりの人、いや、ふたりの人の人生がかかっているなんて知るよしもない。
ただ、ピンクちゃんは真理ちゃんのポケットにすっぽりと収まっている。
真理ちゃんは神様に祈ってしまう自分に気付いていない。もしかして、このライターが一度でいいから火を点けたりしたら、なんて。一度でいいから奇跡が起きてくれたら、なんて。
ピンクちゃんは何も知らないので、祈ったりも何もしないし、こんなに自分が大切な任務を負わされているなんて気付いてもいない。
捨てられないといいね、ピンクちゃん。
ピンクちゃんは、奇跡を身に纏えるのかしらね。
赤いライターは、そして今日も祈る女の子のポケットの中で、直接自分には関係のない男を待っていたりするのだ。