30.金の始祖と黒の始祖
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「高嶺!?」
白珠が目を剥いて振り向くと同時に、天が割れた。道を開けるように左右に分かれた緋色と翠色の輝きの間を縫い、虹色の蛍火を纏う漆黒の光が飛来し、高嶺の体を貫く。
「無茶だ、事前の準備もしていないのに!」
ティルが悲鳴のような声を上げ、膝を付いていた天威師たちが血相を変えて立ち上がる。
「……本当に、藍の子は無理を通したものだ」
一瞬後、庭園の緑の上に倒れ込んだ高嶺が呟き、ゆらりと手を上げた。乱れた黒髪を無造作に払いながら身を起こす。
「天威師といえど、用意もなく祖神を降ろすことは負担が大きすぎるというに」
苦笑と共に、愛しさを込めた眼差しで天威師たちを悠然と見渡すその様相は、高嶺であって高嶺ではない。
「黒闇神様……」
思わずという調子で呟いたラウに、原初の至高神の一柱は唇の両端を持ち上げて応える。
「うむ。変わりなくしていたか、オルディス・ラウ。我が愛しき裔よ」
そして慈しみ深い声で続けた。
「我が愛する裔らに告げる。礼は不要である。そのままで良い」
金日神が花の咲くような笑みを浮かべた。
「まぁ、我が背の君。あなたもお越しになられましたの」
「我が妻よ。いくら限界に来ていたとはいえ、本来の勧請対象である緋の子に先んじて降り、依代を掠め取る行為は感心できぬ」
金日神を優しく抱き寄せた黒闇神が、言い聞かせるように告げる。
「でも、始まりの神器が甦ってしまったのですよ。これでは裔たちの帰還は遠のくばかり。もう我慢できぬと、我らは以前より話していたではありませんの」
日香のそれを借りた始祖の眦が、悲しげに下がる。
「背の君とてご存知でしょう。神鎮めに行くのが怖いと嘆き、もう傷付きたくないと震え、還りたいと泣き、それでも己の魂の訴えを踏み潰して歩み続ける裔たちの姿を」
天威師たちは、好きでもない人間を護ることをやめない。毎日のように神鎮めを行い、時に最下層の神罰牢に放り込まれたに等しい苦痛に己が心身を晒しても。どれだけ嫌だと思っても、周囲に痛いと伝えることすらできずとも。
じっと辛さを隠し、平然とした振りをして進み続ける。ただ天威師であるという義務感のみで。
「人間と地上を護ることも、神鎮めを行うことも任意です。いつでも己の一存で中止し、我らの元に還ることができる。――けれど裔たちは、決して自身から終止符を打つことはしない。黙って耐え続けるばかり」
「そうだな。天威師として地上に在る裔らは、いつの世でも皆そうであった。この三千年の間、ずっと。……良い加減、終わりにしたいところだ。気が逸り、降臨してしまった我が妻の気持ちは分かる」
黒闇神の眼が哀切を帯びる。黒光りする双眸が、白珠たちを順繰りに捉えていった。
(黒闇神様も……金日神様と同じなんだ。本当に、祖神様方が限界なんだ)
やり取りを聞いていた日香が実感した時、ふと黒闇神の語調が和らいだ。
「だがのう、我が妻よ。我の中で、藍の子が泣いて懇願しておる。紅の子が悲しむゆえ、今少しだけ待って欲しいと。どうかそなたを止めて欲しいと」
(高嶺様――)
日香は、涼しげに佇む高嶺の姿を見つめた。今は黒闇神が支配しているその身体の内で、愛しい夫が日香のために力を尽くしてくれている。
「さて、どうしたものか」
黒闇神が思案するように首を傾けた時。
『祖父神様、祖母神様。お気付きか。すっかり注目の的でございますよ』
凛とした声が弾けた。静観していた翠の光が揺らぎ、人型を取って顕現する。金の髪と青い双眸、精悍さが滲む絶世の美貌、すらりと一本芯の通った長身痩躯。
「帝祖」
帝国の祖にして初代皇帝であった翠月神の姿を認め、ティルが拝礼した。
「誠に申し訳ございません。我が内に御身を降ろす手はずでございましたものを」
『気に病むことはない。このような事態になったのだ、予定が乱れるのは至極当然だとも』
明朗な口調で返して微笑む翠月神は、戦装束のように動きやすい形状の神衣を纏っている。
続くように、緋色の輝きもその姿を変えた。濡れたような黒眼が白皙の肌に煌めき、繊細な簪で結い上げた黒髪が揺れる。えも云われぬほど美麗な容姿に笑みを刷き、ほっそりとした指で天を示すのは、皇国の太祖だ。
『我が祖神よ、超天をご覧になられませ』
優しげな瞳を伏せがちにして淑やかに告げる緋日神は、精緻な装飾品で彩られた神衣姿だ。長い裾と袖が優雅に翻っている。
緋日神の言葉で天を仰いだ黒闇神が、おや、と呟いて苦笑した。
「なんとまあ。至高神が全員、こちらの様子を窺っておるではないか」
白珠たちもはっとした顔で空を振り仰ぐ。天空の上にある次元には神々が坐す天界があり、さらに上には至高神たちが君臨する超天がある。天をも超えるその高みから、幾つもの視線が注がれていた。
「白死神まで視ておるのか。珍しきことだ」
「まあ、本当」
親しげな様子でひらりと天に手を一振りする黒闇神に続き、金日神も嬉しそうに微笑みかけた。
(白死神様って……原初の荒神だよね)
最初から荒神として顕現した最強の至高神。ルーディやレイティは彼に続く形で、生まれながらの荒神として顕現した。白死神は、普段は超天にある自分の領域に籠っており、姿を見せることは少ないという。
(自由奔放な性格で、同族が強く呼ばないと気が向いた時しか出てこないって聞いたけど)
『祖父神と祖母神がお出ましになられたゆえ、段取りがすっかりと変わってしまいましたよ。意向としては、私もあなた方に賛同しておりますがね』
やれやれといった風情で軽く頭を振る翠月神の横で、眉を下げた緋日神も頰に手を当てた。
『至高神が地上に在る発端は、私にございます。然るに、今では私も裔たちの帰還を心待ちにする立場。……まさか、天威師の滞在がこれほど長く続くとは思いませなんだ。三千年経つのですし、もう良い頃合いでしょう』
黒闇神が視線を戻し、天威師たちを順繰りに見つめる。
「地上の裔らよ。我らはそなたらとは意を異にするようだ。ゆえに命ずる。我らの心をそなたらに揃えさせてみよ。この場にいる至高神全員が同じことを思い、心が一つになったらならば、この場での強制帰還は保留としよう」
金日神の中で息を潜めて聞いていた日香は、とてつもない無理難題にギョッとした。
(ここにいる祖神様全員を帰還派から保留派に転向させろってこと? そんな無茶な!)
「それは……」
白珠が美しい容貌を硬くした。咄嗟の返答ができないところを取り持つように、妖艶に微笑したレイティが肩を竦める。
「ご無理を仰る。私ども天威師の間ですら、還りたい者とまだ頑張れるという者で割れているというのに」
実際のところは、圧倒的に帰還を望む天威師の方が多い。今しばらく留まりたいと望むのは、日香と秀峰を筆頭に、白珠と月香くらいだ。他の天威師は、完全に責任感と惰性だけで渋々残っている状態だ。
黒闇神が手の平をかざすと、透き通った水晶の玉が出現した。
「この場に集う至高神全ての思いが一致した時のみ、この玉は輝く。今ここで、光を放たせてみよ。できぬならば我らと共に還ってもらおう」
「お待ちを――」
「俺も祖神方に同じだ」
口を開きかけた白珠にかぶせるように、レイティが言葉を発した。
「ヴェル様?」
あなたまで何を言い出すのかという訴えを乗せ、漆黒の眼が彼を睨む。
「そう恐い顔をしないでくれ、白珠。叶うなら、お前の花の顔に浮かぶのは笑顔のみであって欲しい」
最強の荒神とて、愛妻の前では手も足も出ない。降参するように軽く両手を上げながら、レイティは困ったように小さく微笑んだ。
「俺は、自分のことはどうでも良い。だが……」
艶やかなその表情に、つと哀切と憂いの陰が宿る。春の温みを帯びた湖色の碧眼が、痛みを堪えるように細まった。
「目に入れても痛くない妻子たちは日に夕に神を鎮め、その度に重傷と激痛を負う。かけがえのない弟妹も、大事な従弟妹も、可愛い甥姪たちも、大切な嫁たちも、全員がだ。愛する身内をこの環境に留め置きたいとは思えん。そうではないか?」
ありがとうございました。




