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1.楽園と蛇





 世界はいつだって二分されている。

 勝者と敗者。富豪と貧民。賢者と愚者。快楽と苦痛。楽園と地獄。天使と悪魔。光と闇。生者と死者。

 二分された世界の中で、エリスはきっと恵まれていた。

 エリスは楽園にいる。誰もが望む楽園だ。

 餓えも寒さもない。苦痛もない。涙を流すことも諍いもなく、痛みも苦痛も知らない。絶望も知らない。

 だからエリスは、笑ったことがなかった。




 楽園と呼ばれる土地があった。

 厳重に警護された楽園には誰も立ち入れない。外部からの侵入を完全に防ぎ、世界で一番実りの多い大地は護られていた。妬みも憎悪もない、怒りも悲しみもない。

 災いも禍もない穏やかな土地で育まれていたのは、唄人と呼ばれる生き物だった。

 歌い、謡い、詠い、唄う。彼らの歌には力があった。人を癒し、温め、力を与える。唄人の歌を聞いた人間は、人知を超えた力を発した。傷は癒され、時に死者さえ甦る。

 人々はそれを奇跡と呼んだ。

 唄人の声は特殊だ。明るい歌では高揚を、悲しい歌では嘆きを与えた。戦を治めることも出来れば、歯止めを失わせることも出来る。意図を持って歌えば、人を殺すことも狂わせることも可能だ。

 唄人は神の奇跡だった。成人するまで性別もない。真白い髪に肌、淡色の瞳。

 人々はそれを神の子と呼んだ。




 風がエリスの長い髪を揺らした。

 歌いたくなって口を開くのに音は何も出てこない。

 ここには何でもあって、何もいなかった。音は風が揺らす葉の音だけだ。一年中花が咲き誇り、澄んだ水が流れ、植物は朽ちを知らず、実りは休日を忘れた場所。

 ここは楽園の端だった。巨大な塀に囲まれた楽園の中で、恐らく一番囲いの薄い場所だ。

 エリスは冷たい鉄の壁に頬を当てる。

 侵入者を防ぐために外へと剃った壁は外の音を伝えない。繋がっているはずの空も遠く、遥か高くにそびえた壁のせいで生き物は入ってこない。


 不意に嗅いだことのない匂いがして、エリスは顔を上げる。雨に晒されて朽ちた鉄壁のような臭いだ。


「動くな」


 冷たく薄い何かがエリスの首筋に当たっていた。


「なに?」

「動くな!」


 エリスは下げたままの両手を所在なげに身体の横へつけた。


「いいか、声を上げないで、そのまま壁に背をつけろ。おかしな真似をすれば殺す」


 首を傾げたまま言うとおりにした。

 殺すとは何だろう。

 言葉を発した相手は、探すまでもなくすぐ側にいた。

 そこにいたのは、赤い色をした、とても美しい子どもだった。

 エリスを含め、唄人はみな彫像のように美しかったが、目の前の子どもは違う。命そのものみたいだ。

 エリスはそうと気付かず見惚れた。

 夜色の髪から赤い色が滴り落ちている。よく見ると、身体中が赤い色を落としていた。もはや服の意味を成さなくなった破れ果てた服は、すっかりその色に染まっている。

肌は色を失って青ざめていた。年はエリスと同じほどだろうが、動きもどこかおかしい小さな小さな身体の中で、星色の瞳だけがぎらりと光り、子ども持つ薄く鈍色を放つ物と同じ色をしている。

 掴まれていた腕がゆっくりと離されると、そこにも赤い液体が付着していた。


「それはなに?」


 子どもは質問の意図が分からないのか、目を細めた。


「その、赤い、水」


 瞳が、ぎらりと光った。子どもの右手が上がる。呑気に見送ったエリスは、次の瞬間灼熱を受けて吹き飛んだ。

 熱いなんて、初めて知った感覚が頬を覆い、相手と同じ赤い水が鼻から流れた。


「血だよ。見るのは初めてか? 天使さま」


 おかしな感触が頬からしているが、これが痛いということなのだろうか。

 子どもは見たこともない瞳でエリスを見た。きっと、睨まれるとはこういうことをいうのだ。

 しかし、エリスを睨んでいるはずの子どもは口角を吊り上げた。その様は、まるで笑っているようだ。


「傷ついて流すもんだからな。あんた達には縁のないものだ。よかったな、経験できて」


 そのときは理解できなかった蔑みの視線を受けて、エリスは素直に頷いた。


「本当だ。ありがとう。これで痛みを理解したから、歌が生きる。ねえ、君はもしかして外の人?」

「は?」

「ねえ、君はもしかして、男の子とか女の子とか、そういうものなの?」

「……はい?」





 子どもは少年だそうだ。

 名前を教えてと言えば、好きに呼べと言われたので、エリスは少し考えた。

 少年は赤をたくさん纏っていたけれど、ここはいつだって白を纏ったように光が注いでいる。白を混ぜて桃色と呼んだら怒られた。

 結局少年は、自らをカガシと名乗った。

 カガシは、エリスに傷の手当を要求した。手に持っていた物はナイフというらしいが、どう危険かいまいち分からなかったら呆れられてしまった。

 傷ついた人間を見るのが初めてで、手当ての仕方も検討がつかない。清潔な布をよこせといわれ、エリスの服が一番清潔だったので端から裂いて使った。

 流れる小川で彼の傷口を綺麗に洗う。


「じゃあ、からいってつらいんだ?」

「好きな奴にとったらつらくない。嬉しいんじゃないか?」

「……よく、分からない」


 足先まであった服は太股まで短くなり、袖もなくなった。ぼろぼろの指が布を器用に細く裂いて、きちりと肌に添って巻きつけていく様を呆けて見つめる。

 視線が鬱陶しいと指で額を弾かれた。指と肌がぶつかり、ばちんと音が響く。


「あ、初めて聞いた音」


 また、呆れられた。

 呆れたり、怒ったり、蔑んだり、笑ったり、カガシの表情はくるくる変わる。少なくともエリスにはそう見えた。

 穏やかに微笑む人々しか知らないエリスには、初めて見る感情ばかりだ。音もそうだ。

 舌打ち。身体を弾いた時に皮膚が奏でる音。こんなもの聞いたことがない。

 素直に思ったことを口にするたびに、カガシは呆れる。今度は頬を摘まれた。


「そういうあんたは無表情だ……はは、間抜け面!」


 楽しげにけらけらと笑うカガシを、エリスは静かに見つめる。


「笑う理由がないから。いいなぁ、君は。必死に生きているから笑えるんだな、きっと」


 また、殴られた。

 胸倉を掴まれて壁に叩きつけられて、息が詰まる。

 視界いっぱいに広がるのは、星のような瞳がぎらぎらと炎のように揺れる色だけだ。


「いいなぁ、天使さまは。餓えも痛みを知らないで、尊厳を失っても生にしがみついたり、寒さに凍えたり、明日がこないかもしれない今日への怯えも知らない! 絶望したこともない奴が、軽々しく生を口にするな!」


 寒さを乗り越え、失った尊厳を掻き集め、明日へ繋げる強さを持った小さな少年。

 エリスには、それが眩しくて堪らない。


「そうだ。私は明日への恐怖を知らない。だってここに明日はない」

「失う恐怖がないから言える台詞だな。絶対も永遠もこの世にはないんだぜ」

「違う。ここは今日の繰り返しだからだ。昨日も明日も、今日と同じことを繰り返すだけだ。そうだ、私は絶望を知らない。希望がないからだ。希望がないから絶望もない」


 だからエリスは歌えない。

 ふと歌が昇ろうとするが、音になろうとした所で止まってしまう。渦のように体内を蝕んだだけで形に出来ない。


「私は歌えないし、笑えない。唄人はここで神官による神の祝福を得て、美しいまま歌い続ける。なのに私は歌えない。音が出るだけで歌にならない。みんな私の歌を褒めた。褒めて讃えた。なのに私は、それが歌だと思えない。唄人の吐く言葉は、ほとんどが歌から覚えたものだ。けれど、誰もその意味を分からない。その言葉を感じたことなどない」


 悲しい恋の歌。明日への希望の歌。雄雄しく戦う歌。楽しい祭りの歌。

 恋しいあなたへ贈る歌。

 歌うたびに賞賛が起こる。人々は涙を零して歌を乞う。エリスはいつも不思議だった。どれも知らない自分達が、どうして歌えようか。

 唄人には感情がない。ただ音を紡ぐだけだ。そんな自分を疑問に思うこともなく、ただただ望まれるがまま音を繋ぐ。


「君は美しい。生への渇望に溢れ、自ら選び生きた力強さ、喪失を知るからこそ輝く明日を知っている。君は自分を誇るべきだ。それほどに美しい魂を持っているのだから」


 ぱちり。

 少年は銀星の瞳を大きく瞬かせた。星が降るようだ。

 壁に囲まれた唄人の世界で、唯一何物にも制限されない星空を写したような瞳が、届きそうな場所で瞬く。

 美しい。

 素直にそう思う。生の光は美しいのだ。

 エリスは初めて知った。生は怠惰な延長ではない。もっと尊い何かだ。彼に会って初めてそう思った。

 カガシは何かを言おうと口を開き、結局渋い顔で飲み込んだ。


「寝る。あんたもここにいろ。そんな格好で戻ったら俺の侵入がばれる。ここって、すぐに探せる場所?」

「私しか知らない。壁に近づく人は誰もいないもの」

「すぐに戻らなきゃ、あんた探される?」

「ここには害為すものは何もないし、作物が実っている。何日かいなくなっても、誰も探さない。だってどこにも行けないのだから」


 外敵から身を護るためと高く厚くそびえる壁は、唄人を閉じ込めるためにあるのではないかと、エリスはいつも思う。

 いつだって新芽の柔らかな草の上にごろりと横になって、カガシは無造作に光る石を手に取った。咲き乱れる花、風になびく草木。間に輝くのは宝石だった。


「……俺には楽園にしか思えないな。何にも害されず眠れる場所なんて」


 包帯だらけの指が宝石を襤褸切れに突っ込み、エリスを掴んだ。


「ねえ、子守唄うたって」

「私は歌えないよ」

「鼻歌でいいから。俺も、歌なんて腹の膨れないもの、まともに聞いたことないからちょうどいいって」


 あっという間に小さく丸まったカガシに、エリスは生まれて初めて困り果てた。

 早くとつつかれて、眉根を下げて囁くように声をだす。

 誰もが寝静まった闇の中、月明かりを頼りに歩く静けさを。風が草花を揺らす僅かな音を。静寂に溶け込む旋律を逃さぬようしがみつく。

 一度手放すともう歌えない。

 エリスが必死に紡いだ音は、不安定で不安になる旋律でしか歌えない。今にも消えてしまいそうな蝋燭のように、今にも落ちてしまいそうな木の実のように、僅かに保たれた均衡で成り立つ不安定な存在。

 けれどカガシは、いつもの事だといわんばかりに眠りに落ちていた。


 小さな風の音で目蓋がぴくりと動く。エリスが僅かに身じろぎしようものなら、銀星が薄く現れる。ぼろぼろになった傷だらけの小さな身体は、大人しく休息を得られない。

 ここに暮らす者が、毎日有難味もない当然の行為としているそれを、小さな少年は得られない。彼自身も、享受しない。生に食らいついてきた彼の命が、緩みを許せないのだ。

 眠っていいよ。

 エリスは思う。ここには彼を害すものはいない。少なくとも今だけは、寒さも危険もない。ぎゅっと身体を硬く抱き込んで眠らなくても大丈夫なのだ。

 眉間の皺を取りたくて声はそっと流れ、硬く握り締めた指を解きたくて穏やかになる。

 眠っていいよ。

 傷だらけの少年に、今だけは安息の時であってほしい。

 願いは自然と歌に乗る。歌は願いとなった。胸の奥から流れる旋律は音を歌にする。

 カガシはすぅと穏やかな寝息を立てた。拳と口をわずかに開き、甘えるようにエリスの身体に擦り寄った。その頭を抱え、エリスも横になる。

 柔らかな草は肌を傷つけたりしない。殴られた頬が熱を持ってじくじくと痛む。痛みを得て初めて、普段が痛くないのだと知った。

 抱えた頭は血と泥と、この世の醜悪が集まったような匂いがした。彼が足掻いた生の匂いだ。

 目が覚めたら彼の頭に花を飾ろう。小川で洗って、咲き誇る花を散らせて、風に靡かせよう。

 そしたら、彼は、もっと笑ってくれるだろうか。


 







 二日目、カガシは酷い熱を出した。

 楽園に病人はいない。怪我もしないから治療道具も無い。神に愛された唄人は、そんなものに脅かされはしないのだ。

 エリスは寒さに震える身体を抱きしめ、余った布で何度も額を拭った。豊富に実る果物を布で搾り、薄く開いた口元に一滴一滴流しいれて何とか食事を取らせながら、治癒の歌を静かに流す。

 歌えているかは分からない。けれど、腕の中で震える意識ない身体が、どうか動けるようになってほしい。銀色の星を開いてほしい。

 たくさん話を聞きたかった。彼の口から、世界を聞きたかった。けれど何より、苦しまないでほしかった。

 震えないで。脅えないで。死んでしまわないで。

 願いを祈りに、祈りを歌に、エリスは歌い続けた。

 べたつき、血が乾いた部分はぱりぱりと音を立てる髪を撫でる。ぴくりと動くカガシに大丈夫だよと声をかけた。

 大丈夫。大丈夫。

 何が? 

 分からない。

 この身が存在した所で、何も出来やしないのに。

 けれど、エリスはそう言いたかったのだ。



 五日目、ようやく熱が下がったカガシが最初にしたことは、自分の頭を抱きしめて眠るエリスの額を叩くことだった。

 ぶたれた額を擦りながら、真っ赤に染まったカガシの耳を怪我かと問うたエリスは、更に殴られた。



 六日目、エリスはカガシを説き伏せて神殿に戻った。

 与えられた自室は使わない者も多い。眠りたい場所で眠りたいときに眠り、食べたいときに食べる。

 こっそり、誰にも見つからないように出入りするのは簡単だった。

 だって、誰もそんなことしない。する必要がない。唄人が、神官に咎められるような行動をしないからではない。

 それもないとは言わない。唄人は願いなど持たない。

 しかし、何より。

 咎められるような行動をできるものが、一つもないのだ。


 役に立たなくなった服はベッドの下に隠して、適当に引っ張り出した一着に、何着かをまとめて包む。

 楽園を出るときは身支度全て仕え人が行うため、唄人は衣装や飾りを持てど、鞄を持っていないのだ。衣装や飾りも、勝手に揃えられるだけで、そこに唄人の意思はない。唄人は望みを持たない。

 厨房にも入り込み、出来上がったバスケットを盗んできた。唄人の誰かの昼食だ。しかし、料理人が肩を竦めて隅に寄せていたから、気が変わって取りに来なかったのかもしれない。

 ごめんなさいと呟いて、エリスは荷を抱え、走って神殿を後にした。


 誰にも見つからず、こっそりと戻ったら、誰もいなかった。

 慌てて叫ぶ。もしや、いなくなってしまったのだろうか。

 呆然と立ち尽くしたエリスの背後で音がした。急いで振り向けば、木が動き、小柄な身体が飛び下りた。


「ここだよ。なんだ、あんたほんとに一人で戻ってきたの。ばかじゃないの」

「これくらい、一人で持てるよ」

「……そゆこと言ったんじゃないんだけどなぁ」


 妙に舌っ足らずに答えたカガシは、握っていたナイフをしまって頭を掻いた。そして、すぐに表情をぱっと変え、エリスの肩ごしに手元を覗き込む。


「なに持ってきたの?」

「君の替えの服と、誰のか分からないけど昼食」

「生地が薄い。すぐ破けそう。女みたいにぴらぴら。なに、あんた女なの? めしはうまそう。見たことない食い物ばっかだけど」


 つらつらと話すわりには、目は昼食に釘付けだ。全部食べていいよと渡せば、遠慮なく全部食べられた。別にいいやと、鳴るお腹を放置して膝を抱える。

 すごい勢いでなくなっていく食べ物は見ていて心地いい。

 エリスは横に生っていた果物を摘まんだ。壁の外には、旬の食べ物という存在があるらしい。ここではいつでも熟れた果実が実っているから、よく分からなかった。

 厨房で調理された料理を食べずとも、この果実一つあれば事足りる。そういう果物だという。だから、貴族や王族がこぞって買っていくのだ。


「私はどっちでもない。唄人は交配相手が決まるまで性別はないから」

「交配って……」

「神官が決めた相手と番い、子を生す。相手が男なら女に、女なら男に分化する。私は男になる予定」

「相手可愛い? いいねぇ、生存競争に参加しなくていいやつは」

「相手は男で、交配したくないから私も男になるんだ」


 日持ちのしない食材を贅沢に使用した食事を腹に詰め込んでいたカガシは、ようやくエリスを見た。

 きょとんとした様子が可愛いくて、少し楽しい。

 けれど話題は憂鬱だ。エリスは暗鬱とした気分で抱えた頭に膝をつけ、つまらなそうに銀色の瞳を見返す。


「何だか、視線がねっとりしてて、見られると身体を隠したくなる。触られると払いのけたいし、肌がぶつぶつになるんだ。唄人は快不快を感じないと言うけれど、これが不快だと私は思う」

「鳥肌立つほど嫌なのか。そりゃあ重症だ。ナイフ突きつけられても平然としてたあんたの本能が危機感募らせる相手だ。よっぽどの変態だ!」

「笑い事じゃない。吐きそうになるんだ」

「そりゃあおおごとだ。いいか? もし無理やり迫られたら急所を思いっきり蹴ってやれ。殴っても握っても潰してもいい。急所攻撃したらどんな男も動きを止めるから、その間に逃げろ。ああ、いきなりやるなよ。一回避けられたら後がやりにくいから。無理そうなら受け入れた振りして誘い込んどいて、油断したとこぐしゃりだ!」


 口から海老の尻尾を飛び出させて握られた拳に、素直に頷く。


「勉強になる。ところで、心臓をどうやって握ればいい?」

「………………俺が説明すんの?」


 こくりと頷くと、海老の尻尾をばりばり噛み砕いたカガシは、うーんと唸る。

 カガシで実践しないことを確約して、ようやく説明を受けることが出来た。




 昼食の後は、近くを流れる川で揃って水浴びをして、最終的には遊びになっていた。

 エリスは初めて遊ぶという行為を行った。唄人としても、史上初だと思われる。


 互いに服を脱ぎ、澄んだ水を互いに掛け合う。カガシは器用で、前が見えないほどの水を弾きあげたと思ったら、ロープのように細い水を勢いよく飛ばしてくることもある。

 エリスはもっぱら、カガシの水を全身で受ける役回りであった。

 カガシの身体は傷だらけだったが、血の量と傷は比例しなかった。返り血だとにやりと笑った彼はすごく綺麗だったから、凄いねと言ったら呆れられて、話は終わりとばかりに水をかけられた。

 けらけらと笑うカガシは、弾いた水で美しく輝く。それが眩しくて堪らない。


「なあ、あんたのそれなに?」


 カガシは、エリスの白く平らな胸元を指差した。性を持たない身体に、埋め込むように存在しているのは、真珠色した楕円形の石だった。

 表面はつるりと滑らかで、肌より少し温度が低い。


「唄人の証。石があるから歌に力がある。石を失った者は唄人ではなくなり、歌えなくなると言われている」

「へえ、綺麗だな」

「分化したら色は染まるよ」

「何色になるんだ?」

「さあ、人それぞれだ。髪も瞳も同じ色に染まる」


 長くきらめく髪に白い肌。薄く破れやすい衣装を靡かせて唄人達は楚々として微笑む。


「親の色じゃないのか?」

「唄人は色も性も持たず生まれてくる。親子、兄弟という概念もない。唄人は唄人しか生まない。唄人にあるのは、元唄人、成体の唄人、幼体の唄人。それだけだ」


 エリスの服を、エリスが見たことないほど着崩して、カガシは寝転がった。ただそれだけなのに、誰よりも美しく服を着ているように見えた。


「幼体はここに実った果実で育てられる。分化後成体となれば交配相手を宛がわれ、子を成し、元唄人となる。そして数年後死亡する」

「……なんで?」

「分からない。ただ眠るように死んでいく。唄を失くしたからだという説もあるそうだけれど、子を成さなければ唄人の数は減る。だから交配相手は必ず宛がわれる。だから唄人は子を産み、元唄人となり、死ぬ。誰も疑問になど思わない。少なくとも、唄人は誰も」


 長い間、延々と繰り返されてきた今日だ。唄人は親兄弟を持たず、友を持たず、望みを持たない。

 じっとエリスを見ていたらカガシは、やがて、深く、肺が空になるほどの息を吐いた。


「俺からしたら夢見た以上の楽園なのに、あんたはほんとに笑わないんだな」


 伸びた手に、今度は殴られなかった。温かな温度がエリスの頬を撫でる。温度は頬から首筋を通り、首の後ろへ回っていく。


「君といるのは楽しかったと、思う。初めてだから判断できない」

「ああ、ああ、分かったから。無理に考えんな。そういうのは素直に感じればいいんだ」


 引かれるままにカガシの上に倒れこむ。草と水と陽光と土の匂いがする。そして、エリスと同じ匂いがした。


「行くんだね」


 もっと話を聞きたい。遊びたい。一緒に眠るのは心地よかった。

 けれどエリスは分かっていた。

 彼は外部者だ。だからこそ楽しかったのだ。

 彼はここに留まるべきではない。留まってしまえば、それはエリスが惹かれた彼ではなくなってしまう。

 停滞した世界で淀み、瞳は光を失うだろう。彼は、善悪が混在する外部で生を掴んでこそ輝く生き物だ。


「ああ。あんたのおかげで大分身体も動く。毎日子守唄でぐっすり眠って、どうしてくれるんだ。明日から寝不足だ」


 はっとした。安息を得てほしいと思ってのことだったが、彼は明日から過酷な生に戻るのだ。一時の安息は危険な癖をつけてしまっただけだったのだろうか。


「ごめん」


 ぺちりと額を弾かれる。今までで一番痛くなかった。


「ばか、冗談だよ。助かった。あんたのおかげだ。初めてだ、あんなに眠ったの。あんたの布団も気持ちよかった。いいのかよ、すっかり持ってきちまって」

「うん。いいんだ。もしあの人と交配しなくてはならなくなった時、この時間を思い出せば耐えられる気がするから。その為に、少しでも今を刻み付けておきたいんだ」


 今はきっと、エリスの人生の中、最初で最後、そして最大の特別だ。

 異常で、特殊で、特別。

 昨日今日明日、はっきり分かれた日々だった。


「キスは好きな奴とするもんだぜ、って、言ってらんないのは内も外も同じか」

「好きなら君が好き」

「そんな軽い気持ち、好きと認めないぜ、俺は」

「軽くない」


 素直に答える。もう見られなくなる銀色の瞳だけを見つめて。


「君は私の人生で唯一色を持った人だ。この先も君を思う。決して忘れない。二度と会えなくても、たった数日でも、私の七年間を覆すほど君との比重は大きい」


 カガシがいなくなるのはつらい。姿を見られないのは寂しい。声が聞けないのは悲しい。


「私はこの数日間を、生と呼ぼうと思うんだ」


 はたり、と、熱いものが掌に落ちた。

 首を傾げて空を見上げる。はたはた軽い音を立てて雫がたくさん落ちてくるのに、どうも雨ではないらしい。


「不思議だ。雲もないのに雨が降る」


 心底不思議がるエリスに、カガシは盛大にため息をついた。口元を大きく下げた苦笑だ。

 それが苦笑であると、エリスはカガシと出会えて初めて知った。

 引き寄せられて、額と額をつける。吐息が重なるほど近い。


「俺は蛇だろうか。天使さまに楽園では知り得ない感情を植え付けた。知恵をつけ、そうして孤独を知らしめた。ああ、まさしく蛇だ」

「私は天使なんかじゃない」

「楽園にいるのにアダムにもイヴにもなっちゃあいない。だったら天使だろうさ。誰かを愛したら、それは最早神の使いじゃない。神以外を好きになったら楽園から堕とされるぜ、気をつけな。唄人はここ以外で歌えない。歌えなければ生きられない。いいか、堕ちるなよ。俺はどこにいたって楽園にいるあんたを忘れない。背中合わせで生きるのも悪くないさ…………だから、あんまり泣くな」


 これは涙だ。

 涙は熱い、喉の奥から固くて熱い塊が上がってくる。胸が焼ける。息が出来ない。熱くてしょっぱい。

 つらい、痛い、悲しい、苦しい。

 エリスは初めて知った。


「天使様に蛇から出来る貢物はなんだろうな。――なあ、エリス、悲しいか?」

「おそらく、とても」


 カガシは、ひどく美しい顔で、笑った。


「なら俺は、あんたに絶望をあげよう」


 固い掌と同一人物に思えないほど、重なり合った唇は柔らかかった。

 長い睫がゆっくりと揺れる。その様さえ美しい人をじっと見つめていると、重なり合ったままの唇が笑い声を漏らす。


「キスのときは目を閉じるもんだ。覚えとけ、この世で一番愚かな天使さま」


 からかう響きのくせに、カガシの表情は、春の日差しのように優しかった。






 カガシは振り向きもせずに去っていった。

 どこから入ってきたのか知らないほうがいいと言った。

 エリスもそう思う。知った所で、ここからは出られない。ならば知らないほうがいい。出口を知って囲われるより、あるかもしれないと思って生きるほうがいい。

 追ってはならない。

 どれだけ恋しくとも、ここに立ち尽くしていることに意味がある。追い縋りたい気持ちと身体を、エリスは自分が持ち得る全てを篭めて留めた。

 しかし突然、甲高い鐘の音が鳴り響いた。弾かれたように顔を上げる。

 壁の周辺は厳しい警備網が敷かれている。誰にも見つからず逃げ込めた最初が奇跡だったのだ。

 駆け出したエリスは、高い木を登り始めた。長い髪が引っかかって邪魔だ。裾も破ける。枝が弾けて頬を掠ったが、彼にぶたれたほうがよほど痛かった。

 

 壁沿いの一番高い木を登った先に、一部壁が壊れた場所があると、エリスは知っていた。

 巨大な壁の中にできたひび割れは、丸みを帯びた菱形のような空間を作り出している。外からよじ登れる場所ではないので、カガシが侵入したのはここではないはずだ。

 入るにも飛び降りるにも高すぎるそこからは、外の世界が一望できた。

 連なる町並みの一つ一つに人がいる。彼のように必死に生きる人がいる。

 全てと出会うことは出来ない。彼と出会えたことが既に奇跡だ。

 エリスには、その奇跡一つで充分だった。

 下は鬱蒼とした木々だ。誰の姿も見つけられない。息を吸い込む。


「あ」


 声が小さい。これでは彼に届かない。

 唄人は外に向けて歌ってはならない。要請された歌しか許されない。

 死に逝く子どもへの鎮魂歌を望まれる横で、一部の特権階級の願いを叶え、陽気な酒の席を演出する。病への治癒を願われながら、戦場で人を殺す。

 鎮魂歌が指示された歌ではないと知れば、にこにこ笑いながら歌を変更し、陽気に歌う。そんな己に疑問すら持たない。何も感じない。子どもが苦しんで死のうが、何も思わない。

 それが唄人だ。

 唄人は感情を持たない。望みを持たない。

 唄人は、叫ばない。

 エリスは、音階も技術も気にせず、腹の底から音を吐き出した。


 みんな私を見ろ。

 森を走る彼を目にするな。全て私を向けばいい。

 腹の底から澄んだ声で何かを吐き出すように叫ぶ。音の後は歌を。


 歌を。


 内容は定めない。ただ、彼を思って。

 歌を。


 聞こえるか。カガシ。

 これが私の歌だ。君の為だけに唄う歌だ。

 君のように美しくはなれない。生きるあざとさも知らない。

 けれど歌を。


 エリスが持つものはこれしかない。この身一つと彼は言ったけれど、エリスだってこれしかないのだ。

 走れ走れ走れ。

 君の足は風より速い。追っ手の足は泥まみれ。君の足は獣を追い抜く。

 生きろ。生きて、壁の外で。


 君は私を楽園の象徴と言ったが、君は自由の象徴だ。

 泡を食った神官達が止めに来たが、誰もここまで登れない。後ろから唄人が静かに歩いてくる。

 彼ら彼女らが口を開く。音が凶器となって飛んできた。脳を揺さぶられ、平衡感覚が失われる。激しい頭痛と眩暈を受けて、エリスは腹に力を入れた。

 歌を。彼に音が届くうちは、歌を。苛烈で激しい、彼の幸福な明日を祈って。

 歌を。聞いてくれ。カガシ。これが私の歌だ。君に捧げる私の魂だ。

 エリスは罰を受けるだろう。

 構わない。歌に殺されてもいい。君に届くのなら、どんな苦痛も厭わない。

 振り向かなくていい。忘れていい。

 けれど、聞いてくれ。これが私だ。


 凶器の声で皮膚が裂ける。髪が引きちぎれる。

 血だよ、カガシ。君と同じ色をしたものが、私にも流れていた。

 カガシ。カガシ。カガシ。

 歌を。どんなものにも負けない、生ある歌を。

 技術ではない、音階も関係ない。歌は祈りだ。祈りは願いだ。命そのものだ。


『あんたには分からないよ』


 話のたびにそうやって打ち切ったカガシ。

 分からないよ。知りたくてもすべがない。

 でも、今は少し分かる気がするのだ。何も厭わず、歌うことに全てを懸ける。

 これこそが、私の生だ。

 カガシ、歌を。

 君に、歌を捧げよう。

 私が持つ全ての歌を、君に、世界中で君だけに。

 たった一人の君に、私を捧げよう。





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