雨声
大学を中退した俺は、収入もままならず、やっとの思いで見つけた激安物件に住むことになった。
場所は都内某所、古びた長屋の一角。築年数は不明で、玄関の引き戸には今どき見かけない鉄錠がついている。畳の縁は破れ、柱の一部が黒く変色しているが、家賃は月1万3千円。文句を言う資格などなかった。
「雨さえ、我慢できればねぇ……」
そう言って、不動産屋の老婆は妙な笑みを浮かべた。
入居したのは梅雨の初めだった。天井には雨漏りの痕があったが、当日は晴れていた。
しかしその夜から――雨音が聞こえるようになった。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
初めは気のせいかと思った。だが、外は晴れている。天気予報も晴れ続き。
それでも夜になると、決まって雨音が聞こえた。
ぽつ、ぽつ……ぴちゃ。
しかも音は、天井からではなく、廊下の奥から、誰かが床を濡らしながら歩いてくるような響きだった。
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三日目の夜、俺は懐中電灯を持ち、廊下を進んだ。音は、長屋の奥の部屋から聞こえる。
そこは空き部屋のはずだった。入居時に「この部屋は貸していない」と言われたきりで、鍵も渡されていない。
しかし――その引き戸の隙間から、確かに水滴が垂れていた。
ぴちゃ。
濡れている。外は晴れているというのに。
ぞっとした俺は、その夜、枕をかぶって無理やり眠りに落ちた。
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次の日の昼、不動産屋に問いただしに行った。老婆は最初、「気のせいじゃない?」と笑っていたが、俺が「警察に連絡する」と言うと顔をしかめた。
「……あの部屋ね、昔“雨声女”って呼ばれた人が住んでたんだよ」
雨声女?
「夜になると、決まって水音を立てて歩きまわってね。傘もささずに外に出て行って、戻ってきたら服はびっしょり。でもその日、彼女は……」
老婆は言い淀んだ。
「……溺れて死んだの。池も川もないのにね。不思議なことに、部屋の中で、水を吐いて倒れてた。まるで、井戸の底で見つかったみたいに」
「で、その部屋を貸さないようにしてると?」
「そういうこと」
納得するようなしないような話だったが、俺には退去する金もない。
「じゃあ、どうすればいいんです?」
「うるさくなったら、雨を迎えてあげなさいな」
「……は?」
「傘を持って、ドアの前で待ってるの」
老婆は、まるで昔話でも語るようにそう言った。
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それからも、雨音は夜ごとに激しくなった。ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。
時に畳の上に水溜りができ、目を離すとすぐに消える。
朝になると、足元が濡れていた。
怖くなった俺は、ある夜、ついに老婆の言葉を試すことにした。
安物のビニール傘を買い、廊下の奥の扉の前で開いたまま差し出す。
「……雨を迎えにきました」
言ってみて、自分が馬鹿らしくなった。だがそのとき――。
扉の隙間から、手が伸びてきた。
白くて細く、爪の先まで濡れている女の手だった。
その手は、ゆっくりと傘の柄を握ると、引き戸をそっと開けた。
中には誰もいなかった。ただ、ぽたりぽたりと、部屋の中心にだけ雨が降っていた。
そこで俺は見た。
畳の中央に、小さな水溜まり。そこに、女の顔が浮かんでいた。
目を見開き、口を開け、水を吐き出している――死んだままの表情で。
「……迎えにきたのは、どっち?」
その声は、水の底から響いたようだった。
俺は傘をその場に置いて、逃げ出した。
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翌朝、戻ってみると、傘は跡形もなく消えていた。
それ以来、雨音は聞こえなくなった。
だが、時々――朝起きると、玄関先に濡れた足跡がついていることがある。
ぽつ、ぽつ、と、俺の部屋の前で止まっている。
そして、ふと思うのだ。
――迎えに来たのは、あれが最後なのだろうか。
それとも、今度は俺が、迎えに行く番なのだろうか――。