13話
翌朝、エルネスタが何事もなく顔を出したことにアニカはホッと胸を撫で下ろした。それでも怪我をしているのだからと出仕したそうそう暇を取るように言ってきた。大丈夫だと言っても首を振るアニカにエルネスタは渋々引き上げることとなった。
王宮では昨晩の出来事で騎士たちが走り回っている。文官や侍女などもどこか緊張した面持ちだ。
天井に鮮やかな絵画が描かれている小ホールの横を抜けていく間にも数人の騎士とすれ違う。いつもなら警備をしている騎士を見かけるくらいでここまでの騒がしさはない。回廊に囲まれた小さな庭には庭師がいつものように手入れをしているが、この騎士の多さに戸惑っているかのようだ。
おそらく、王宮にいる者は全員の身元を調べ上げられて、使用人は下女や下男にいたってもその出入りに対し厳重に調査されているはずだ。とはいえ、王宮で働く者はすべてに後見人がついている。しっかりとした素性の人間しか仕事に就けないし、また問題を起こした場合は本人はもとより後見人にまで責任が及んでくる。
エルネスタは一番大きな建物である中央棟の階段を上り、その足を三階まで向けた。三階からは限られた者しか進めない制限区域となっている。そこから上に行くには警備をしている騎士に通行書を見せ、かつ氏名の記帳が必要だ。もちろん、その階以上に出仕している高官などはそのまま通行はできるが、厳戒態勢が取られている現在は例外なく本人による署名が必要となっていた。
エルネスタは高官ではないが王太子妃の侍女ということで制限区域の通行書は常に持っている。普段ならそれで通行できるが、今回は名簿に記帳してから先に進んだ。
再び階上を目指し五階までやってきた。そこは階の違う他の棟への渡り廊下がいくつかあり、王族の居住区である棟とも繋がっている。国王はそこを通って最上階の執務室までやってくるのだ。はっきり言ってかなり遠いし、頭に地図がなければ迷うだろう。
そんな迷路のような渡り廊下を窓から眺めながら、エルネスタは最奥に当たる部屋まで歩いて行った。そして扉を軽く叩きそっと開く。
中には数人の文官が机に座っており、エルネスタの顔を見ると笑って出迎えてくれた。
「これはこれはエルネスタ嬢」
「こんにちは。お邪魔します」
執務室にしては広く、天井近くまで本棚がある。その本棚のそばで脚立で危なげにしながらもこちらに手を振ってきたのは、兄のギルベルトの補佐をしているトジェックだ。
「こんにちは、エルネスタ様」
「こんにちは、トジェック。兄様はいるかしら?」
「はい、奥の執務室にいますよ」
トジェックは最後の本を仕舞い終わると、身軽な動きで脚立から飛び降りた。
「こら、トジェック。飛び降りるなと何度も言ってるだろ。物が落ちる」
「すみませーん、でもそれはアルガ様の机に問題があるかと思います」
苦言を言ってきたアルガの机には何冊もの分厚い本が重なっており、その本人さえも隠れて見えない有様だ。
「必要だから置いてるまでだ」
積み重なった本の奥から声だけ聞こえる。
「はいはい。──でもってそれを片付けるのは僕にさせるんだから困った先輩です」
最後の方は小さくエルネスタだけに聞こえるように言ってうんざりげな顔を見せる。相変わらずこの執務室はなんだかんだと和やかだ。
ここはエルネスタの兄であるギルベルトが管理している。彼は公私とも国王の侍従をしている父親の補佐をしつつ、王太子であるクレイグの側近も兼ねている。
簡単にいえば王族のスケジュールを組んだりするのが主な仕事ではあるが、直接国政には関わっていないとはいっても、なかなかの忙しさではある。
とはいえ反対に国政を担う宰相室は殺伐とした見るからに多忙さが漂っているため、その対比は明らかだ。
トジェックが奥の扉を叩きエルネスタが来たことを告げると、出迎えたのはギルベルトの補佐長であるサイファスだった。
「やあ、エル。どうぞ」
「こんにちは。サイファス兄様」
サイファスはエルネスタの従兄弟だ。部屋に入るとギルベルトが執務机で書類に目を通しているところだった。
一瞬、目を挙げてソファに座るように目くばせをした。エルネスタは微笑むと机の前に備わっているソファへと移動する。
部屋は細長い造りでギルベルトの補佐たちが仕事をしている部屋に比べれば窓も小さく薄暗く感じる。だがその分落ち着いている印象を与えている。
「怪我の具合はどうだ?」
エルネスタが座ったところで、ギルベルトが腰を上げて聞いてきた。靴音は絨毯に消え、静かな足取りで彼女の前のソファへと座る。サラリとした漆黒の長い髪を後ろに結び、切長の目元をしながらも穏やかな雰囲気を纏っている。それは姉のシルビアにも似ている。二人とも父親似だ。ちなみに弟であるレスターグは母親に似ており、エルネスタはその両方に面影がある。
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、王太子妃様のお気遣いにより本日はお暇を与えていただきました」
「そうか」
すでに怪我のことも知っているのはさすがというべきだが、エルネスタからすればちょっとした失態でもあるため、あまり突っ込んではほしくない。
実はこの兄の執務室で働いている全員が【月】である。
表向きは貴族の子弟という肩書きをもった文官ではあるが、密かに辿ればユリザ侯爵家の縁戚へと繋がっている。
もちろん【月】全員がそうとは限らない。身寄りのない孤児などを引き取って養子とし、【月】として育て上げることもしており、劣悪な環境から救ってくれたことと必要以上の高等教育を与えてくれたユリザ侯爵への忠誠心やその恩義をしっかりともつ彼らだ。
サイファスは父方の従兄弟であるためもちろん【月】の顔をもつ一人だ。何よりいずれ家督を継ぐこととなるギルベルトの側近ということもあり、幼い頃から共に鍛錬に立ち向かった仲でもある。
ギルベルトは表向きは侯爵家の跡継ぎでもあるため貴族としても厳しく教育されていたが、何よりも【月】の次期当主という立場は幼少期から酷烈な鍛錬の日々であった。厳しい訓練を受けたエルネスタでさえも計り知れないような修行だったと聞いている。現に服に隠れた身体にはいくつもの傷があり、端正な顔にも薄い傷跡が浮かんでいる。
直系の後継者としての定めであり、現当主である父も同じように育ってきた。弟のレスターグは「弟で良かったと」と鍛錬後のげっそりした顔でいつも言っている。
サイファスの父も弟という立場であるが、その気持ちがわかる分、息子である彼には何よりもギルベルトを支えてほしいと思っているようだった。
「この部屋、もう少し明るくしてもいいと思うのですが」
「ふっ、来るたび毎回同じこと言ってるな」
「だって、やっぱり暗いんですもの。昼間なのにランプが明々とついてるなんて怪しさ抜群だわ」
「そんなに怪しいか? だが窓は小さいが多くあるから、そのぶん光が入り込んだ時に手元が見えにくいんだ。だからその窓も遮光するから部屋にはどうしても灯が必要なんだよ」
くくくとエルネスタの意見に笑いながら応えるギルベルトはサイファスが淹れた紅茶を一口飲んだ。
「それで今日はどうした? 暇を持て余したのか?」
「まあ、それもありますが……」
「あの拾い物についてか?」
ギルベルトは足を組み、そこに置いた片手の指をトントンとしながらニヤリと笑った。エルネスタは驚いて一瞬目を見開くが、ギルベルトに向かって大きく頷いた。
「では話が早いですね。お兄様にお願いがあります」
サイファスがエルネスタにも紅茶を差し出してくれた。それをゆっくりと一口含んでから、目の前の兄へと笑いかける。
「あの拾い物ですが、私に譲ってほしいのです」




