5.迫る何か③
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「どうしたんだ、その顔は!」
昼過ぎ、イステンド大公邸に赴くと、ライナスが驚愕した面差しを向けて来た。応接室のソファに座らされ、心配げに覗き込まれる。氷鉄の大公と呼ばれる彼の内面が、本当は春風のように慈愛深く暖かであることを、フルードはもう知っている。
「天界より戻って後、少し仮眠を取ったのですが、夢見が悪かったのです。顔色が良くないでしょうか?」
「良くないなどというものではない。酷い容貌だ。今にも倒れそうじゃないか。……どんな夢を見たんだ?」
「大した内容ではありません、所詮は夢です。多忙な御身にご心配をおかけするようなことではありません」
「そんなことを言わないでくれ」
中性的な美貌に無理矢理笑みを刷くフルードを、将来の義父が憂いげに見遣る。
「君は不安や悩み、重責を一人で背負いこむ傾向が強い。聖威師となるまでずっと、誰かに頼ることを知らずに生きて来たから、当然だろうが」
フルードが天で修行している間、定期的に聖威師たちに進捗状況を知らせていたフレイムも、同じ懸念を抱いていたそうだ。これでも神々総出での手厚いメンタルケアを受け、随分と改善された方ではあるのだが。
「心というものは脆い。抱え込むばかりではいずれ壊れてしまう。君はとても優しいのだから、なおさらだ」
当代大神官にしてイステンド大公はそっと腕を伸ばし、痩身に似合わぬ力強さで新たな家族を抱きしめた。
「我が子になる者が異常なほど顔色が悪い状態でいれば、心配するのは当然だ。いや、神々は全体で一つの大きな身内なのだから、他の聖威師とて君のことを心から案じるだろう」
「我が、子」
ごく自然に渡された単語に、海面を映したような瞳が瞬く。
「そうだよ。君と娘の結婚が成れば、私は君の義親になる。家族には、身内には、胸の内を曝け出して良いんだ。弱音だって吐いて良い。もちろん強制ではない。だが、何か良くないことがあれば、できるだけ溜め込まずに話してくれると嬉しい。私で良ければ幾らでも受け皿になる」
多くの経験を積み、苦難を乗り越えて来たであろう来た手が、トントンとフルードの背を叩いた。どことなくフレイムたちの仕草に似ているようにも感じる。
「ものすごく悪い夢だったんだろう?」
「…………はい」
「思い出したくもないかもしれないが、差し支えない範囲で聞かせてくれないか」
「――実は……」
ライナスからすれば当然の疑問だろう。配慮しながらの表現で問いかけられたフルードは、数瞬逡巡した後、悪夢の内容を話した。力が使えないばかりか、聖威師になる前の精神に戻ってしまったようだったと。
「これは推測ですが……天の神の神威に場が制圧され、聖威が使えないようになっている状態とは、また違うように思いました。単純に力が発動しないのではなく、精神まで昔の自分に戻ってしまっていたのです」
体をか屈めて目線を合わせ、聞いてくれたライナスが、凛とした碧眼に喫驚を滲ませている。
「馬鹿な――君は天の神直々に心技体を叩き込まれた。例え夢の中であろうと、己を失くすことはない。恐慌状態に心が呑まれるなど有り得ないし、聖威を使おうとすれば発現するはずだ。それなのに、両親に虐げられ力が使えず、絶望の淵に落とされかけたというのか」
「お恥ずかしい話です。夢の中では完全に、聖威師になる前の自分に戻っていました」
こういう時は、夢でかつての地獄を再体験させられるも、修練の成果を発揮して打ち破るという展開がセオリーではないのか。強くなった証だとか成長の印だとか、そういうものを披露するのが王道だと思うのだが。実際は、修行を無にする勢いで心身をへし折られそうになった。
「明らかにおかしい。どう考えても普通の夢ではない」
食い下がって聞いておいて良かった、と、ひとりごち、ライナスは続けた。
「神は法則や真理を超越する。時間を巻き戻そうが過去を変えようが事実を無かったことにしようが、一度神格を得ればそれが失われることはない。夢であっても人間に戻るはずがないし、聖威も使えるはずなんだ」
神威による干渉を受ければ、聖威の発動を封じられることはある。だがその場合でも、力が使えなくなるだけで、精神まで昔の自分に逆行することはないはずだ。夢の中のフルードの状態は明らかに異常だった。
あらゆる可能性を探るように虚空をさ迷った双眸が、ふと焦点を結んだ。
「まさか、フルードより高位の神が関連しているのか? 格上の神であり、かつフルードが神格を抑えた聖威師の状態であれば、君を鹵獲し、限りなく人間に近い状態にしてしまうことも可能かもしれない」
そうすれば、本質は神のまま変わらないが、表面上はただの人間のようになってしまうそうだ。
「だが、同胞を愛する神がそんなことをするはずがない。ならば一体何故……」
分からないと唸ったライナスは、頭を一振りしてこちらを見た。
「いくら考えようと、今ここで答えは出ない。それより優先なのは君の休養だ。本当に顔色が悪い。すぐに休むべきだ」
慌ただしく客室に通され、あれよあれよという間にベッドに押し込まれる。
「婚約式の準備は後で良いから、もう一眠りしなさい」
「…………」
フルードは無言で目を逸らした。眠るのが怖かった。意識を手放す時の、底なし沼に落ちていくような感覚。今その状況になれば、今度こそ本当の意味で奈落の底に引きずり込まれるという予感があった。
「私もこの部屋に待機して、君に変事があればすぐに対応する。いざとなれば、我が主神たる時空神様に助けを請う。それでも怖ければ眠らなくて良いから、横になって安静にしておいで」
「はい」
それなら安心だと頷いた時、ドアが礼儀正しくノックされた。
ありがとうございました。




