7.嵐の前のひと時
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「大丈夫かな、あの子転ばないかな」
ふと心配になって問うと、当真が去った方を眺めていた青年は億劫そうに視線をくれながら、右耳に付けていた飾りを外す。
「私が天威で視ている。危なくなれば助けるゆえ、心配は無用だ」
打って変わった無表情と抑揚のない口調で話す彼は、実はこちらの方が素だ。
(そうだよね、義兄様に……太子様に任せておけば安心だよね)
青年の正体は、高嶺の実兄にして月香の夫、秀峰である。有する気の色は黄白、神格は死神。ゆえに黇死太子と称される。斎縁泰斗はもちろん偽名、外した耳飾りは外見から素性を推測されないための目眩しだ。
「うん、しっかり視ててあげてね~黇死太子様!」
「そうだな、紅日皇女」
茶化すような声で告げた日香に、氷柱のごとき声が振りかかる。ぴきりと凍り付いた体に、容赦なく氷のつぶてが投げられた。
「そなた、己の本来の身分を自覚しているのか――紅の日神よ。先ほどの者は唯全家の子息だ。それも潜在能力からして次の当主となろう。そなたも分かっていたはず。にも関わらずのこのこと近付き、自身の話題を出させるとは何事か」
頭が痛いとばかりに額を抑えた秀峰は、小さな溜め息と共に頬杖を付いた。
「神鎮めから戻ったところで、そなたの気配を感じたのだ。宮から出て何をしているのかと様子を見に来てみればこれだ」
「う……でも、唯全家の跡継ぎには、私が本当は天威師だって知らされるじゃない。その時に実は~って挨拶すればいいと思ってたんだよ。まさか今ここで私の話が出るとは思わなくて」
「考えが甘い。そなたはもっと思慮深くならねば。これからも月香と比較されてしまう」
(な、何よぅ義兄様まで!)
体の向きを変えて四阿の外に視線を投げた秀峰に、むくれた日香は唇をむにょんと突き出した。すっぽんの真似である。
(どうせ私はすっぽんですよーだ! すっぽ~ん、ほーらほらすっぽ~ん!)
唇をむにむに動かしていると、秀峰がいきなりくるりと体勢を戻して日香に向き直った。
「日香、よく考えるのだ。ここで――」
その言葉が途切れる。咄嗟に格好を変えられなかった日香は、すっぽん口のまま硬直していた。
「…………」
「…………」
いたたまれない沈黙が落ちる。生温い汗をだらだらと流していると、目を逸らした秀峰は何事もなかったかのように続けた。
「――ここで唯全の子息に下手なことを言わせれば、後で互いに話しにくくなるだろう」
どうやら今の失態は無かったことにくれるらしい。進退窮まっていた日香は、気遣いに有り難く便乗することにした。
「……け、けどあの子、私のことを悪く言わなかったよ。聞こえてたでしょ? 霊威第一のこの世界では珍しいよね。私なんて徴も無い無能の御子なのに」
空気を軽くするように茶化すと、秀峰の瞳がきらりと鋭い光を放った。
「今の言い方は良くない。本当に力が無い者には、嫌味にも聞こえてしまう。そなたは実は力を持っており、それを自覚しているのだから。霊威が第一だとしても、霊威だけがその者の全てということではない。私の前では良いが、外では気を付けなさい」
「すいません今後は気を付けます!」
そんなつもりではなかったが、言われてみれば確かに配慮に欠けていた。先ほどから注意されてばかりだと、日香は即座にぴしゃんと背筋を伸ばす。
「分かれば良い。そなたの素性について、唯全の子息には時期をみて私から説明を行おう」
「本当? 良かった、ありがとう!」
(義兄様の説明は分かりやすいもんね。講義も上手いし)
皇家と帝家の子女は、両家の先達が教育する。日香の師は秀峰なのだ。12歳までの基礎教養は皇帝が派遣する形代に教わり、それ以降は秀峰からみっちりと指導を受けた。足しげく宮に通ってくれる彼のことは自然に義兄様と呼ぶようになり、他の義兄たちに対してよりも砕けた態度で接するようになった。
「あ、そうだ義兄様。神鎮めから帰って来たばかりなんでしょう。ちょっと休んだら?」
「いや、今回は常より傷を負わなかった。怒れる神の鎮魂は骨が折れるが、致し方ない」
天威師の最優先かつ最重要の役割は、神を慰撫し宥めることである。人間には及びもつかない高位の神々を鎮めることは、至高の神格を有する天威師にしかできない。
「日香も力が安定したのだから、これからは公然と神鎮めに出ることになるだろう」
「うん、一緒になった時は色々と教えてね」
日香が頷いた時。
「日香」
高嶺が転移で現れた。漆黒の髪が風に煽られてふわりと舞う。
「高嶺様!」
ぱっと顔を輝かせて駆け寄った日香の頬を、細く長い指が撫でた。
「会いたかった」
(えへへ、私もですー!)
笑顔を浮かべていると、秀峰が気怠げに視線をくれた。
「民への顔見せは終わったのか。参加できずすまなかったな」
「秀峰兄上、何を仰るのですか。務めが入ったのですから、仕方のないことです」
敬愛する兄と話せて嬉しいのだろう、高嶺が表情を明るくした。
「少し時間が空きましたので、兄上と日香に会いたくて参りました。神官には、何かあれば念話するよう言ってあります」
(うーん高嶺様、相変わらずだなぁ)
弾んだ声で返す高嶺は無類の家族好きだ。彼が思慕するのは身内のみ。至高神は同族しか愛さない。身内である至高神及び自らに連なるごく一部の者以外には、欠片の情も抱かない。
(特に、高嶺様は超早熟だったから……)
高嶺は誕生直後に天威師として目覚めている。彼の双子の兄にして帝国太子のティルも然りだ。覚醒が早かったことから、彼らには人間として過ごしていた時分の記憶がない。ゆえに、人に擬態して生きている今でも、本性たる至高神の性情が強く顕れている。
「仕方のない奴だな。昨日も会ったではないか。日香の力が安定したと聞いて飛んで来ただろう」
呆れたように首を振る秀峰は高嶺とは対極の晩熟型で、15歳で覚醒した。それまでは普通の人間と変わらない状態で過ごしていたため、人の感性を色濃く残している。人間や世界に対する情は、高嶺よりも彼の方がずっと強い。
「はい、日香の力が落ち着いたのは喜ばしいことです」
高嶺の声がさらに上向いたものになる。
「これで天威師であることを公表し、本来の位置に――私の隣に立つことができるのですから」
「そうだな。日香、発表の日取りはまだ確定していないのだったな」
「うん」
秀峰の確認に、日香は頷いた。
「皇帝方はなるべく早くって仰って……」
言いかけた時、高嶺と秀峰が眉を上げて天を仰いだ。直後、氷水を血液に流し込まれたかのような寒気が全身を襲った。足の裏から頭頂まで戦慄が突き上げる。
「神が荒れた」
冷静な秀峰の声と共に、苛烈な神威が迸った。
ありがとうございました。