2.外界の天使
エリスは分化を迎えることなく十六年になった。
通常唄人は生後十五年までに分化を終え、交配を済ませる。だというのに、エリスの身体はどっちつかずのまま、平らな胸に柔らかな身体を保っていた。
西の壁向こうに位置するザバル大国にエリスはいた。今日はザバル国王の聖誕祭で、エリスを含め、優れた唄人が幾人も参加している。
絢爛豪華な内装、鮮やかな料理、華やかな人々。鳴り響く天使の歌声。合間を縫って聞こえるのは、破滅した貴族への蔑み、生の為に地を舐める下層への慈愛を被った自愛。美しい笑みの中で輝く嘲り。
天使と呼ぶに相応しい穏やかな笑顔の真ん中で、エリスは無表情のまま瞳を閉じた。
足元まであった髪の毛は七つの時分に一度短くなったが、今はまた腰を越えた。短かった時が一番動きやすかった。けれど、一番監視を受けていた時期でもある。
九年前、エリスの異常行為は神官達を酷く動揺させた。
血を流す姿は唄人にも驚愕を与えた。楽園が罅割れたように動揺する様は、見ていて心地よかった。まるで明日が来たようだった。
しかし、すぐに楽園は今日へと戻った。
全てなかったことになり、エリスの傷は癒え、穴は塞がれた。もしかすると、彼が潜った穴もなくなったのかもしれない。
あの数日間は今でも胸にある。
彼の声、言葉、仕草。何一つ失わずここまできた。これから先も変わらない。カガシと口に出すたび歌は色を帯びた。
鮮やかに彩られ、他の誰も並べない。天使の歌声と称される唄人達の中、一際色鮮やかで、音が意味を持った真白い天使。それが、他者からのエリスの評価だ。時を重ねて美しく艶やかに花開きながら、未だ分化を済ませぬ未熟な身体。
不完全な奇跡を、人々はより一層愛した。
「エリス。ここにいたのですか」
男の声に、閉じていた瞳を開く。ずっと閉じていたかった。相手が彼ならば尚の事。
色が多く裾口の広がりが多い服は、ザバル国の特徴だ。エリスを呼んだ男は、ザバル国王の血筋だ。そして、エリスの交配相手でもあった。金の髪に青い瞳。典型的な貴族の色。
誰もに尊ばれる金より、夜を溶かした黒の美しさをエリスは知っていた。
「マシム様、何か御用でしょうか」
「相変わらずつれない。少しこちらへ。話をしたいのです」
肩を抱かれて鳥肌が立った。軽く撫でられただけなのに、ねっとりと張り付くような感触が消えない。
空き部屋までエスコートされる間も、離れたくて仕様がなかった。
白い肌が映えるようにと、薄くひらりとした生地を着せられる唄人の服では、歩みは遅くなる。マシムは合わせ慣れた速度で苦もなく進む。いっそ置いていってくれればいいのにと、重たい気が同じ重さを伴った息を吐かせた。
辿りついた部屋は、風も人の気配も生活感もなかった。あるのは余りつくした豪勢だ。
促されるまま椅子に座る。マシムは背後から肩に触れた。ヴェール越しに感じる体温が気持ち悪くて堪らない。爬虫類を思わせる視線が自分を撫で下ろすのを感じる。
「最近は暴動も多く、混乱が激しい。唄人も出動要請が多いのではありませんか?」
「私は、あまり外に出ることはありませんから」
「ああ、それはいい。戦場は砂まみれで血みどろです。この白い髪も肌も、汚れてしまうのはしのびない。唄人は分化を済ませて初めて色を持つ。その前に染められるのは些か不愉快ですね」
掬われた髪に口付けが落ちる。神経など通っていないはずなのに寒気がした。離された髪にほっとして目で追う間に、背後から腕が回った。
「まだ、わたしを受け入れては頂けませんか?」
耳を吐息が食む。
「私、は、男になります。ですから、あなたの交配相手にはなれません」
「それは神官様がお決めになる事項でしょう?」
「そのようです。けれど、私は私のままに」
これはエリスの生だ。一生付き合う性別は自分で決めたい。
男になる理由がマシムの交配相手になりたくないからという稚拙な理由であっても、エリスには重要なことだった。
マシムは、金糸を散りばめたリボンで一つに纏めた金髪を揺らして笑った。
「唄人とは人形のような者ばかりだと思っていましたが、エリス、あなたは違う。彫像より美しく、女神より頑固だ。そんなあなただから、手に入れたいのですよ」
「ひっ……」
思わず声が漏れた。首筋をねっとりした物がなぞる。通った後は空気に触れて冷たい。払いのけて拘束を逃れる。思ったより簡単に腕が外れて距離を取った。
気軽な動作でマシムが歩を進める分、エリスが下がる。一定の距離を得ていたい。その行動が自分を追い詰めるなんて考えもしなかった。
「なに、を」
大仰な外套が外されていく。唄人が纏う生地に比べると、随分重たい布で作られた衣服だ。バチンバチンと、留め金が外れる音がやけに大きく聞こえた。
「神官様からお許しを頂いていましてね。これ以上分化を拒めば、あなた自身に害が出ます。あなたが分化を拒むなら、我々で強制的に分化させます」
「は?」
足に何かが当たった。胸が早鐘のように鳴り響く。ぎこちない動作で視線を落とした視線が捉えた物は、寝台だった。息を詰めた隙に距離を詰めたマシムは、白い身体を寝台の上に押し倒した。
「抱かれる喜びを知れば、身体は自然と受け入れる体制に変わっていくものです。男も女も変わらない。どちらでもないあなたは、より自然に受け入れる側へと変わるはずです」
「やめて、ください……や、嘘だ、やめて、嫌だ!」
圧し掛かる重さに、脳が混乱し、身体が動揺する。全力で暴れるのに手足が動かない。震える四肢は簡単に押さえ込まれていた。
いつもと違う着付けをされたと思っていた服は、帯一つを引けば簡単に解けた。縋る服も奪われ、迷子のように彷徨わせた指を絡み取られる。そうしてシーツの海に沈められる。
溺れていく。地上で、エリスの生が溺死する。
元より停滞する淀んだ生が、最早息もできぬ位置へ引きずり込まれていく。無理やり絡まった指から毒が侵食する。喉から引きつった音が漏れた。
「……美しい」
晒された白い肢体を、マシムは恍惚と見下ろした。粘着質な視線が通るたびに湧き上がるのは羞恥でなく恐怖だった。男の手が身体を這う。爬虫類が這うように張り付いて、胸元に埋まった石を舐めた。
「いや、嫌だ、やめて! 嫌だ!」
肌へと移動した唇に強く吸い付かれ、嫌悪で滲んだ視界の中に赤い痣を見つけた。支配宣告のようで吐き気がする。
「力を抜いて、身を委ねてください。目も眩む快感を、一生あなたに差し上げましょう。あなたはただ受け入れるだけでいい。快楽に揺さぶられればいいだけですよ」
痣が咲く。一つ、二つ、三つ。その度に絶望が花開く。
刻まれた心が朽ちていく。身体に咲いた毒花は、まるで烙印のようだった。
いつの間にか足の間にいる男を、蹴り飛ばすこともままならない。男の手が這うそばから皮を削り取りたかった。なのに叶わず、嫌悪と恐怖が重なっていく。塗り重ねられていくそれらに、意識が正気を保とうと鈍重になっていく。嫌悪感は強くなる一方なのに、思考が遠のく。
肌に重なる他人の体温が気持ち悪い。肌と肌がぶつかる感触がおぞましい。声がただの音になり、意味ある言葉を吐けない。羅列で正気を保とうとしている。
「たすけ」
小刻みに短くなる震えた音は続きを探す。
唄人に親はいない。神官はエリスを売り渡した。個々の繋がりを持たない唄人は、楽園の庇護しか身を護るものがない。
自分を囲う檻が、あまりに強固だったから忘れていた。
エリスは、呼ぶ助けを持たない。
「唄人は不便ですね。こんなとき、求める先がない。これからはわたしの名を呼ぶといい。わたしだけがあなたが繋がった先となるのだから」
自分の上で好きに動いて蹂躙するこの男が、一生エリスを害すのだ。この男の為に女になって、一生、この男の為に歌うのか。
大きく開いたエリスの口を、たこなどない滑らかな掌が覆った。否、入り込まれたのだ。舌を噛み千切るために篭められた力は、違う肉へと食い込む。食い破った男の皮膚から血が流れ、口内を満たす。その味は、この身は死すら儘ならないと、エリスに思い知らせた。
傷ついた手を見下ろす男は、酷く楽しそうだった。
「生まれてこなければよかった? いけませんよ、エリス。あなたはわたしの為に生まれた、わたしだけの小鳥です。わたしの色に染まり、わたしの子を生し、わたしの為に歌うのですから」
自らが流した血の味が広がった唇と重ねようと、耳障りな声音が近づいてくる。
一生だ。一生、死ぬことも儘ならず、こうして暮らすそれを、生と呼ぶのだろうか。
彼と出会えた事実だけを唯一の幸として、一体どこまでいけるだろう。
「カガシっ……」
一体どこまで、いかなければならないのだろう。
「教えただろ。急所を蹴り潰せってな」
淀んだ空気を、心地よい声が霧散させた。
「誰だ!」
「そう言って名乗る訳がないから、あんた落第」
鈍い音がして身体の上にマシムの全体重が乗った。息が詰まった事実より恐慌が限界を越えた。極限の悲鳴が口から漏れ出る寸前、温かい掌が覆う。
「あんたも落第。まったく、出来の悪い生徒ばかりだ」
深い夜の色。夜に瞬く銀色の星。
不意に身体の上が軽くなる。衛兵の格好をした青年が、マシムを蹴り落としたからだ。
「分かった。分かったから、頼むから、叫ぶな。こっちは想定外なんだ。ほっとくつもりだったんだ。この場をどうこうしたって、あんたが唄人な以上先は変わらない。それなのに、ちくしょう。あんたが呼んだりするから!」
あの時より背が伸びた。エリスだって伸びたが比較にならない。すらりとしなやかな腕が、衛兵の帽子を投げ飛ばして乱暴に髪をかき乱した。
「いや、違う。あんたのせいじゃあ、ない。俺が決めた、俺の決断だ。考えなしで、堪え性がないのは、俺だ」
近衛兵の鮮やかな外套を引きちぎってエリスにかぶせ、カガシは困った顔で笑った。
「だから、あんまり泣くな」
声が出ない。名前も呼べない。音だけが溢れる。嗚咽が音となって霧散する。
どうしてここにいるの。どうして。何故。会えるはずのなかった君が、何故。大きくなった君が、どうして。どうして、何故、会いたくて。会えないと分かっていたのに、どうして、どうしても。
カガシ。カガシ。カガシ。カガシ。カガシ。
エリスの音も思考も、意味なんて為せないのに、カガシは全部分かったと言わんばかりに軽く頭をはたいた。
散々泣いて、ようやく身体の震えが収まった。抜けた腰もそろそろ立てるだろうか。
「選べ、エリス」
黙りこくっていたカガシが、突然言った。
「歌を捨てるか、自分を捨てるか。唄人は楽園を離れれば歌えなくなるといわれている。歌と生を受けた意味を捨てるか、自分を捨ててこいつに抱かれながら歌を選ぶかだ。あんたの人生だ。あんたが選んで、負え」
歌を捨てる。
考えたこともなかった。
歌は生まれた時からそこにあった。見失っても消えることなく傍にあった。
歌を失う?
そうしたら自分はただのエリスとなり、そしてどうなるのだろう。失くしてみないと分からない。自棄でも短慮でもなく、事実だ。
「連れていって、くれるの?」
「乗りかかった船だ。泥舟でも行くしかねぇだろ。戻してもいるのはこいつだ。また泣きながら俺を呼ぶ気かよ、ちくしょう」
エリスは外套の前を掻き集めて立ち上がった。思ったより踏ん張りが利かずに、ぺたりと床に座り込む。
「君と、いきたい」
「本当に全部なくすぞ」
「彼の為に生まれて死ぬより、よほどいい」
「はは! 嫌われたもんだな、こいつも! ま、俺が女でもお断りだ、色々しつこそうだし」
「私はどっちでもない」
「律儀に訂正いれなくて結構。さあ、立て。こいつ自身がした人払いもいつまで持つか分かんねぇんだ」
カガシの視線を追いかけて、寝台に散らばった服を見る。抱かれる為だけに着付けられた衣装。二度と纏いたくない。カガシにかぶせてもらったマントを握りしめる。
「これでいく」
「ばか。露出狂の変質者な上に、目立つ。俺も外套ないと変だろ」
「だって、嫌だ」
身体中に散らされた烙印が人の目に晒される。耐え難い苦痛だ。
そう思ったのに、伸びてきたカガシの腕に外套の胸倉を掴まれた。
「嫌だろうがなんだろうが、この先はそんな言い分通じない。ここから出たって相手が変わるだけで同じことが何度もある。もっと酷いかもしれない。楽園から出て血塗れになる覚悟がないなら、俺は面倒見切れない。エリス、選べ。ちゃんと覚悟して選べ。ここから先で、あんたは自分のいた場所が楽園と知る。それでもいいか。それでも楽園を捨てると言えるか」
楽園。あの場所をそう思う日が来るのだろうか。
一年中咲き乱れる花々に、たわわに実る果実。不幸も穢れもない、美しいだけの世界。唄人はみな微笑み、負の感情に囚われることなく、涙を流すことなく、ただ生きる。それを幸福と呼ぶ日が来るのだろうか。
エリスの表情を見て、カガシは片頬を上げた。
「楽しいもの見つけたガキみてぇな顔すんな」
躊躇いなく外套を滑り落としたエリスに、呆れ声が上がる。
「嫌がってたわりに大胆だな、おい。元々の衣装も肌丸出し。これは恥ずかしくないのかよ」
「大体、こんな衣装だよ。性別がないから見られて困ることがないんだ。悪かったってば。そんな顔しないでくれ。これから気をつける」
「そうしてくれ。あんた、それやってたら、襲われたって文句言えねぇかんな」
「君が襲うの?」
「勘弁。俺は女専門なんだ。胸ないやつは却下ね」
放り出した帽子を被り直して変わった表情に、エリスは感嘆した。彼の表情は見事だと思う。いろんな顔に変わるのに、どれも様になっている。
エリスを天辺から見下ろして、嘆息と共に手が伸びた。ヴェールを頭から被せられる。
「泣き腫らしたのばればれ。対応は全部俺がする。あんたは喋るな」
「それなら問題ない。いつも通りだ」
「問題ありだかんな、それ。一応言っとくけど」
いつの間にか目隠しをされて縛られ、シーツを口に押し込まれた上にベッドの下にしまいこまれたマシムを置き去りに、部屋を出た。カガシは時間稼ぎだと言っていたが、あれだといつまで経っても発見されないように思う。
基本的にエリスを連れていれば、誰かに話しかけられはしない。唄人は貴族の贅沢品なのだ。迂闊に関わることは許されない。カガシも、唄人の護衛だと思われているのだろう。咎められることなく、黙々と進む。
だが、偶に声がかかった時のカガシは見事だった。声音がくるくる変わる。ひょうきんな男から気弱な少年まで、簡単に雰囲気を変えてしまえる。どうやったら声音の切り替えが出来るか、昔聞いたことがある。ウインクと一緒に、嘘つきだからと答えられた。
「そこの衛兵、止まれ」
後少しだと囁かれた時、背後から呼び止めた声にエリスが振り向いた。咎めかけたカガシはすぐに口を閉ざす。相手が神官だったからだ。
神官は楽園で唄人を保護する役割を持つ。交配相手を定め、唄人の保存が務めだ。下手な小国の王族より、余程地位を持つ。
楽園で何度か見かけた男だ。名は知らない。他の唄人も誰も知らないだろう。
「マシム様はどうした」
エリスは身の内ですぅっと何かが冷えていく感触を受けた。
彼は、何があったか知っている。当然だ。マシムは言っていたではないか。神官から許可を頂いた、と。
知っていて、人の尊厳と意思を踏みにじっておいて、よくも平然と。
「……お連れの方が呼びに参りました」
「お忙しい方だからな……して、分化はどうなった」
泣き腫らした淡色の瞳と散った痣に、神官は事があったと理解したのだろう。憔悴したエリスの表情から勝手に察し、咳払いした。
「エリス。お前の為なのだ。女になってあのお方の子を産むほうが良い。異常行動を取りがちなお前でもいいと言ってくださる方ではないか。貴き身分の方にお前を開き、唄人を生む。これ以上の至福があろうか」
「私は私です。誰かの為に生きるというのなら、その相手は自分で選びたい」
慣れた痛みが頬を打ちつける。打たれたエリスより余程赤い顔をして神官は怒鳴った。
「お前は本当に異常な唄人だ! そんな事を言うのはお前だけだ! 余計な事を考えるな! お前達はただ乞われるままに歌い、身体を開き、子を生せばいいのだ! そうあれと神が定めた生き物だというに、お前という奴は!」
聞き慣れた音を再び耳にする。視界がぶれて口端が切れた。
「お前の奇行のせいでわたしがどれだけ苦労したと! やはりお前は外に出せん。檻から出さん! ずっと部屋にいろ。口輪も枷もそのままだ! そこまでしても駄目だ。鎖を増やす! 十年間、お前はそこまでしても駄目だった。お前は危険だ。危険思想の持ち主だ。他の唄人に感染する前に対処する必要がある。歌さえ美しくなければ、お前などっ!」
再度視界がぶれる。慣れた痛みだ。特に思う所はないが、男の声は耳障りだ。殴るなら黙って殴ればいいものを。
「檻から一歩も出さん。寝台に縛り付けておく。マシム様の子を生すまで二度と出られると思うな!」
振り上げられた腕を無感情に見上げる。
しかし、今度の熱さはエリスまで届かなかった。
「神官様、人が来ます」
衛兵の仕事通り、壁と同化していたカガシが、神官の腕を押さえてそっと囁いた。直接言われたわけではないエリスでさえも、眩暈がするほど美しい声だ。
はっとなった神官は、少々気まずそうに居住まいを正す。
「う、む。何もなかった。いいな」
「承知しております」
「うむ。では行け。その者から目を離さぬように」
「は!」
神官は肥えた身体を揺らして去っていった。
一礼して見送ったカガシが無言で歩き始めたので、後をついていく。階段を下りて、どこをどう曲がったか覚えきれない。躊躇いなく歩く彼はやはりすごいと感心していたらいきなり暗がりに引きずりこまれた。壁に背をぶつけて息が詰まる。
「俺のせいか」
銀星が目の前にあった。吐息が重なって触れそうだ。
マシムの時は凄まじい嫌悪感だったのに、鳥肌一つ立たない。それどころか、もっと見ていたいと思ってしまう。
「何が」
「とぼけるな。何だ、檻って、枷って。この頬は何だ。まさか、いつも殴られてるのか」
「私の問題行動が多いからだよ。彼の子を生したくないし、貴族の快楽の為に歌いたくないし、他の唄人のように微笑めない。無愛想で淡々とした、十六になっても未分化の半端者。散々迷惑をかけているようだから」
至近距離でも全く現れない鳥肌に首を傾げる。やはりマシムが嫌いなんだと納得した。
「行こう、カガシ。外に連れて行ってくれるんだろう? 私に世界を見せてくれ。君が生きる世界を見たいんだ。どうしよう、どきどきしている。初めてだ。いいね、このリズム。とても律動的で、心が浮き立つ」
今なら笑える気がする。
「カガシ、外に行こう!」
薄暗い黴の匂いがする部屋で、エリスは興奮に頬を赤くした。
煉瓦作りの道を黙々と進む。これは買出しされた荷物を運ぶ水路に繋がっているらしい。エリスは既に唄人の服ではなかったし、カガシも衛兵姿ではない。カガシがあっという間に倒した荷運びの男と少年から服を剥ぎ取ったのだ。
解れた帽子を深く被り、特徴的な髪の毛を隠す。カガシもさっきまでの正した姿勢はどこにもない。ずっとこの服を着ていたように、乱雑な態度で道を進んだ。
船着場には衛兵二人が立っていた。
「どうも、いつもお世話になってます」
カガシはへこへこ頭を下げて、懐から割り板を取り出した。ぴたりと合わせて衛兵は二人を船に押し込んだ。
「次」
なんとも呆気なく、船は進み始めた。
「わ、わ、動いてる!」
「ばか、はしゃぐな。見飽きてつまらなそうに乗っとけ」
「私、船、初めてだ!」
「俺は全国のボロ船と親友だよ」
細い水路を抜けると幾本も重なった水路が見える。中央には市場が広がり、うわんっと声が膨れ上がった。先ほどまで水音と船の軋みしか聞こえていなかった耳では飽和してしまう。
一つ一つは他人同士の音の重なりなのに、同じ連なりにいるだけで一つとなっていた。これは活気だ。合わさった一つなのに、一つ一つの個々に分かれていく。
「いらっしゃい! うちは安いよ!」
「それ三つ! ああ、まけとくれよ!」
「どけどけどけ! 道をあけろー!」
これが営みだ。毎日を生きる人々の熱気だ。もっと聞きたくて瞳を閉じた。
ことりと肩に乗った重さに、カガシはちらりと視線を向けた。帽子頭が凭れている。帽子頭を乗せたまま、通りすがりの船とさり気ない譲り合いで道を進む。
「重い」
帽子に隠れ、エリスの表情はカガシには見えない。しかし、何か水滴が落ちた。その色を気付いたカガシは、咄嗟に自分の服の裾をエリスの顔へと押し付けた。じわりと赤が滲む。
「殴られたせいか。鼻押さえて横になっとけ。痛むか?」
過去に血を知らなかった相手は、鼻血に何の反応も示さない。
「のぼせただけだ……すごい熱気と覇気だ。命の営みだ。毎日繰り返されるんだな。こんな歌を、私は歌えないなぁ」
ほぅっと熱い息を吐く頭を膝に乗せて、カガシは右手でエリスの鼻を摘む。
「もういいからあんた寝てろ。これしきで鼻血噴いてたら、着く頃にはすっからかんだ。嫌だぜ、俺は。ミイラと一緒に旅するの」
鼻を摘む手に白く細い手が触れた。その手は微かに震えていた。
「眠ると、夢を見そうだ」
髪を帽子に纏め上げた白い首筋には、無残な痕が散る。自分では見えないはずの場所に、震える指が爪を立てていた。血が流れ出しても止めない指をそっと外し、握りこむ。
「子守唄を歌ってやる。これでも金を稼げる程度の芸は出来るんだ。ま、本職相手におこがましいが」
「……私は、誰かに歌ってもらうの、初めてだ。不思議だ、カガシ。心臓が温かくなってきた」
エリスは、幼子のように疑いなく目を閉じた。
カガシはエリスから習った子守唄を口から流す。過去に気まぐれでせがんだこの唄で熟睡してしまった夜がある。
目覚めたとき、身体をびくりと強張らせた。周りの状況を把握しようと眼球がぐりぐりと動く。周囲に意識を向けず眠りに落ちるなんて自殺行為もいい所だ。
それなのに、すぐ横で赤ん坊みたいに眠る顔と、小さな呼吸が唇を撫でたあの時の感情を、今でも忘れられない。
白い無表情の天使に、恩と借りがある。
服を刻んで包帯をくれた。眠りと癒しをくれた。穏やかな空間を、そうと意図しない優しさを。金で買えないもので救われた。
時に石ころより蔑ろにされがちな愚かな優しさで、カガシは救われた。
唄人は壁の中でしか生きられない。何百年もそうやって護られてきた。壁の外で生きる唄人は存在しない。唄人が壁を出るときは、交配相手と子を為し、只人になった時だけである。
異質として一人放り出させるなんて酷だ。全身で拒絶を露にしながら男に組み敷かれる姿を見ても、そう思った。
いま助けることは簡単だ。男を蹴り飛ばせばいい。
問題はその後だ。楽園から堕とさせて、本当に助けたといえるのだろうか。餓えも寒さもない世界から、傷だらけでもがくしかない世界に堕として、恩返しといえるのだろうか。
風のように走る足を知っている。まるで歌に抱かれているようだった。切り裂かれながら歌うエリスの姿は今でも鮮明に残っている。エリスの腕に抱かれて眠った夜のように、危険なほど心地よかった。
歌を聴いたのは初めてだった。あれこそが歌だと、カガシは思う。
壮大な音階に清廉な声。鳥肌が立った。声の主を探さずにはいられなかった。
高い場所で、血塗れで歌う唄人。自分に向かって歌っている。見る見る切り裂かれていく身体を気にも留めず、小柄な白はその身体のどこに納まっていたのか、カガシの内部を揺すった声量で歌い続けていた。
あれこそ歌だ。エリスという名の歌だ。
一瞬で消えて、腹の足しにもならない。そう思っていたカガシが全身を打たれた。飢えた時の食料と交換しても、聞きたい。心底思った。
そのエリスから歌を奪って本当にいいのか。しかし、だからといって、幼い頃から受け付けなかった男に犯されようとしている恩人を見捨てられるのか。
嫌だと泣き叫ぶ声は、男に制止を請い、カガシを責めた。
白い手足がもがく。シーツの上で溺れるように呼吸を失う。美しい声が恐怖で引き攣る。救いを求める相手を持たぬまま、喘ぐように死んでいく。
エリスが死んでいく。
カガシの恩人が、カガシの唄が、砕かれ、散らされ、潰えていく。
カガシの、目の前で。
爪が皮膚を食い破る。躊躇は命取りだと知っているのに。咄嗟の判断で今まで生き延びてきたのに、ひどく悩んで行動を止めてしまった。
泣きじゃくる声が自分を呼んで、自分の制止を自分が裏切るまでは。
「……くそ」
うるさいだけの何でもない日常の喧騒を、命の営みと感動するような生き物を、本当に楽園から出してよかったのだろうか。
「ああ、ちくしょう」
幼い自分はあの場を楽園と定義した。
一切死の危険がない場所。悪意から徹底的に護られた神の庭。万年咲き誇る花に実った果実、無造作に散らばる宝玉、永遠を形にした地上の楽園。
けれど、仮令そこが本物の楽園だろうと、楽園と思えなければ地獄と変わらないと、笑わない天使が言った。
「ちくしょう……」
既に天使の楽園が裏返っていたのだとしたら、自分は贖いきれるのだろうか。
カガシの懺悔は音になることなく、雑音に消えた。