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3.蛇と天使の食卓





 一夜明け、ザバル国は前代未聞の大混乱に陥っていた。

 一人の唄人の消息が絶たれたからだ。

 近衛兵と歩いていた姿を最後に、依然として行方が分からない。唄人が楽園を出るはずがない。消息を絶ったのは唄人の中でも能力の高い歌い手だ。手に入れれば莫大な力となる。

 組織的な関与も疑われ調べが行われた結果、警備を含め現場で働いている幾人かが、襲われて衣装を剥ぎ取られたと判明した。一様に、美しい少年に奪われたと話している。


 マシムは長い足を組んで書類を放り投げた。


「それで、未だ行方は掴めませんか」


 恰幅のよい神官は、三重になった顎から汗を滴り落として目を泳がせた。

 汚らしいと、マシムは隠しもせずに眉を寄せた。


「未分化の唄人が男と知り合い、共に逃げた。あなた方の重大な過失でしょう。どう責任を取るおつもりですか、ズーリー神官。特に貴方は、逃亡中のエリスを見たにもかかわらず、逃がしたのですから」

「すぐに、すぐに連れ戻します。しばしお待ちください! しばしの時間を!」

「わたしは既に九年待っているのですよ。如何に気が長くとも、もう待てない」


 ズーリーは泡を食って部屋を飛び出していった。汗を絨毯に振りまいていった。頬を歪めて焼き捨てるよう命じる。

 平らな胸に柔らかな肢体。染まらぬ無垢色でありながら、唄人が持たぬはずの意思で自分を拒み続けた白い子ども。

 欠片も和らがぬくせに逸らしもしない。まっすぐな無垢色が絶望に染まる様が心地よかった。誰より神に近い歌声を紡ぐ唇が、恐怖に震える悲鳴を吐き出す様に高揚した。どんな時も揺るがなかった声が泣きじゃくり、拙い抵抗にもがく様は何にも代え難い興奮を呼び起こした。

 長い髪が絡まることなくシーツに散り、白く細い手足が掻き混ぜる。未発達で中途半端な身体が、この手の中で完成する。

 上歯の付け根を舌でぞろりと舐める。

 買ってもいい。飼ってもいい。狩ってもいい。

 あの生き物が手に入るなら、どんな方法でも構わない。


「遊びはお終いだ、エリス」


 一目会った時から手に入れると決めていた。手加減はしない。次は問答無用で奪い取る。

 その瞬間を思い浮かべ、マシムは再び舌を動かした。












 目を覚ましたエリスが最初に抱いた感情は、後悔だった。

 覚醒するや否や、がばりと飛び起きたエリスは、咄嗟に掴んだナイフを下ろしたカガシを見た。


「しまった」

「お目覚め一番で何やらかしたって?」


 呆れた顔でナイフをしまっているカガシを見て、がっかりする。


「君の歌をもっと聞きたかったのに、眠ってしまった」

「眠らせる為に歌ったのに、歌を目当てに眠らない子どもは手がかかりすぎてごめんだね。子守歌で大人しく眠る子どもは孝行者だ」


 そういうものなのだろうか。エリスには分からない。子どもを育てている存在など、傍にはいなかった。唄人には子育てなど分からない。生死すら、分かっていないのに。

 残念な気持ちを抱えたまま、中途半端な体勢にある身体を完全に起こす。棒でも入っているかのように、身体が軋む。どうやら、接していた場所が固いと身体が軋むようだ。歪に動く身体が面白い。

 腕を回したり、背を丸めてみたり。思いつく限りの動作で身体の動きを確かめているエリスを、カガシは呆れた目で見ている。その彼は、でこぼことへこみが激しく、傾いた鍋を火にかけていた。

 周囲は真っ暗だが、火の光が届く範囲だけその姿をはっきりと浮かび上がらせている。

 火は、組まれた枝で保たれていた。薪ではなく、細い物もあれば太い物もある、乱雑な枝だ。

 エリスは、そこでようやく、自分達が森の中にいると気が付いた。


 こんな森は、初めてだ。

 呆然と周囲を見回す。濃い草の匂い。腐り落ちた木々の匂い。それらが水を纏って漂っている匂い。壁の中と、全く違う。こんなにも密度の濃い草花の香りがあったのか。土が香り立つ。水が空気を漂い、世界を湿らせる。

 位置を定められず、きょろきょろと彷徨わせているエリスの視線は、ぱちんと弾けた音に引き寄せられた。


「今の音は、何だろう」

「近寄るなよ。生木だし、木の実が混ざってたら派手に爆ぜる」


 もっとよく見ようと近づけたエリスの顔を、カガシは片手で鷲掴みにして押しのけた。片手は変わらず鍋を掻き混ぜている。押しのけられたエリスは、仕方なく鍋の中身へ視線を移した。

 不思議な粘度の液体が、ぼこんっと気泡を浮かばせた。何が入っているかは分からないが、温かそうだ。

 エリスの視線をどう取ったのか、カガシはにやりと笑った。


「ようこそ、何一つ整えられていない、食えりゃいいだけの道端飯へ」

「道端……これらは、この場で調達した物なのか?」

「そう。そこの川で魚を捕って、雑草適当に千切って、水と一緒にぶち込んで煮てるだけ。魚は苔食って育ってる奴だから身まで臭いし、雑草は苦い。そうそう、虫も混ざってるかもな。腹は膨れないが、虫だって立派な栄養源だ」


 カガシの説明を聞いていたエリスは、その度相槌を打った。


「君はやっぱり物知りだ。食べられる物と、そうでない物の区別がつくんだな。私には、石と土が食べられないことしか分からない」


 感心して鍋を見つめ続けると、深い溜息が降った。


「それに、壁の中で生っていた果物も、道端飯と言えるのではないだろうか。だってあれらは自生している物なのだから」


 カガシの頭が更に沈んでしまった。己の顔を鷲掴みにしたカガシは、俯いたまま呻く。


「……ああ、そう。飯はまだだから、お前は身体でも洗ってこい」


 鍋を掻き混ぜていた器具で示された先は、木々が重なっている。視線を向けて少しすると、目が慣れてきた。薄暗い先をよく見れば、確かに川があった。


「そのままでいいなら、別にいいけどな」

「いや、洗ってくる。このままだと、気分が悪い」

「あ、そ。温かなお風呂、なんて贅沢品はないから、精々震え上がってこいよ。そら、着替え。いま着てる奴は後で燃やすから」


 渡された着替えも、いま着用しているものと遜色ない。着替える必要があるのか疑問ではあるが、きっとエリスには分からない何かなのだろう。問うてもよかったが、確かに、今はとにかく身体を洗い流したかった。


「ありがとう」

「俺が見える範囲から外れるなよ。それ以上離れると、水深が深くなる。転倒には気をつけろ。泳ぐな。足を切ったらすぐに戻ってこい」


 矢継ぎ早に飛んでくる指示に逐一頷き、エリスは火元を離れた。

 川は、本当にすぐそばを流れていた。木々の隙間を抜ければ、すぐに河原が現れたほどだ。


「こっちで火を焚かなかったのは何故だ?」

「煙は空へ昇る。狼煙の用途があるならともかく、自分から居場所を知らせる逃亡者はいないだろ?」


 美しい指が、すいっと天を指差した。カガシの指す天には木々が折り重なり、煙は地上の闇に紛れていく。成程。


「そうか、私は逃亡者なんだな」

「他に何があるんだよ」

「楽園と呼ばれたあの地から去ることを逃亡と感じなかったんだ」


 また呆れられてしまった。けれど、それさえも楽しい。過去のエリスには向けられなかった会話だ。

 何も分からないだろうと打ち切られた会話の先が今なのだとしたら、やはり彼の子守歌を聞き逃したことが残念でならない。



 多数の石が重なった地面を、ゆっくり歩く。唄人は比較的夜目が利くといわれている。夜目が利かない状態がどういうものか分からないので、エリスには判別しようもないが。

 初めて触れる肌触りの服を解き、一枚ずつ滑り落とす。歩きながら勝手に滑り落ちていく服とは違い、これらは手で補助をしてやらねば身体から離れてはいかない。

 置き去りにした服を振り返りもせず、エリスは白い足を水へと伸ばした。冷たい。固い水が、肌を押し潰すようだ。

 壁の中を流れる小川や湖とはまるで違う。あっちは、柔らかな、布のような心地だった。包まれるようでいてくすぐったい。そんな水だったのに、ここの水は、まるで陶器だ。

 それが、今のエリスには丁度よかった。流れる水を掬い取り、首筋へかける。それが終われば胸元へ、腕へ、足へ、そうしてまた首筋へと戻ってくる。

 何度も、何度も。かけて、擦って、流し落とす。自ら与える感触が、押し付けられた記憶を塗り潰してくれるなら、熱湯だって構わないほどだ。


「……あんた、青白くなった?」


 無心で身体を洗っていたから、いつの間にか火元を離れていたカガシに気が付かなかった。カガシは、河原との境に立つ木に凭れ、じっとエリスを見ていた。

 カガシの視線がなぞった場所を自分でも見下ろす。薄い身体と青白い肌に、思う所は特にない。


「日光に当たっていないからだろう」

「それは、あの神官が言っていたことが事実だからか?」


 あの神官がどの神官か少し考える。思い至るまでに一拍を要した。エリスの中で重要な事項ではないからだ。


「私は唄人として異質だから、他へ思考が感染しないよう、神官達は苦労したと聞く。野放しにして他の唄人と接触させるわけにはいかないから繋ぐ。要請された歌以外を聞かせるわけにはいかないから塞ぐ。指示に従わないから罰する。それほどおかしな話ではないだろう? 唄人は、唄人自身が所有者ではないのだから」

「……唄人は、楽園の中で大事に仕舞われているんじゃなかったのか」

「神官達は、唄人の個体数を減らさないよう気を張り、管理を行き届かせている。何かあれば大事になる。だから、大事にはされているよ」


 水からあがり、置いてあった着替えを手に取る。その前に、カガシから投げられた布が顔面に当たった。受け止めるなんて機敏な動作は叶わず、ばさりと落ちた布を拾い上げる。


「前も思ったけど、身体拭いてから着ないと意味ないだろ」

「成程」


 道理だ。何かをするという行為を許されてこなかったから、着替えの手順すら把握していなかった。脱いだまま落としてきた服も、後で拾わないとならないようだ。

 手に取った布は、肌を傷つけそうなほど荒い布だった。擦らず、肌に当てて水分を拭う。


「君は、どうしてあんな場所にいたんだ?」

「色々、事情ってもんがあるんだよ」

「それなら、私はその色々な事情に感謝しないといけないな。二度と会えないと思っていた君に会えたんだ。こんなに嬉しいことはない」


 どうしてだか、深く長い溜息がカガシから吐き出された。片手で顔を覆い、疲れ切った様子で背を向ける。


「流れの情報屋をやってるから、依頼を受ければあちこち潜り込むんだよ。もういいから、さっさと着替えて戻ってこい。飯にするぞ」


 話す度に動きが止まるエリスは、未だ服を纏っていない。もたもたと服を羽織り、のそのそとボタンを留めていると、火の側に戻ったカガシから「遅い」と文句が飛んできた。




 ほらよと渡された器は、鍋と同じように凹凸が激しく、どこが底か分からなかった。中身が零れないよう持つには、鷲掴みにするしかない。

 器の中に入っているのは、灰色の液体だ。どんな匂いがするのだろうと鼻を近づける。今まで嗅いだことのない匂いだ。

 そっと口をつけてみる。土がついたままの野菜を凝縮すればこうなるのではと予想する味と、苔を詰めた魚をそのまますり潰せばこうなるのではと予想する味がした。舌触りも不思議だ。どろりとしているようでいて、ぶつぶつ途切れていく。

 これは何だろう、この味はどこから来るのだろう。考えながら黙々と食べていると、気が付けば食べ終わっていた。器に向けていた意識を上げれば、カガシはぽかんとエリスを見ていた。


「……本当に文句一つ言わず食うとは思わなかった」

「不思議な味だった」

「こういうのは不味いって言うんだよ。それで、あんたがいつも食ってたのが、美味い」

「成程」


 それしか食べていなかったからよく分からなかった。


「お貴族様が食うもんじゃないけどな。普通は見た目だけで吐く程度には酷い有様だよ、これは」

「そうなのか。けれど私は貴族ではないし、不思議な味で吐いた経験はないんだ。不思議な味を経験したのは初めてだけれど、今度のことで私はそう言う権利を得た」


 顎を上げて最後まで飲み干したカガシの行動に、驚く。けれどそのやり方であれば最後の一滴まで食べきることができる。合理的だ。

 かんっと器を置いたカガシは、深い溜息を吐いた。


「あんた、本当に変わってないんだな」


 呆れたように笑われて、むっと膨れる。


「そんなことはない。私は君と出会って変化した。私は歌えるようになった。音を出しているのではなく、歌っているのだと言えるようになった。それは君のおかげだ」

「うん、変わってないわ。あんた、ほんっと何も変わってない」


 真剣な顔で何度も頷かれ、エリスは衝撃を受けた。自分では随分変わったつもりだったのに、全く分かっていないと言われてしまったのだ。


「……君だって変わっていないじゃないか」

「こんなに背が伸びて、男前になった俺が?」

「身体的な変化で言えば、私も分化していないだけで身長は伸びている。君はあの頃と変わらず、顔面の作りも表情も美しいままだ。星のようでいて苛烈な炎を宿している瞳も、あの頃と変わらずまるで命そのものだ。この世で一番美しいものは何だと問われれば、私はあの頃と変わらず君を示す」

「……やっぱりあんた、なーんにも変わってないわ」


 エリスは思った。心外である。







 食事を終えた後、カガシは自分もさっと水浴びを済ませ、早々に眠る体勢に入った。

 早々にとはいったが、今が何時頃を指すのか、エリスには分からない。壁の中にいた頃も、時間とは、光ある時間と星ある時間の区別でしかなかった。

 不思議な味がした食事に、獣の匂いを混ぜたような匂いの毛布を渡された。今日まで、こんなに匂いが強い物は香水しか知らなかった。

 カガシは固い地面にさっさと横になる。それに習い、エリスも彼の隣に寝転がった。しかし、すぐに起き上がる。地面の小石や小枝がちくちくと刺さったからだ。毛布に包まり、改めて寝転び直す。これなら地面と自分の間に緩衝材ができて、ちくちく刺さらない。


「明日も早いからさっさと寝ろよ」

「子守歌は、歌ってもらえないのだろうか」

「甘えんな。あれは気紛れ大特価な上に、売り切れだ」

「そうなのか。残念だ。私は買い物をしたことがないけれど」


 本当に残念だ。改めて呟けば、カガシは背を向けてしまった。

 その背を見つめる。五年前、この背を見た。壁の外へ帰っていく背を見た。それ以外で背中を見たことはあまりなかったなと、思い返して初めて気が付いた。


「カガシ」

「歌わねぇぞ」

「そうではないよ。いや、歌ってくれるならとても嬉しいけれど」


 正直に告げれば、舌打ちと共に寝返りが打たれた。エリスを向いた星色の瞳に、つい嬉しくなってしまう。だが、それを告げれば会話が売り切れてしまうように思えたので、当初の質問を続けることにした。


「これから、どこへ向かうのだろう」

「……何だ。あんたちゃんと考えられるんだな」


 ふと落ちた小さな笑みは、葉が揺れる音よりよほど小さい。生の音はこんなにも小さい。熱は、あんなに高いのに。


「あんたのお相手がザバルの王族とは思わなかったよ」

「そういえば、あの人は王弟だった」

「そういえば、ね。で、だ。ザバルはでかい上に凶暴な国だ。隣国だけじゃ飽き足らず、大陸の隅々にまで手を伸ばして飲みこんできた。それこそ、唄人を使ってな」


 その通りだ。唄人はどこの国にも属していないはずなのに、ザバルの戦場で使われてきた。侵略戦では、特にだ。

 交配相手もザバルの貴族が多くなっている。そのうち、ザバルしか唄人を使えなくなるのではないかと思う。もうなっているようにも、思う。


「だから、そんじゅそこらの国じゃ隠れられない。少なくとも、ザバルの支配下に置かれた国は駄目だ。ザバルは逃げ込んだ国ごと滅ぼすからな」

「成程。だったら、私を置いていってくれ」


 風が吹いた。不思議な風だ。地面から空へと向けた吹いたようだ。それなのに、木々が揺れていない。それどころか森が静まりかえっている。

 音が消え失せた森の中、ぱきりと小枝が折れる音がした。ゆっくりと身体を起こしたカガシが立てた音だ。


「――何だって?」

「君に会いたいと思った。君を知りたいと思った。けれどそれは、君に災いを降らせたいわけではない。私という存在が君の災いとなるのなら、置いていってほしい。私は、君の生を妨げる何物にもなりたくはない」


 彼を見上げるのは、好きだ。木々に遮られて見えないはずの星が、手の届く場所にあるように思えるから。実際は触れることなど許されずとも、届くと思える夢想に救われる。


「ここなら、妨げられず死ねる」


 神官に売り渡された。自分の身体を勝手に開かれる。自分の生を掴み取られる。そのどれもが、不快だ。けれど何より不快だったのは、死すら管理された事実だ。


「あんた、死にたいのか」

「いいや。けれど、生きたいという感情も分からない。あの男に所有されれば、私は生だけではなく死すら所有される。あれは酷い感覚だった。あれこそが不快感と呼ばれるものなのだろうと思う。酷い、不快感だった。死を制御されるのは、不快だ。生を囲われるより、もっとだ。もしかすると、あれが屈辱と呼ばれる感情なのだろうか」


 カガシは何も言わず、じっとエリスの言葉を聞いていた。

 言葉が届く。言葉が音ではなく言葉として受け止められる。そんな、本来ならば当たり前と呼ばれる現象から酷く遠ざかっていたエリスの胸は、その事実に気付くと同時に柔らかく打たれた。


「それなら、終わりは自分で決めたい。そして、私の生が君の生を妨げるのであれば、今すぐ死にたい」


 子を成せば壁から出られる。けれどその先はあの男の元だ。子を生んだ唄人は数年で死ぬ。その後、貴族達は改めて婚姻関係を結ぶ人間と番う。

 数年。たった数年。その数年を生きるくらいなら、ここで死にたい。


「それくらいなら、唄人だって自由と呼ばれるらしい人が持つ権利を使用してもいいと思うんだ」


 爪が額を弾く音と同時に、額へ痛みが走った。何だか懐かしい音と痛みだ。

 額を押さえ、首を傾げる。カガシは閉じた口元を僅かに歪ませていた。


「ばーか」


 ようやく開いた口から飛び出したのは、彼にしては珍しい、何だか子どものような罵声だった。


「あんた、ほんっと変わってない。あーもー、話すだけ無駄だ。無駄無駄。無駄な時間取った。明日は早いんだからさっさと寝ろ。俺は寝る」


 早口で吐き捨てたカガシは、元の位置にごろりと寝転がった。その上、毛布を頭まで被ってしまった。彼の背を見るどころか、髪すらほとんど見えなくなって、エリスはがっかりした。

 何が彼を怒らせたのか分からないまま、言われた通りのろのろ目蓋を閉ざす。


「カガシ」

「本日は閉店しました」


 取り付く島もないカガシの声に、エリスは小さく笑った。


「君に会えて、嬉しい」


 返事はなかった。けれど聞こえた小さな吐息の音は、何だか笑っているようだった。








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