41.番外編 優しいだけでは②
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『この度は皇女様にお相手いただきましたこと、御礼を申し上げます』
十分に暴れて怒りを解消した熊の神が、すっきりとした顔で言う。その毛はふさふさした質感に変わっており、もう鋭く尖ってはいない。
思慕する天威師をぼろ雑巾にしておきながら罪悪感の欠片もないのは、まさか日香に痛覚があるとは思っていないからだ。天威師は人間の皮をかぶっているため、見た目こそ凄惨な有り様になっていたものの、痛み苦しみは一切感じていないという認識でいる。
「とんでもございません。御身のお気が晴れたのであれば本望にございます」
瞬時に傷が癒え、無傷に戻った日香は淑やかに微笑んだ。衣も復元され、周囲に飛び散っていた鮮血や体の一部もすっかり綺麗に無くなっている。
日香が傷を負った痕跡は、神を鎮めるために差し出した痛みと努力の証は、もうどこにもない。
『それでは、これにて失礼をば』
神が天高くに消えていく。拝礼してそれを見送り、日香は皇帝白珠に任務終了の報告を上げた。
《蒼月皇様、日香です。神鎮めが完了いたしました》
《ご苦労でした。傷はどのようなものでしたか》
《ごく軽く済みました。今回は荒神化もされていませんでしたし》
本当のことである。今回負った傷や苦痛など、神鎮めの中では断然軽い方だ。
熊の神が放っていた神威の針。あの棘が一本刺さることで受ける苦痛は、人間用の最下層の地獄であらゆる責め苦を三千万回受ける痛みに等しい。刺さる針が多くなればなるほど、痛み苦しみはその分倍増する。
――だがそれでも、結局は人間用の地獄を引き合いに出して表現できる程度の苦痛でしかない。神は理性を薄れさせるほど怒っていたものの、荒神化まではいっていなかったのだから尚更だ。
経験を積んだ聖威師がいれば、今回程度の神鎮めは天威師が出ずとも対応できていた。
《高嶺様……藍闇太子様は先日、高位神の神鎮めを行われました。それに比べれば私の傷など取るに足りません》
高位神――色持ちの神の怒りを受けることで得る苦痛は、神罰牢での苦しみに匹敵する。その壮絶さは文字通り次元が違う。それでも、天威師は内心の悲鳴をおくびにも出さず、常に涼やかに笑っている。もちろん高嶺も。
《皇女の心意気を頼もしく思います。改めてご苦労様でした》
白珠は優しく応えを寄越した。気遣いに満ちた口調だが、日香の言葉を否定はしない。今回の任務が、神鎮めの中では格段に易しく、軽い傷で済んだことは事実であるからだ。
《私もこれから有色の神を鎮めに行きます。その間に喫緊の事態が発生した場合、碧日皇と太子たちが担当を決めます。その指示に従いなさい》
《承知いたしました。お気を付けて、蒼月皇様――お義母様》
《……ありがとう、日香》
苦笑と共に念話が切れた。
直後、人影が二つ、転移で現れる。
「日香様!」
「遅くなり申し訳ございません!」
皇国の神官長の佳良と、帝国の神官長オーネリアだ。
オーネリアは佳良の教え子である。皇国と帝国は密接な協力関係にあるため、両国における教育や行事は国を超えて行われている。皇女である日香が帝国の神鎮めに来たのは、そのいい例だ。
「こちらの気配には気付いていたのですが、ちょうど重要式典で天の神と交信中だったため、抜けられず……大変失礼いたしました」
頭を下げた佳良に続き、金髪を団子状に結い上げたオーネリアも、碧眼を伏せて言う。
「私の方も、つい今しがたまで公務で別の神を勧請しており、すぐに駆け付けることができませんでした。他の聖威師も皆、他の仕事や出張中でございまして」
聖威師の数は少ない。限られた人数で重要な仕事をこなしているため、すぐに動けないこともある。もっとも、それは天威師も同様だが。日香は微笑んで答える。
「分かっています。だからこそ私が来ました」
(ぶっちゃけると天威師が出張るにはちょっと早い案件だったんだけどねー)
とはいえ、あのままでは熊の神が遠からず荒神化し、被害が無差別に拡大する可能性が高くなったことで、ぎりぎり出動事案になったのだ。もし荒神化していれば、狼神もフルードの危機に気付いて駆け付けていただろう。
佳良とオーネリアに向かって一つ頷いた日香は、改めて神官たちに向き直った。
「無事ですか?」
フルードが小刻みに頷いた。腰を抜かしてしまったのか、日香が近付いても姿勢を正せないでいる。これでは説明を求めてもきちんと答えられるか怪しい。
(一番落ち着いている人は……)
「何があったか教えてくれるかしら?」
この中で最も年かさの男性神官に水を向ける。棘に刺されていた神官だ。一本だけとはいえあれに刺された以上、文字通り地獄の苦痛を味わったはず。それでも、治癒されてからは平常心を取り戻しているのは熟練者の証だ。
「承知いたしました。恐れながら皇女様に申し上げます――」
彼はすぐに、ここで起こったことを説明してくれた。
ありがとうございました。




