新作落語「走れ、善次郎!」
池田善次郎こと江戸時代は文政期に活躍した浮世絵師の渓斎英泉の描く美人画は、まことにほっそりとした身体つき、退廃的で妖艶さが評判で、読売の挿絵から大判1枚の錦絵までと人気の浮世絵師で御座いました。なぜか葛飾北斎に気に入られ、暫く勝手に居候をしていた時期も御座いました。
また、夫婦同様に一緒に住んでおりました山谷堀り芸者のお日向は古風な中に凛とした女性らしさがあり、誰もが思わず振り返るほどの容姿で、お座敷でも人気がありました。酔狂で善次郎がお日向の座敷の席で襖にその姿を描いたのが出会いのきっかけで御座いました。
ドンドンと戸を叩く音。
善次郎 「ごめんよぅ。ごめんよぅ、お日向いるかい?」
日向 「誰だい…?おや、珍しいや。八犬伝でも名前の売れてる浮世絵師の善治郎先生じゃないか?」
善次郎 「嫌味な言い方するんじゃねぇよ。ここんとこ、ちょっと忙しかったんで顔を出せなかったんだ
よぅ。これでも寝る暇がなかったてぐらい忙しかったんだぜ。」
日向 「そんなに忙しい人気者がわざわざ訪ねてくるなんたぁ、有難いこったねぇ、拝んじまおう。ナ
ムナム…。」
善次郎 「だから、すまねえっていってるじゃねえか。それよりちっとばかり銭貸してくんねえか。北斎
爺とお栄の処に行って見せてえものがあるんだがよ、手ぶらで行くのもみっともねえし、北斎
爺に甘えもんでも買って言ってやろぅと思ってな。」
寝る暇がなかったとはいえ、粋が身上の善次郎。少しばかり疲れた感じはあるものの、羽織の襟のきっちりと髷もゆがんじゃぁいません。
日向 「銭のことなんてどうでもいいさ、どうせあんたが稼いだ金なんだからね。でもさ、久しぶりに
顔を見せたと思ったら他の女の処に行くなんざぁ、穏やかじゃないねぇ。」
善次郎 「よせやい。北斎爺のとこのお栄とはそんな仲じゃぁねえのはおめぇも良く知ってるじゃねか。
第一お栄はこぉんな顔してるんだぜ。」
と言うと善次郎、顎をこれでもかってくらい突き出し、おどけた様に目をグルグルと回せて見せた。
葛飾北斎の娘のお栄も『葛飾応栄』として浮世絵師の名前もあり、普段は北斎の弟子として浮世絵の制作に携わっておりました。女だてらに男物の着物を着て昼間っから片膝立てて酒をあおっております獏連女でございまして、善次郎とは居候している頃からの顔なじみで御座いました。
日向 「そりゃ解かってるさ。でもまさかこのまま行っちまうんじゃ無いだろうね。」
善次郎そのまんま行く気で御座いました。ただそれじゃあ、あんまり野暮じゃないかと思い直し、はやる気持ちを抑える様に懐に入れた包みをそっと触った。
この包みの中は『ベロ藍』と呼ばれる、その頃の江戸ではあまり手に入れる事ができない絵具でございました。
後に北斎がこの『ベロ藍』だけで刷った『富嶽三十六景』が江戸中で評判となりその後も歌川広重が『東海道五十三次』で使うなど多くの浮世絵師がこぞって使うようになった絵具でございます。
善次郎 「確かに済まなかったな。上がるぜ。」
仕事場以外はほとんど一緒に住んでいる様なものなので、長火鉢にドッと腰を落とすと、待ったましたとばかりお日向は酒の準備を始めます。
口ではお互いピャーピャーと言っておりますが、そこはお互い好き合ったもの同士、注しつ注されつと酒が入ってきますってぇと。
日向 「…善さん。」
善次郎 「…お日向…。」
なんて色っぽい事になってまいります。
酒も回った上に、この処の仕事の疲れもあり、善次郎ウトウトとすっかり寝込んでしまいます。
そのまま夜も更けまして…。からすカアで夜が明けます。
ドンドン、ドンドンと激しく戸をたたく音が…。
仙吉 「ごめん下さいましぃ!ごめん下さいましぃ!こちらのお宅は日向子師匠のお宅でしょうか?
ごめん下さいましぃ!」
日向 「誰だい?こんな朝っぱらから!…日向はあたしだが、そんなに慌てて何か用かい?」
お日向が土間に降り、ガラリと戸を開けますと、そこには髷が乱れ、着物の裾は泥まみれ、がっくりと肩を落とし息をきらせている町人風の若者がやっとのことで立っております。
仙吉 「コ、コ、コチューラごにゃいさんが、ゼーせんミネーノセン、センセ、センでどますキャ?」
善次郎 「何言ってるか解からねぇじゃねえか?もう一遍言ってみねぇ。」
仙吉 「コ、コ、コチューラごにゃいさんが、ゼーせんミネーノセン、センセ、センでどますキャ?」
善次郎 「おもしれえや。もう一遍。」
日向 「何やってんだい!ほら落ち着いて一杯お飲み。」
お日向が差し出した茶碗の水を一気に飲み干すと…。
仙吉 「こ、こちらに浮世絵師の渓斎英泉先生、先生はいらっしゃいますか?」
善次郎 「浮世絵師の英泉なんて居ねえぜ。『居残り善次郎』なんてのは居るけどよ。ちょいとイノど
ん…。なんてなぁ。」
日向 「なにバカな事言っているんだい。それよりどちら様だい。」
仙吉 「ご挨拶が遅れやした、わたくし葛飾北斎先生の処で見習いをしております仙吉と申します。渓
斎先生の処をお尋ねしましたところ、あちらにはいらっしゃらなかったので、その時は根津の
お日向姉さんの処を訪ねろと、お栄さんに言われましたもので。」
と今度は一気にまくし立てます。
善次郎 「えらく慌てた様子だが、またおやじ殿とお栄が大喧嘩でもおっぱじめたか?」
仙吉 「いえ❕北斎先生が倒れてしまったんです。」
善次郎 「…バカヤロウ!それを早く言わねえか!」
善次郎バッと飛び起き浴衣を羽織ると裸足のまま外へ飛び出そうとします。
日向 「バカだねぇ。カラッケツで飛び出してどうしようってんだい。」
お日向は戸棚から財布をつかむとそのまま善次郎にポオーンと投げてよこします。
善次郎 「お日向、すまねえ。」
財布を受け取り、着物の裾を端折るってぇと草履を手に持ったままバーっと走り出します。
根津から不忍池方向へ、浅草寺雷門の前を走り抜けそのまま吾妻橋を渡り右におれると隅田川を南に下りそこからしばらく走ると浅草の御米蔵が前方に見えてきます。そこを左に曲がるとやっと本所緑町の北斎の家が。
善次郎 「ハアハア…。お栄❕どうしたぁ!」
お栄 「善さん大変だぁ。おやじ殿が…。おやじ殿が…。」
反故紙で埋め尽くされた部屋の真ん中で年老いた北斎は仰向けに倒れております。
善次郎 「医者はどうしたぁ!まだ来ねえのか?」
お栄 「三太郎に呼びに行かせたんだけど、まだ戻って来ないんだよぅ。」
と言った瞬間、さすがのお栄も気が付いたようだ。大きな顎がガクンと落ちた。
お栄 「三太郎は江戸に出てきたばかりだ…。だって、だって他に誰も居なかったんだよぅ。」
善次郎は最後まで聞く前にすでにバーッと走り出していた。
善次郎 「死ぬんじゃねえぞ!おやじ殿!」
目指すは両国橋を渡った先の奥御医師医学館。この辺りは蘭方医学を学んでおります医者が多く住んでおりました。老医師の源斎は蘭方医学を研究、教授しており善次郎とはフトしたきっかけで知り合いで御座いました。
善次郎 「源斎先生すまねえが、一緒に来てくれ!おやじ殿がぶっ倒れちまった。」
と言うと善次郎、源斎に背を向け腰を落とします。
源斎、歳を取っている割に反応が早かった。何種類か薬を見繕い藤の薬籠を門弟に背負わせると自分は善次郎の背中にヒョイっと飛び乗ると「走れ!善次郎!」と気合を入れた。
善次郎再び走り出します。
ここから本所緑町までは目と鼻の先…と思っていたが、朝からずっと走りっぱなし、今度は年老いた医者を負ぶったまま走るのはさすがに疲れたのか、両国橋を渡り切った処でガクッと膝を落としそうになった。
源斎 「善次郎降ろせ!ワシが走った方が早かろう。」
善次郎 「冗談じゃねぇ。息の上がった老医者にちゃんとした治療ができるかってんだ。絶対降ろしゃぁ
しねえ。」
胸がはだけて髷が乱れようが、汗が目に入ろうが構わずに丹田に力を込め源斎を負ぶい直すと。
善次郎 「待ってろよおやじ殿!お栄!」
そのまま北斎の家まで走り抜くのでございました。
源斎 「十分に養生すればなんとか回復するだろうが、手の麻痺は残り筆を持つのは難しかもしれ
ん。」
源斎の診立ては『中風』今でいうところの脳卒中で御座いました。
その後北斎は長く床に就くことになりますが、お栄の献身的な看病とユズの皮を焚き上げた自前の薬のおかげで奇跡的に回復し、再び筆を握ると不死鳥の様に復活を果たし晩年の『富士越龍図』までと、次々と大作を世に送り出すので御座います。
『走れ、善次郎!』の一席で御座いました。