21話
レヴィンは夜道を、いや道という道ではない山の中を駆けていた。何度も足を取られそうになっても転がるように前へ前へと走る。しだいに足はもとより腕や顔にも小さい傷が増えていく。それでも一瞬でも止まることはできない。短い息を吐き続けた肺は深く多くの酸素を必要としていたが、そんな暇さえもなくただひたすらに足だけを動かしていた。
そして次の一歩を踏み出した時、ガクンと体がそのまま下降する感覚に同時に咄嗟に口を閉じた。急勾配な下りに面した瞬間に体勢が崩れ、まさに文字通りコロコロと斜面を回転しながら滑り落ちる。
なかば意識を失いかけていたレヴィンだったが、痛みより何より息苦しさでハッと目を見開けば、そこが水中であることに気付いた。どうやら滑り落ちた先に川が流れていたらしい。
苦しさでもがくが、暗闇と川の音とがこの身を隠してくれる。息が続く限界まできたところで、水面から顔を上げて大きく口を開けて息を吸い込んだ。だが飲み込んだ水とむせ返る苦しさに咳き込む。そうしながらも河岸に辿り着こうと両手両足を必死に動かした。
そこまで川幅のある大きな川ではなかったのか、しばらくすると手の先に何かが触れる。それをあらん限りで掴んだ。そのまま流れに任せるように岸へと流れ着いても未だ苦しさで大きく息を吐きながら何度も咳き込む。
真っ白な頭にはハアハアと空気を求める自分の息づかいと機能ぎりぎりで動いているだろう肺の痛みを感じた。
───まだ生きている。
そのことに安堵したのも束の間、追われているという強迫観念が無意識に体を動かした。
いったいなぜ自分がこんな目に遭っているのか。
そう、これは狩りだ。まさに逃げ回る兎そのものがレヴィン自身だった。
『私と賭けをしない?』
そう言われた。意味もわからず黙っていると、女は次にこう言った。
『今からあなたを解放してあげる』
信じられない言葉に再び黙り込んだ。素直にそれを信じるほど馬鹿ではない。
『それで、あなたが十日間逃げ延びることができたら勝ちね』
十日。甘く見られたものだ。生まれてから今までそんな生き方ばかりだった。悪さをしては逃げて、また悪さして。身の隠し方や息を潜めて生きていく生活しかしてきていないのだ。目の前の女がどのくらいの実力なのかなど考えたとて意味のないこと、そんなものは知ったことではない。ただ「逃げる」こととなれば自分にとってはそう難しくはない。
腕の拘束以外を外されて、そのまま外へと連れて行かれたのは数日経った夜だった。昼間は貴族令嬢だった女が、今度は顔を隠しもしないでレヴィンを捕獲した時と同じ身軽な軽装で現れた。
深夜の町外れとはいえ、人も通っている何の変哲もないその場所で、腕の拘束は外された。
しばらく呆然としていれば、どこからともなく現れたあの時のもう一人の男──ハツと呼ばれた男がニヤニヤして立っていた。
『頑張んなよ〜』
相変わらず嫌味な口調で手を振っている。無性に腹が立った。あからさまに馬鹿にしている。
『油断しないでね。あと、死にたくなければ立ち向かおうとはしないで』
本当に身を案じているかのようで、だがとんでもないことを言ってくる。
最後まで意味がわからないままだったが、このまま見逃すというのであればそれに乗ってやろうと思った。思惑があろうがなかろうが、逃げ通せる自信はある。
レヴィンはわざとらしくゆっくりとした足取りで二人から離れていった。そのまま灯りの先の街中へと足を踏み入れ、しばらくは人の流れのまま歩いて様子を見る。三十分ほど経った頃にようやく気配を消しサッと建物の影に身を潜めた。数時間そのままでいた。
夜明けが来ても物陰からは動かず、レヴィンは待ち続ける。再び夜が近づいてくる頃にのっそりと立ち上がると人混みに飲まれるように歩き出した。
逃げ延びるのであればあえてこの地を離れて遠くへ行くことは危険な行為だ。時と場合によるが、今回は近くで息を潜めて何食わぬ顔でいる方がいい。
食料や衣類などを勝手に拝借させてもらい、深いフードを被ったまま夕闇の街の中を歩く。数ヶ月前に隣国からこの国の王都にやって来たレヴィンにとって、まだ知らないところばかりだ。それでもその短い期間でつるんでいた連中とは様々な場所を走り回った。
『赤い鼠』は王都外れの十二区と呼ばれる貧民街を根城にしたギャング集団だ。
発展しているロザエ王国ではあるが、それでも歴然とした貧負の差はある。その日を繋ぐためだけの生活をしている者も多くいるが、十二区には彼らのような者が多く住んでいる。そして同じ平民からしても十二区の人間はあまりよく思われていない。
訳あって流れついた者や行く当てもなく彷徨うしかなかった者など、見放された者が行く場所の代名詞かのような区域だ。「人買いから逃げて辿り着いた」レヴィンも特段めずらしい話でもなかった。
区域内にある教会では数日おきに炊き出しをしたり医療院は無料で診てくれるなど、国の援助や貴族の寄附もあるが、仕事にも就けない者も多く貧しいことには変わりない。
それでもそれなりに秩序が保たれているのは十二区にいるギャング集団『赤い鼠』が一定の力をもっているからだろう。
レヴィンにとってそれは新鮮に見えた。母国にいたときには見放された子どもたちは裏社会の大人たちにとってはモノ扱いで命令ばかりされてきた。失敗すれば叩きのめされ、成功しても一食分ほどの僅かな金貨が報酬だ。子どもということで、ほとんどが言われたままの強盗や嫌がらせをするくらいのものであったが、それでも貧しい家庭の子や親のない子どもにとっては縋るしかなかった。
そこで腕を認められれば報酬は上がっていく。子どもたちは高い報酬を得ることが自然と目標となり、凶悪な犯罪へと手を染めていくようになる。そこまでのしあがるために他者を欺くこともめずらしくない。幼いながらも殺伐とした環境で生きるしかできなかったレヴィンにとって、今回の依頼はある意味己の実力が認められたものだと自負していた。
所詮『赤い鼠』は隠れ蓑。だがそこで過ごす時間はいつの間にかレヴィンにとって居場所となっていた。ギャングというからにはどのような悪事で暴れているかと思いきや、一環としてあるのは十二区の住人たちを守っていることだった。
王都でも立場的に弱い十二区の人間が理不尽な目に遭ったと聞けば、苦情を言いにそこへ乗り込んで行く。多少なりとも言葉が汚くなったり粗暴の悪さが出たりするため、印象はあまりいいものではないが、ある種の筋の通った行動ではあった。
お互いがお互いを守る、そんな自覚がこの『赤い鼠』には根付いていた。これはまるで王国を守る騎士のようだとレヴィンは最初に思った。嫌われ者扱いされているにも関わらずなんて偽善な集団だと。そんな彼を見透かしたように『赤い鼠』のリーダーであるコルラードはくすんだ笑いを向けて言い放った。
「俺たちは俺たちが許せないと思うことにだけ動いている。単に起爆剤さ」
様々なところで問題行動を起こしているが、それは十二区または十二区に住んでいる人間を守るためであり、その問題行動で警備隊などが駆けつければ住人が他者からどのような不当な被害を受けたのか取り調べるきっかけとなる。起爆剤といった意味がわかった。
『赤い鼠』には十数人の集団だが、みんな二十歳前の少年少女だ。境遇はそれぞれ違うが、ほぼ似たり寄ったりで幼い頃から過酷な生活を強いられてきた。日々の生活は窃盗などの犯罪を生業にしているのではなく、細々とした仕事をしながら何かあれば結束して行動していた。
レヴィンも『赤い鼠』の一員となってからは、寝泊まりしている溜まり場のボロ屋に居候する代わりに、まだ働けない年齢の孤児の世話や荷物運びの仕事を中心にしていた。それでも僅かな賃金が手元に残っており、食うには困らない程度の生活ができた。母国では考えられないことだった。
レヴィンは繁華街の人混みの中、誰かと待ち合わせかのように店先の壁にもたれかかった。フードの下からそっと目を光らせる。この五区は王都でも花街が多く、大なり小なりの夜の店が並んでいる。小さな路地では酒に酔った男女が怪しく睦合ったり、泥酔した人間も道端に転がっている。
数十分経った頃、ある人物を目にしたレヴィンは足を動かした。ゆっくり近づいて数メートル間隔で人並みに紛れてしばらく後を追う。その人物が一人なのを確認するとそっと横に並んだ。
「コルラード」
「……生きてたのか?」
「ああ」
「……お前は何者だ? 俺たちを巻き込むな」
「悪かった。それだけ言いたかった」
「……昨日、ある男がお前を訪ねてきた」
「そうか」
「数日前から消息がないと伝えた」
「……わかった。じゃあな」
「死ぬなよ、──馬鹿野郎」
「………………」
レヴィンはそのままコルラードから離れて角を曲がる。思った通り、『赤い鼠』に自分を探りに来た人間がいた。城で捕まったのか確認したかったのだろう。別にあの「エタ」と呼ばれた女のことを信用したわけではないが、直接『赤い鼠』のボロ屋に行かなくて正解だったようだ。
今の自分はすべてが半信半疑の状態だ。誰が本当のことを言っているのか、または嘘をついているのか。
わざわざ隣国であるこのロザエまで来ての仕事が城の侵入ルートや警備体制の情報を仕入れることだったのか?
それも式典の最中での厳しさのかなで?
ていよく起こった事件で犯人を探している……?
もし捕まっていたら?
とてつもなく大きなものが裏で動いているのを今更ながらレヴィンの頭を掠める。
『君はね、もともとここで捨て置かる駒だったんだよ』
あの男が言った言葉が本当だったらと考えて、足元が崩れ落ちてく感覚が襲ってくる。あの夜に捕縛されたとて、事件の犯人ではないと証明できるものは何もない。隣国の裏組織の命令だと真実を言ったとしても、実際は人買いから脱走し、そのまま『赤い鼠』へ流れ着いたという足取りが残るのみ。
そこでハッとする。
そうなれば『赤い鼠』が捜査の対象になる可能性が高い。もし一連の事件が彼らの仕業として捕縛対象となってしまったら……。
────『赤い鼠』を隠れ蓑にして王宮を偵察するのが目的だった──
女──エタが言った通り、自分の任務はこの国に入り人買いから逃れたふりをして『赤い鼠』の仲間となり、城に潜り込んで情報を得ることだった。なぜわざわざ『赤い鼠』と接触しなければならなかったのか。
自分をここに送り込んだ裏組織は、本来の任務が〝成功〟しレヴィンが捕まったら、その先に『赤い鼠』がいることも想定していたということか。
あの汚れた世界の中でも凛として生きている奴ら。貧しさと偏見と戦いながらも仲間を守っている奴ら。まだ幼いながらも、それよりも幼いものを面倒見ている奴ら。
「────くそっ」
どちらが真実なのか、それはすでに決まっていた。だが、どうしても確認したかった。レヴィンの足は真実を確かなものにするために動き出した。




