25.勝負の前
お読みいただきありがとうございます。
◆◆◆
(え〜らいことになっちゃったよ~)
草木も寝静まる深夜。
急遽しつらえられた潔斎の宮にて、日香は頭を抱えていた。といっても、清濁を超越した存在である天威師に禊は必要ない。潔斎の宮というのは便宜上の名称であり、実質的には待機室である。
(もうちょっと日があると思ってたのに、いきなり明日だよ明日! こっちも心の準備とか気合入れる時間とか色々あるのに~)
その心の準備をするために、日香はこの宮にこもっている。いくら天威師と言えど、始まりの神器の完全修復と祖神の勧請という大事を行うには、それなりの事前集中が要る。本来であれば数日、最低でも一晩の時間は必要だ。
明日の明朝という太祖の通達は、こちらに極力準備をさせず、かといって余りに急すぎると異論を差し挟むこともできないぎりぎりの線を狙って来たとしか思えない。
(始まりの神器の完全修復なんて、最上の状態で臨まないとできないよ。ええい、集中! 精神を研ぎ澄ませる。魂を整える。心を乱さない。一番てっぺんの状態を神器修復の瞬間に持って行けるように)
「集中するの、集中するの、集中するの……」
長椅子に腰掛け、瞳を閉じて瞑想にふけっていると、ちょんと鼻の先を突かれた。
「んぎゃー!?」
色気の欠片もない声を上げて目を開ける。視界に流麗な黒髪と澄んだ切れ長の双眸が映った。
「高嶺様!」
「日香、気が散っている」
室内に転移してきた高嶺が、腰をかがめて日香の顔に触れていた。
「もー、驚かせないで下さい! せっかく集中してたのに!」
「いや、していなかった。本当に専心している者は、自分でブツブツと集中集中と呟いたりしないものだ。秀峰兄上ならばそう仰る」
「……うぐっ……」
女神のごとく整った容貌で、鋭くこちらを見据える秀峰を思い浮かべ、日香は呻いた。確かにあの義兄は言いそうだ。
幼いころから辛酸の限りを舐め尽くして来た秀峰は、自己に対して非常に厳しい。他者には思いやりを持って接するが、教え子である日香には容赦がないこともある。
「そ、そうだ。義兄様は明日私の補助をして下さるんですよね? 高嶺様と月香と一緒に」
「ああ。そなたが恙なく神器を修復し、皇祖を勧請できるよう、天威師が支える。そなた一人に全てを負わせない」
明朝、太陽が地平線から顔を出すと同時に神器の修復に入る。完全に太陽が姿を現すまでに修復を終え、そのまま皇祖の勧請に移ることになっていた。
勧請に関しては志帆や帝家の天威師が行うことも検討された。しかし今回に関しては、神器の修復と皇祖の勧請は一続きの行為だ。ならば、途中で他の天威師が割り込むよりも、修復者の日香が担うのが最適ということになった。
「現在、天威師たちが分担し、四大高位神以下の神々の鎮撫に動いている。宗基家の娘が日神を詐称したことでお怒りだからな。私も、高位神を含め数百柱ほど鎮めて来たところだ」
「そうでしたか。お怪我は?」
「少しだけ。こちらに来る前に衣ごと綺麗にして来たゆえ、痕跡はない。そなたの様子を見て励まして来るようにと、母上方が私の残り担当分の神鎮めを引き受けて下さった」
泰然と微笑む高嶺だが、おそらく先ほどまでは満身創痍の姿であったのだろう。神の怒りを一身に受ける神鎮めは、その多くが重傷を伴う。相手が高位の神になるほど、神威は大きく激しくなり、怪我も酷くなるのだ。
「皆様と一緒に神鎮めを果たせず申し訳ありません」
文字通り身を粉にして務めをこなしているであろう天威師たちを思い、日香は暗澹たる気持ちになった。
「気にすることはない。日香の役目は、神器修復と皇祖勧請のために最大限の準備をすることだ」
気にした風もなく微笑んだ高嶺が、思い出したように続ける。
「それから、宗基家の当主は内密に捕縛した。後日、天威師と神々、そして人王とで処罰内容を検討する。宗基家の娘は自供させる方向で動いている」
「天威師と神の協議に参加するのかぁ……お父様、大変だろうな。お義母様とお義父様が助けて下さるだろうけど。庶子でも皇帝家の一員だし身内だから」
王である父親を脳裏に描き、遠い目になった日香はふと秀峰を思い浮かべた。
14歳になっても覚醒しなかった皇帝家の者は庶子かつ王族となり、18歳以上になれば次の王に選ばれる権利を得る。秀峰は15歳で覚醒し、皇帝家の嫡子に格上げされて天威師の仲間入りを果たしたが、それまでの1年ほどは王族の立場だった。
(義兄様が覚醒しなくて庶子のままだったら、次代の王に選出されてたかもしれないよね。時の皇帝の実子だし、本人ももの凄く優秀だし)
その可能性を考えると、将来の王候補を軽んじ、虐げた者たちがどれだけ愚かで常識がなかったかが分かる。しかも、皇宮に務める者――優れた頭脳と高い品格を持っているべき者たちまでもが、あからさまな暴力はなくとも、コソコソと卑劣な行為をしでかしていた。
秀峰が覚醒して事実が発覚した際、天威師から事の次第を知らされた父は、臣下の質の低下に本気で頭を抱えていた。皇宮の人臣管理も人王の務めだからだ。
なお、秀峰を傷付けた者は、全てを知ったレイティが塵でも払うかのごとく無造作に神罰牢に堕とそうとした。だが、他ならぬ秀峰の嘆願により辛うじて減刑されたと聞く。
高嶺が軽やかな動作で身を翻し、日香の隣に腰掛けた。
「皇家と帝家の庶子は特別なのだ。神ではない人間の身でありながら、天威師に――至高神に愛される。神しか愛さないはずの至高神が、庶子にだけは例外として情を注ぐ。本当の意味で特別な存在は、実は天威師ではなく庶子の方だ」
直系の天威師から近い関係にあるほど、それは顕著になる。己の親兄弟あるいは子に天威師がいる庶子は、その天威師から特別に愛されるのだ。
逆に言えば、近い身内に天威師がいない庶子の場合、恩寵は薄くなる。そして、庶子ばかりが続いて代を重ねていくと、五代目以降は一切目をかけられなくなる。
と、高嶺が口元を緩めた。
「だが日香、まずは神器の修復を成功させなくては。失敗すれば人類は滅亡し、協議も何もあったものではなくなる」
「うぅ……そうですよね」
「日香ならできる」
優しく励ましてくれる高嶺。その漆黒の双眸を、日香は正面から見据えた。
「高嶺様は、本当は成功を望んでいないのではありませんか?」
夫の本心を探ろうと、瞳の深淵まで覗き込む。夜闇のごとき色は、さざ波の一つも立てることなく日香を見つめ返していた。
「何故そう思う?」
「高嶺様は皇家の者ですが、お義父様の――帝家の血が濃いと聞いています。いつも天に還りたがっていらっしゃるから……」
「そうだな。私は人への情も地上への未練もない。一日でも早く神格を解放し、家族と共に祖神の懐に還りたい。だが、愛しいそなたがどうしても人を見捨てられないならば、その意思を尊重する」
「先に一人で還ってしまったりしませんか?」
「そんなことはしない。私はずっとそなたと共にいる」
「そう言って下さって嬉しいです」
即答を聞き、日香はふふっと笑った。
「高嶺様。私、宗基家の花梨さんが高嶺様の妻の座を狙ってるって聞いて、嫌でした。人間でいう嫉妬だと思います」
そっと頭を傾け、高嶺の方にコテンともたれかかる。高嶺が手を伸ばし、ゆっくりと髪を梳いてくれる。心地よさとくすぐったさに、日香の目が猫のように細まった。
「日香以外の妻をめとるつもりはない。神器が修復できれば、盛大にそなたのお披露目を執り行おう。そなたと揃いの衣で祭典に臨みたい」
「いいですね、夫婦でお揃いの模様でも入れますか?」
「色まで同じにしても良い」
「でも、私の色は紅で高嶺様は藍です」
「そなたが主役の行事なのだから、そなたに合わせても良いだろう」
「高嶺様が紅をお召しになるんですか?」
(……うん、それはそれで似合うかも。というか私より綺麗かも。皇家の男性って女顔だもんね)
想像してにやけていると、高嶺が日香を抱きしめた。
「もう一度言う。日香ならできる。きっと大丈夫だ。成功させよう」
「はい、高嶺様」
息がかかるほどの至近距離に、愛しい者の顔がある。
(ああ、幸せ)
いつまでもこの時が続けばいいと思いながら、日香はそっと目を閉じた。
ありがとうございました。




