ツェツェグの嫁入り
ツェツェグは今でも、母の膝の上で針を動かしていた日々を覚えている。
針を通して感じた母の温かさ。
優しい声に包まれていた日々。
永遠に続くであろう幸福感。
母の微笑み、草原の風、夕焼けの空。
そのすべてが愛おしい記憶。
けれど、母が病で儚くなってから、その世界は一変した。
母が亡くなってまだ土の冷たさも残る頃、義母ができた。
幼いツェツェグにとって、それは家の戸口を蹴破って嵐が入り込んできたことと同じだった。
義母は冷たい目で家の中を一瞥し、言い放った。
「これからは、すべて私がしきるわ」
義母は自分の娘・ミンジンを連れてきた。
ミンジンは母親譲りの黒髪を持つ美しい子で、義母はそのミンジンを溺愛していた。
反対に、ツェツェグは義母の冷たい視線を常に受ける存在となった。
「役に立たない子は、この家には置いておけないからね」
義母がそう言い放った言葉は、今でもツェツェグの胸に深く刺さっている──突き刺さったのは、存在そのものへの否定。
ツェツェグが刺繍をする手も、家の掃除をする手も、すべて義母やミンジンの為の『道具』。
母の遺した刺繍布を義母が冷ややかに捨てる光景は、ツェツェグの記憶に焼きついている。「それだけはやめてください」と涙ながらに懇願した時、ミンジンはツェツェグを嘲笑った。
父は、ただ見ていた。
義母を叱ることも、義妹を注意することもなく、ただ見ているだけだった。
争いを避け、平穏を望む父にとって、前妻の子を庇う理由などないのだ。
「助けて」と手を伸ばした幼い日の声は、いつだって宙に消えた。今も、その手は空を掴むだけだと分かっている。
そんな記憶を胸に抱いたまま、ツェツェグは今日も朝を迎える。
☆
まだ陽が昇らない薄暗い朝。
窓の隙間から、わずかに冷たい風が忍び込む。
頬をかすめた風には、霜の匂いが混じっていた。
凍えた空気は、息を吸うたびに肺を刺激するようで、ツェツェグは小さく息を吐きながら体を起こした。
薄手のショールを肩に巻き付けると、足音を殺して外へ出る。
草原はまだ夜の名残を引きずっていた。
夜空に瞬く星々のいくつかが、消えゆく前の儚い輝きを放ち、遠くでは羊の寝息のような風音が聞こえる。
草の上には白い霜がびっしりと降りており、足元を踏むたびにかすかなきしみ音を立てた。
ツェツェグはため息を一つつき、仕事に向かう。
家畜小屋の扉に手をかけると、ぎい、と軋む音が草原の静寂に溶けた。
中に入ると、ヤギや羊たちが温かな藁の上で丸まっており、耳をピクピクと動かした。
扉を閉め、近くにいた一頭のヤギに手を伸ばす。
「おいで」
声をかけると、ヤギは迷いなく膝元に寄ってきた。
その毛を撫でると、あたたかな体温が手に伝わる。
搾乳に取りかかれば乳が桶の中に落ちる音が小屋に響き、冷え切った手が少しずつ感覚を失っていくが、それでも動きに迷いはない。
──義母の怒声が飛ぶ前に搾乳を終えなければならない。
搾乳を終えて小屋を出ると、草原を照らす淡い朝焼けが遠くの地平線を染め始めていた。
霜が解ける気配はまだなく、足元の冷たさは肌を刺す。
義母の機嫌を損ねることを避ける為、音を立てずに家の中へと戻れば、規則的なミンジンの寝息が聞こえた。
ミンジン──義母が何よりも可愛がる娘。そして、ツェツェグの義妹。
義母は自分の娘を『家の宝石』と呼び、部族の祭りや交易の場ではミンジンに最も美しい衣装を用意して見せびらかす。
しかし、その衣装を仕立てる金銭の節約の為、ツェツェグにはほとんど何も与えられない。
胸の奥に残るざらつきを振り払うように、ツェツェグは冷めた水で顔を洗った。
ひやりとした感触が気持ちを落ち着かせる。
そのまま台所へ向かい、朝食の準備に取り掛かる。
薪を組み、火を起こすと、小さな炎がようやく暖かさを生み出した。
火に鍋をかけ、水を沸かしながら、義母の言葉がふと蘇る──「ミンジンの未来を邪魔しないで、家のことだけをしていなさい」
その言葉は冷たく、何の感情も含んでいないようだった。
当然のことのように、義母はツェツェグに家事を押し付ける。
ミンジンは部族の集まりに呼ばれ、結婚相手を吟味している間も、ツェツェグは黙って家畜小屋にこもり、家を回す歯車として働くことを求められてきた。
自分はひどいことをされている、と理解はしている。
でも、どうしようもないということも分かっている。
火の弾ける音が静かな朝の空気を破るように響く。
湯気が鍋から立ち上がり部屋を覆うが、この家の冷たさは変わらなかった。
寝室で眠る義妹の寝顔はさぞかし穏やかなのだろう──ツェツェグとは違って。
(考えては、だめ)
今、考えるべきは自分のことではなく、家族が満足する朝食のことだ。
食事が整い、義母の顔が険しくならなければ、今日一日は平穏が約束される。それだけが希望だ。
あとは、空気のように振る舞えばいい。
外を見ると、朝日が草原にじんわりと広がり始めていた。
霜の輝きは消え、代わりに草の青さが顔を出している。
草原を渡る風は冷たいままだが、その広がる景色だけがツェツェグに小さな解放感を与えた。
だけど。
(こんなに広いのに、私には逃げる場所はない)
草原は美しい。それでもツェツェグにとっては『閉じられた世界』にすぎない。
……また、一日が始まる。
ツェツェグがすべきことはいつもと変わらない。
義母が奥の部屋から出てきたのは、ツェツェグが鍋の中を混ぜている最中だった。
義母は服のシワを直しながら口を開く。
「うちに縁談が来ているのよねえ」
その柔らかい声色に、ツェツェグの視線は自然と隣の部屋へ向く。ミンジンが気だるそうに目をこすりながら出てきたところだった。
「またぁ? どんな人? こないだみたいな金持ちでも爺は嫌よ」
ミンジンは欠伸混じりの声で義母に尋ねる。
「ふふ。相手はアトラン家。このあたりで一番名の知れた裕福な家柄よ! 昨日の交流会でお父さんがお話を貰ったの。ね、あなた」
「ああ、だが──」
「でね、長男なの。ね、あなた?」
「……あ、いや、違う……末の息子だ」
「は? 何ですって? 今、なんて言ったの?」
義母の声がピリッとした調子に変わった。
「……三男だ」
父はそう言い、肩を下げる。
「さ、三男……っ!? ミンジンをそんな……! 三男なんかに嫁がせるなんてありえない!! てっきり長男の話かと思ったじゃない!!」
義母は眉を吊り上げ、床を強く踏む。
「いや、この話は、ミンジンにでは──」
義母は父の言葉に耳を貸す様子もなく、手の平をばん! とテーブルに叩きつける。
「長男でないと土地や畑を継げないじゃない! ……普通、三男なんて、せいぜい弓矢くらいしかもらえないのよ!? せめて、家畜を引き継ぐ次男でしょうよ……はあ……三男なんて……」
義母は一瞬黙り込み、険しい表情のまま考え込むように口を閉じた。
しばらくして顔を上げると、その視線はツェツェグに向けられる。
「……はあ、なら、ツェツェグでいいわ」
ツェツェグの手が止まる。
「ミンジンを三男に嫁がせるなんて笑い話にもならない。でもこの話を断れば、アトラン家との縁が切れる。それなら、ツェツェグが代わりに行けば問題ない。ミンジンより価値が低いんだから、ちょうどいいでしょう。……ツェツェグ、あんたが嫁ぎなさい」
「……え、で、でも、あの──」
「あんた、口答えする気?」
ミンジンが嫌な笑う方をするのを見て、ツェツェグは唇を噛みしめた。
「…………いえ」
アトラン家が嫌なわけではない。
その名はどの村でも信頼を得ているのだから。
ただ、自分が『代用品』として押しつけられることが、胸を締めつけた。
でも、その場で何も言い返せるはずがない。
義母の冷酷な言葉がいつものようにツェツェグを抑え込む。
「あなた、アトラン家にはツェツェグをやると伝えておいてね」
義母は満足そうに頷き、父にそれだけ言うと、ミンジンの方に向き直って話題を切り替えた。
ミンジンはくすっと意地悪そうな笑みを向け、父はこちらを見ようともしない。
いつもそう。
どんな場面でも、自分の意見は聞き入れられることはない。
ただ、この家の役に立つ道具として使われるだけ。
重い気持ちを持ちながら、その日の夕方、ツェツェグは草原をぼんやり眺めていた。
風は冷たく、薄く色付き始めた空が広がっている。遠くの川沿いには日没の光を反射してきらきらと輝く水面が見えた。
それでも心には何の慰めもなかった。
アトラン家の三男がどんな人かも分からない。
自分が『ミンジンの代わり』としてそこへ嫁ぐこと以外、何も分からない。
(私は、何の為に生きているのだろう?)
歩みを止めて振り返ると、遠くに家が見えた。
窓から漏れる灯りは暖かそうに見えるが、ツェツェグにとってそれはただ『義母の支配する空間』に過ぎない。
少しだけ身をすくめる。
空が暗くなり、草原を渡る風が強くなる中、ツェツェグは不安を感じていた。
☆☆☆
時は流れ、訪れた婚約の儀の日。
ツェツェグは嫁ぎ先の村へ連れて来られていた。
この日はあくまで婚約の儀のための短い滞在で、式までは再び実家に戻ることになっている。
アトラン家の三男、シドゥルグ・アトラン──彼の顔も性格も知らないまま、自分の未来を決める儀式を行う為だ。
賑やかさが、胸に重くのしかかる。
義母とミンジンは手伝いのふりをして、各々ゆったりと過ごしている。
ミンジンは婚約者として迎えられるべき自分ではなく、ツェツェグが選ばれたことに満足しているように見えた。
日差しはまだ暖かさを残しているものの、影が伸び始めた草原には、季節の移ろいを告げる冷気が混じり始めていた。
周囲には笑い声や明るい話し声が響き渡っていたが、ツェツェグの心はどこか遠く、冷たい場所にある。
ふいに、義母とお喋りしていたミンジンがそれをぴたりとやめ、小声で「嘘……。あの人が、アトラン家の三男なの?」と呟くのが耳に入った。
ツェツェグもそちらに目を向ける。
その男は、人混みを抜けてゆっくりとこちらへ歩いてきた。
少し日焼けした肌に、シンプルな革の服を身にまとい、肩には風除けのケープを軽く羽織っている。
無駄のない装いと凛とした佇まいが目を引いた。
彼がシドゥルグ・アトランだとすぐに分かった。
彼の姿は決して派手ではなく、群衆の中で特段に目立つわけではない。
それなのに、歩くたびに人々の視線を引きつけ、自然と空気が引き締まるような存在感を持っていた。
近付いてくる彼の足音が、自分のいる場所へとまっすぐに向かってくる。
ツェツェグは息をのみ、目を伏せた。
「君がツェツェグだね」
目の前に立った彼が低い声でそう言った。美しいミンジンには目もくれず。
彼の瞳は、草原の青空を思わせる深い青をたたえていた。
「……は、はい、そうです」
それだけを言うのが精一杯だった。
彼は軽くうなずき、手に持っていた水筒をツェツェグに差し出した。
「長い移動だったろう? これでも飲んで休んでくれ」
「あ、あの、ありがとうございます……」
差し出された水筒を、ツェツェグは少し迷いながらも受け取った。
その手はまだ少し震えていたが、シドゥルグは気にした様子もなく、次の瞬間には空を見上げていた。
「今日は天気がいいな」
彼はそう言っただけだった。
それ以上のことを言おうとはしなかった。
ツェツェグは言葉を返せず、差し出された優しさが『自分に向けられている』ことに戸惑い、水筒を持つ手を見つめた。
儀式が進む間、ツェツェグはシドゥルグを何度か盗み見ることになった。
彼は決して多くを語らず、周囲の喧騒にも動じない。どこか不思議な安心感をもたらす存在だったが、それが何故なのかは分からなかった。
彼のようにしっかりした人物に比べて、自分は『ミンジンの代わり』としてここにいるだけ。ミンジンに何度もそう言われてきたし、自分でもそう思っていた。
自分なんか、家族にとっても『本物』ではない。
父にも、義母にも、何一つ期待されたことはなかった。
(でも、もしかしたら.…)
淡い期待をした自分に気付いたツェツェグは、頬に火が差すのを覚え、下唇を噛んだ。
儀式が終わり、実家へ戻ったツェツェグは、見送りの際のシドゥルグの姿を思い返していた。
「また」とだけ言い、小さく微笑んだあの瞬間。
その穏やかな声と表情が、心に波紋を残し続けている。
あの一言が、どれだけ特別だったかを噛み締めることで、目の前の現実を遠ざけたかったのだ。
しかし、その逃避の時間は短すぎた。
帰宅すれば、待っていたのはいつもの苛烈さだった。
「調子に乗らないでよね。あんたはあたしの代わりなんだから」
ミンジンの満足げな声がツェツェグの耳を叩く。胸を満たしていた波紋が、突き刺さるような言葉で無残に破られる。
「みっともないあんたには、みっともない髪が似合うの」
ミンジンの声には満足げな笑みがにじんでいた。
「……」
ツェツェグはその言葉をのみ込むように黙って座っていたが、ミンジンはその沈黙すらも楽しむかのようにゆっくりとハサミを持ち上げ、その刃先がツェツェグの耳元をかすめるように動く。
「ほら、大人しくしてなさい。そうじゃないと、昔のみたいにひどいことになるわよ」
そう言うと、ミンジンは左右に分けていたツェツェグの三つ編みの右側だけを、ためらうことなく切り落とした。
じょきり。
小気味の悪い音が響き、髪の房が床に落ちる。
ツェツェグは目を伏せたまま何も言わなかった。
暴れでもしたら、昔のように怪我をする──ツェツェグの首の後ろには傷が残っている。
この家にきたばかりのミンジンがやったものだ。
ミンジンは切り取った髪の房を手に持ち、勝ち誇ったように笑いながらツェツェグを見下ろした。
「はあ。つっまんない反応──もう、いいわ」
そう言い残すと、ミンジンはハサミを手にその場を去っていった。
しばらくの間、ツェツェグはじっと動かなかった。いや、動けなかった。
肩に残った短い髪の冷たい感触が、ミンジンの言葉と同じくらい痛かった。
だが、いつまでもそのままでいるわけにはいかない。
ツェツェグはゆっくりと動き出し、まだ残っている左の三つ編みに手を伸ばした。
そして、自分の右側と揃えるように、ためらいなくハサミを入れた。
じょきり。
髪は肩から滑り落ち、左右均等に短くなった。床に散らばる髪を見下ろしながら、ツェツェグは長く細く息を吐く。
少しだけ軽くなった頭を撫でながら、ツェツェグは濡れた頬を手の甲で拭った。
そして、のろのろと立ち上がり粗末な寝床に向かった。
朝起きた時、短い髪のツェツェグを見ても、父も義母も何も言わなかった。
淡い幸せは、露散していた。
☆☆☆
冬を越え、季節が巡り、ツェツェグがシドゥルグの村へやってきたのは夏の終わりだった。
彼の村では、婚約してから結婚式を挙げるまでの期間を、男性側の村で過ごすのが慣習となっているそうだ。
婚約期間は通常、数か月から一年半ほど。
結婚式はほとんどが春に行われる為、婚約期間は自然と春以外の季節にあたることが多い。
ツェツェグもまた、秋冬をシドゥルグの村で過ごし、春を迎えたら結婚式を挙げることになった。
それが当然のこととされており、正式な結婚を迎えるまでの準備期間として尊重されているのだ。
現在はまだ婚約期間中の為、彼とツェツェグは別々の家で暮らしているが、来春には式を挙げ、二人で住むことが決定している。
☆
ツェツェグは荷車に積んだ小さな木箱を抱え、慎重にその重さを支えていた。隣ではシドゥルグが何の苦もなく大きな荷物を運んでいる。
二人は、家畜の餌を小屋に運び入れる為に朝から作業をしていた。
作業をしながら、ツェツェグは自分が今日から新しい生活を始めるのだと実感していた。
この場所は生まれ育った草原とはどこか違い、より開けた土地で空が広く感じられた。
それでも、どこまでも続く地平線や、日暮れ時に草原を包む黄金の光には懐かしさがある。
シドゥルグの家は風通しの良い大きな家畜小屋と、周囲に広がる小さな畑を持つ農家だった。
家の中にはシンプルな木の家具が並び、どこか温かみを感じられる。
ツェツェグが初めてこの家に足を踏み入れた際、シドゥルグの母親は笑顔で迎えてくれた。
「よく来たねえ。急がずにゆっくり慣れていけばいいからね。式を挙げるまでの間、過ごす仮の家だけど、よろしくね」
その言葉に、ツェツェグの心が軽くなり、思わず感激した。
アトラン家の人々は皆ほがらかで、誰も彼も厳しい言葉を投げかけることはなかった。
それは実家での生活とはあまりにも違っていて、戸惑いを感じるほど。
ツェツェグは、それが嬉しくてたまらなかった。
その翌日の朝、ツェツェグはいつもと同じ時間に目を覚ました。
家の周りの掃除を済ませ、ようやく台所に立ち、朝食の準備を始めた時、シドゥルグの母親がひょっこりと顔を出した。
「あら! もう起きていたの? 手伝うわ!」
ツェツェグは慌てて手を止めた。
「え、あ、いえ、大丈夫です。私、一人でできますから」
しかし母親は笑顔を崩さず、鍋に水を注ぎながら言った。
「ここではみんなで協力するのが当たり前なのよ。あなたも無理をしないで、分からないことがあれば聞いてちょうだいねえ。あと、明日からは明るくなってから働きましょう」
「……? え、あ、は、はい」
その言葉がどこか不思議だった。
ツェツェグにとって、家事は自分が一人で背負うべきものだという意識が染みついていたからだ。それが当たり前だった。
なのに、ここアトラン家では当番を決め、男も女も子供も老人も皆平等に家のことをしているらしい。これは、アトラン家の『常識』だそうだ。
午後、まだ役割を与えられていなかったツェツェグは、手持ち無沙汰を埋めるように畑で雑草を抜いていた。
小さな籠を手に持ち、根っこから抜いていく作業は単純そうに見えてなかなかコツがいる。
そうしてしばらく黙々と雑草を抜いていると、通りかかったシドゥルグの父親が声を上げた。
「こらこら、働きすぎだ」
その声にツェツェグは手を止めた。
怒りや叱責ではなく、気遣う響きがあった。
そう感じながらも、自分が何か間違えたのではと不安がよぎった。
「ご、ごめんなさい、何か……変なことをしてしまいましたか?」
おどおどとそう尋ねると、義父は驚いた顔をしてから笑った。
「いやいやぁ、むしろ感心したんだよ。ただ、来て早々働かなくてもいいだろうって思ってなあ。それに、腰を痛めてしまったら大変だ。やるにしても、休憩は必ず挟むんだよ」
ツェツェグは小さく頭を下げ、無理をしないと約束して再び作業に戻った。
その優しさが心に残り、胸の奥に小さな温もりが芽生えた気がした。
そうして迎えた夕方。夕食を終え皿を拭いていると、ふいにシドゥルグが現れ、手招きしてきた。
台所の女衆に「行ってきな」と言われ、手を拭いながら外に出ると小さな花束が差し出された。
「……家の近くに咲いていたんだ。ツェツェグに、と思って」
花束は、草原の青空を映したかのような鮮やかな青い花だった。
ツェツェグは驚きながらも、それを受け取った。
「ありがとうございます。で、でも、私には……こんな可愛い花、似合いません……」
言葉を選びながらそう言うと、シドゥルグは首を振った。
「似合うよ」
その言葉にツェツェグは少しだけ顔を伏せた。
彼の言葉には飾り気がなく、ただ彼の本心をそのまま伝えているように思えた。
シドゥルグは言葉少なだが、行動で気持ちを示す人だった。
例えば、荷車を引く時には、重い荷物をツェツェグの代わりに軽々と持ち上げてくれること。
自分が手を伸ばすよりも早く、手伝う姿がいつもそこにあること。
埃が舞えば、彼は無言で手を払ってくれること。
街でしか売っていない甘餅を二人で分ける際、彼は必ず大きい方をツェツェグに渡してくれること。
そのたびに「いいんですか?」と尋ねるツェツェグに、シドゥルグは軽くうなずくこと。
彼は、どんな時でもツェツェグを対等に扱ってくれた。
義母やミンジンの家で『誰かの代わり』として扱われていた自分が、ここでは『一人の人間』として尊重されていることに、ツェツェグは少しずつ気付いていった。
ツェツェグがこの家に来た当初、心には重い石がのしかかっていた。だが、数週間を過ごすうちにその重さは和らいでいった。
シドゥルグや彼の家族との日々を通じて、ツェツェグは『自分が誰かの代わり』ではなく、『自分自身』としてここにいてもいいのだと思い始めていたのだ。
ツェツェグはシドゥルグからもらった青い花で作った押し花を手に取る。
その花を見つめると、心に小さな安心が広がった。
☆☆☆
冬の終わりが近付き、冷たい風に少しだけ春の匂いが混じるようになっていた。
空は青く澄み渡り、太陽の光が草原を淡い金色に染めているそんな気持ちの良い日に、結婚式の日取りが正式に決まった。
ツェツェグがシドゥルグと共に新しい未来を歩み出す準備が着々と進む中、その知らせを聞いた義母とミンジンが訪ねてきた。
ツェツェグは、彼女たちがやってきたと聞いた時から、嫌な予感を覚えていた。
彼女たちが自分を訪れるのは珍しいことだったし、それが好意によるものだとは到底思えなかったからだ。
来春から二人で住む家を見たいと言って、無理やり入ってきた義母とミンジンは、どちらも晴れやかな顔をしていた。
特にミンジンは、ここが自分の家のように堂々とした態度で周囲を見渡している。
「あらあらまあまあ、立派な家だこと! アトラン家は三男にも家をやるんだね」
義母が手を腰に当てながら広間を見回す。
「ふふ。これならミンジンに相応しいわね」
その一言に、ツェツェグは固まってしまった。
「正直言って、あんたじゃなくて私が嫁ぐべきだったんじゃない? だって、私の方が似合っていると思わない? ほら、私のほうが美人だし、歌も踊りも上手だし」
ミンジンが歌うように伸びやかに言う。
胸の奥で何かがじくじくと疼くような感覚を覚えた。嫌だと叫びたいのに、怖くて何も言い返せない。
「そうね、ミンジンの言う通りだわ。ミンジンのような美しい娘がここに嫁げば、アトラン家の名誉にもなるでしょう。シドゥルグさんの花嫁は当初の予定通りミンジンにしましょうね。……というわけで、ツェツェグ。あんたは家に戻りなさい。今まで通り家のことをするのよ」
義母の視線はツェツェグをまっすぐに刺してくる。
「……わ、私は……」
首を左右に振るもキッと睨まれ、やはり何も言えない。
「返事は? ミンジンと交代よ!」
その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気が一気に冷たくなった。
ツェツェグは何か言い返そうとしたが、声が喉に引っかかり、出てこない。
「返事をしなさい!」
「はい、と言いなさいよ、この愚図!」
義母とミンジンの言葉が最高潮に達し、ミンジンの手が大きく振りかぶったその時、不意に広間の入り口からシドゥルグの低い声が響いた。
「──何をしている?」
三人が驚いて振り向くと、そこには冷静な表情のシドゥルグが立っていた。
彼は室内へ足を踏み入れ、義母とミンジンをまっすぐに見据えた。
「ツェツェグに何をしようとしている?」
その声は静かだったが、明らかに鋭い怒りが滲んでいた。
ミンジンはゆっくりと腕を下げ、義母は一瞬目を泳がせつつもすぐに取り繕うように笑みを浮かべた。
「あ、あらぁ、シドゥルグさん。あのね、これはね、あなたの為を思ってのことなのよ。予定通り、花嫁はミンジンに──」
「馬鹿なことを言うな」
彼の声は低く、しかし揺るぎなかった。その言葉の強さに、義母もミンジンも言葉を失った。
「『予定通り』、ツェツェグが俺の花嫁だ」
その言葉が、部屋を凍りつかせる。
ミンジンが息をのみ、義母は顔をしかめて何か言おうとしたが、シドゥルグの目に射抜かれたように黙り込んだ。
「今すぐ帰れ。俺の花嫁を傷つける言葉を使う者が、この家に入ることは許さない」
シドゥルグの言葉は変わらず落ち着いていたが、そこには強い意志が宿っていた。
ツェツェグはその言葉を聞きながら、胸の中に温かいものが広がっていくのを感じた。
彼の言葉は、ずっと欲しかったものだった──自分の存在が『誰かの代わり』ではなく、『自分自身』として認められるということ。
その気持ちが心を包み込んだ。
義母は顔をこわばらせ、ミンジンも怒りと困惑が入り混じった表情でその場に立ち尽くしていた。
だけど、二人ともそれ以上何も言うことができなかった。
義母は最後に一つ小さなため息をつくと、冷たい目でツェツェグを一瞥し、ミンジンに促すようにして立ち去った。
「せ、せいぜい後悔しないことね!」
義母はそう捨て台詞を残し、肩を振りながら去っていった。
ミンジンは何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに続いた。
ツェツェグは二人の背中を見送りながら目を閉じる。
「大丈夫か?」
ツェツェグは振り返り、シドゥルグに小さく微笑みながらうなずいた。
「……はい、ありがとう、ございます……」
今、この場所で初めて、自分の居場所を得た気がした。
☆☆☆
春の草原は柔らかな風に包まれていた。
日差しは少しずつ暖かさを増し、草の間からは小さな芽が顔を覗かせている。ツェツェグは、シドゥルグの隣に立ちながら丘を登っていた。
二人の行く先には『試練の道』と呼ばれる坂道が続き、上り切ったその先の山頂で結婚の誓いを立てる予定だ。
そしてその翌々日に結婚式を行うのがこの村の古くからの習わしだ。
目の前の道は険しく、時折吹く冷たい風が顔を刺すようだったが、ツェツェグの足取りはどこか軽やかだった。
この地で歩む道は、自分自身で選んだものだ、と。
シドゥルグが隣にいることも、自然なことに思えた。
「疲れてないか?」
「少し、疲れました」
「じゃあ、この坂だけ上ったら休憩にしよう」
「はい」
ツェツェグは笑顔で答えた。
この言葉に、偽りはない。
以前の自分ならば遠慮して「迷惑をかけたくない」と思い、「いいえ」と答えただろう。
だが今は違う。
ツェツェグはシドゥルグに対して心を開き、少しずつ「自分を支えてもらってもいい」と思えるようになっていた。
山頂にたどり着いた時、二人の目の前には草原の全景が広がっていた。
遠くの山々には雪が残り、眼下の川は太陽の光を受けてきらめいている。
空には雲一つなく、春の風が二人を包み込む。
シドゥルグがゆっくりと振り返り、ツェツェグの目を見つめた。
「ツェツェグ」
彼の声は低く、しかしどこか温かかった。
「実は……俺は三年前に君に会っているんだ」
「え?」
「嵐で壊れた街の復興に出て、泥だらけで喉も渇ききって……近くの家を二軒回ったが、汚いからと門を閉められた。そんな時、通りかかった娘が水筒を差し出してくれたんだ。何のためらいもなく」
ツェツェグは息をのむ。
胸の奥に埋もれていた記憶がふいに甦る。
「それが君だった。……ツェツェグ。あの瞬間から、俺は君を好きになったんだ。求婚は、君にした。あの義妹にじゃない」
胸の奥が熱くなり、息が苦しくなる。
ずっと代わりだと思っていた自分が、最初から彼に選ばれていた。
その事実に救われ、言葉が見つからず、ただ彼の顔を見返すことしかできなかった。
彼は一歩近付き、はっきりと言葉を紡ぐ。
「これからもよろしく……いや、もっとちゃんと言うべきだな。ツェツェグ──命ある限り、苦楽を共に歩んでほしい」
「は、い。……私は、命ある限り、苦楽をあなたと共に歩みます」
ツェツェグは震える声で応えた。
「ありがとう」
「私こそ、ありがとうございます……」
二人は、互いの目を見つめ合い、手を重ねた。
☆☆☆
結婚後の生活は、決して華やかではなかった。
日々の家事、家畜の世話、そして村での共同作業。
けれど、ツェツェグの心は満たされていた。
シドゥルグの家族は、ツェツェグを暖かく受け入れてくれた。
持ち込んだ刺繍道具も興味深そうに眺めながら、家族の女性たちが「刺繍をしているところを見せてほしい」と頼んでくることもあった。
ツェツェグは小さな刺繍を試しに作り、それを食卓の布として敷いた。
義母の家では、どれだけ手の込んだ刺繍をしても「こんなもの」と一蹴されていたが、ここでは反応が違った。
「こんなに見事な刺繍を作れるなんてねえ」
「こんなちんまい手で大したものだ」
新しい家族たちの言葉に、ツェツェグは驚きつつも喜びを感じた。
自分の刺繍が、初めて純粋に『自分のもの』として認められたのだ。
その評判は村中に広まり、近くの集会でツェツェグの刺繍を見たいと申し出る人々が現れるようになった。
とある集会の日、ツェツェグはシドゥルグの勧めで、これまで作りためた刺繍を小さなテーブルの上に並べた。
最初は目を細めて布を見ていた村の女性たちも、一枚、また一枚と手に取るうちに、その精緻な美しさに息をのんだ。
「こんな刺繍、街でも見たことがない!」
「この布、祭りの衣装に使えたらどんなに素敵かしら」
次第にツェツェグの刺繍は『村の宝』として知られるようになり、街の市場でも高値で取引されるほどの評判を得るようになった。
さらに、ツェツェグは村の女性たちに刺繍を教える役目を任されるようになった。
長男の嫁や次男の嫁もツェツェグに感謝の言葉をかけ、ツェツェグを尊敬の眼差しで見つめる。
その後──ツェツェグの刺繍は『仕事の合間に楽しむ』ものから、村全体を繋ぐ大切な文化へと発展しくことになるのだが……これはまだ未来の話である。
一方、ツェツェグが離れた故郷の村では、祭りの衣装の刺繍が間に合わないという騒ぎが起きていた。
毎年、義母とミンジンが『自分たちの手柄』として請け負っていた刺繍が、ツェツェグなしでは到底仕上げられなかったのだ。
ツェツェグが嫁ぐ前、義母たちはツェツェグが作った刺繍を「自分たちが仕立てた」と言い張り、村人たちの賞賛を浴びていた。
だが、いざツェツェグがいなくなると、その手際の差が誰の目にも明らかだった。
「なんだい、この出来損ないの刺繍は……」
「去年までの美しい刺繍はどこへ行ったんだ?」
「これじゃあ祭りじゃなくて恥さらしだよ!」
祭りの日、未完成の衣装を前にした村の人々が口々に不満を漏らす。
「おい、お前たち、どういうことだ? 祭りの衣装をこんなふうに粗末にするとは、どういうつもりなんだ!」
村の長老が厳しい目つきで義母を問い詰めると、彼女は狼狽しながらも声を張り上げた。
「そ、それでも頑張って作ったんですのよ! この衣装にどれだけ苦労したか、村の皆さんも分かってくださいますわよね?」
しかし、誰一人としてその言葉を信用する者はいなかった。
その時、村人の中から一人の老婆がすっくと立ち上がり、ため息をつきながら口を開いた。
「『どれだけ苦労したか』だって? そうじゃないね! 本当はツェツェグが作っていた刺繍を、自分たちの手柄にしていただけだろう!」
村人たちは一斉にざわつき始めた。
老婆の言葉を皮切りに、他の村人も口々に事実を思い出し始める。
「ああ、確かに。ツェツェグがいなくなった途端にこのザマだもんな」
「確かに。去年までの衣装とは全然違う」
「今まで、ツェツェグが作っていたんだな?」
義母は真っ青になり、言葉を探そうとしたが、思いつくことは何もなかった。
ミンジンは顔を真っ赤にして怒りを露わにする。
「何ですって!? 私たちだって頑張ったのに、そんな言い方ひどいわ!」
しかし、村人たちは厳しい目でミンジンを見据えた。
「頑張っただと? そんな言い訳で通じるとでも思っているのか?」
「ツェツェグの刺繍を取り上げたくせに……」
「恥を知れ」
義母とミンジンを責める言葉の締めは、老婆の厳しい一喝だった。
「これまでツェツェグにすべてを押し付け、自分たちの手柄だと言い張ったのがバレた以上、お前たちにこの村の刺繍を任せるわけにはいかない!」
「ち、違う! 私たちだって本当は──」
ドンッ。
二人の後ろ姿に怒声が降り注ぐ中、村の長老が杖を鳴らし、人々を静めた。
義母とミンジンを鋭い目で睨みつける一方で、集まった村人たちに向き直る。
「嘆かわしい」
長老の声は低く、重く響いた。
「こやつらは愚かだ。だが──」
その言葉に、村人たちの視線が一斉に吸い寄せられる。
「私たちもまた、責めを免れぬはずだ」
その一言に、村人たちがざわついた。
「どういうことですか、長老……?」
村人の一人が恐る恐る問いかけるが、長老はそのまま話を続けた。
「……お前たちは本当に気付かなかったのか? いや、気付いていたはずだ。だが、何もしなかった」
その言葉に、一部の男たちは気まずそうに目を伏せる。村人全体の空気が重く沈む中、長老はさらに続けた。
「ツェツェグがどれだけ働いていたか知っていながら、彼女がどれだけ家族に搾取されていたかを見ていながら、誰一人として声を上げようとはしなかった。なぜだ?」
長老の言葉に、若い男が小さく声を上げた。
「……だって、ミンジンは……可愛いし……」
口ごもる若者の声に、女たちの間からは嘆息や小さなざわめきが広がった。
顔を赤くして俯き、別の男は目を逸らし、気まずさを隠そうとしていた。
「見目が麗しければ、人を虐げてもいいのか?」
長老は深い溜息をつきながら、その村人を睨みつけた。
「搾取される者が泣き寝入りするのが当然か? それこそ、この村の恥ではないのか」
長老の厳しい言葉に、村人たちは次々と顔を伏せた。義母たちを非難していた村人たちも、今度は自分たちが責められているように感じ、言葉を失った。
義母は怯えた声を絞り出した。
「でも、私たちは村の為に……祭りの衣装だって、これまで……」
すぐさま、村の女性の一人が呆れ顔で言い放つ。
「ツェツェグが作った衣装を横取りしていただけじゃないの。自分の手柄だなんて、恥知らずにもほどがあるわ」
村人たちの怒声が再び義母とミンジンに殺到しかけたところで、長老が杖を掲げ、場を制した。
「だが、こやつらだけが悪いのではない。この村全体が、ツェツェグに対して何一つしてこなかったことを、私は恥じている。……私たちも背負うべきだ」
その言葉に村人たちは全員沈黙した。
ツェツェグの父もまた、ただ俯いていた。
娘を庇うこともせず、見て見ぬふりを続けてきた自分の弱さを、誰よりも思い知らされていた。
だが悔恨を口にすることすらできず、唇を噛んで黙るしかなかった。
村人全体が『加害者』であったという事実が、重くその場にのしかかった。
──そんなことは露知らず、ツェツェグは焚き火の前でシドゥルグの隣に座っていた。
ツェツェグの刺繍は、村でも町でも認められ、今や村の女性たちの間で学びたいと願う者が増えていた。
「こんな風に、私の刺繍が誰かの役に立つなんて思っていませんでした」
ツェツェグがそう言うと、シドゥルグは微笑みながら答えた。
「君の手は、誰かを幸せにする手だ」
ツェツェグはその言葉を聞いて泣きそうになった。
もちろん、悲しいからではない。
(私は、代わりじゃないんだ。私は、『私』なんだ……)
夜空には無数の星が輝いていた。
風はどこまでも心地よく吹き続け、ツェツェグの新しい未来を後押ししてくれているように感じられた。
【完】