恥ずかしい話
これは僕が電車に乗っていたときの話だ。その日、僕はとある用事を済ませ、疲れ果てながら電車に乗り帰宅しようとしていた。車内はそこそこ混んでいて、すでに満席状態。とても座れる状況ではなかったので、仕方なく座っている人の真正面に立った。五十代くらいだろうか。落ち着いた服装に眼鏡をかけた、とても温和そうなおばさんだった。僕は、その人が早く降りるよう神に願いながら突っ立っていた。そこそこ遠方まで出かけたので、この電車には六十分近く乗り続けることになる。その間、ずっと立ち続けるのはさすがに辛いからね。
十分、ニ十分……。待てど暮らせど、その人はなかなか降りてくれなかった。その周りの席の人たちは割と降りていたが、自分と同じく彼らの真正面で立っている人たちが座っていく。自分より後に電車に乗り込んだくせに、自分よりも早く席にありつけた人を見たときは心底腹が立った。
こう言うと、器が小さすぎると馬鹿にしてくる人もいるかもしれない。けれども、僕は本当に疲れていたし、何十分も立ち続けたせいで足のしびれが辛くて仕方がなかった。僕が普段よりもイライラしてしまうのは仕方のないことじゃないか。
とにかく、僕は滅茶苦茶座りたかった。駅に着く度、周囲を見渡して席が空くかチェックするくらいに座りたかった。
三十分経過。もうすでに半分近く立ち続けていたことに気付き、どうしようもない怒りが込み上げてくる。ただ、希望はあった。少しだけ混雑が緩和されて立っている人も少なくなったのだ。それを好機と見た僕は二人分の席に狙いを定めた。彼らの間の真ん中に立ち、どちらか一方が席を離れたらすぐに座れるような位置を取った。これなら絶対に座れると確信していたんだ。
まあ、それでも座れなかったせいで、さらにストレスが溜まるハメになったわけだけど。
四十分経過。イライラが最高潮にまで達し、僕はいよいよ前にいるおばさんに殺意まで向け始めていた。――そのときだった。
そのおばさんがスッと立ち、遂に席から離れたのだ! やった! やっと座れる! 僕は歓喜に沸いた気持ちを隠しながら、誰にも奪われないようにすぐに席に座った。
その瞬間、僕の中で渦巻いていた怒りや殺意は消え、足のしびれもスッと治った。欲を言えばもう少し早く降りてほしかったけど、まあ座れないよりはマシだからいいか~。僕はそんなふうに思いながら、携帯をいじろうとした。
違和感に気付いたのはそのときだった。僕の視界にあのおばさんが入ったんだ。電車はすでに発車しているのに、おばさんは電車から降りていなかったんだよ。入口付近の席に寄りかかって、スマホを弄っていたのさ。
普通はあり得ないよね? 席から立つ=電車から降りるだろ? なんたってあのおばさんは立っているんだ?……その答えは、すぐに分かった。
「席、どうぞ」
「いや、大丈夫だよ」
「はい、次で降りますから」
「ありがとう。ごめんねぇ」
僕の隣の席の人が立ち上がり、近くにいた八十代くらいのおばあさんに席を譲った。おばあさんは最初は断っていたけど、最終的には感謝しながら僕の隣に腰を下ろした。そのとき、ようやく僕は合点がいった。
あのおばさんが目的の駅でもないのに席を立った理由は、おばあさんに席を譲るためだったんだ。おそらく面と向かって言うのは恥ずかしかったんだろう。だから、何も言わずに席を立った。歳を重ねていて、立っているのもやっとのおばあさんに譲るために。
それに気づいた瞬間、僕は恥ずかしくて仕方がなかった。思わず周りの人の視線がこっちに向いていないか確認してしまった。
これがまだ単なるおばあさんなら恥ずかしいとは思わなかったかもしれない。でも、最悪なことに、そのおばあさんは杖を使っていたんだ。見れば、一発で身体が悪いと誰もが分かる。これじゃあまるで僕がおばあさんから席を取った悪者みたいじゃないか。
違う。僕はそんなつもりでやったわけじゃない。気付かなかっただけなんだ。気付いてさえいれば、僕だって我慢しておばあさんに座らせていたさ。
僕は声を大にして主張したかった。けれども、そんなことは当然できない。もどかしい気持ちで頭がいっぱいになりながらも、これ以上何もできず座り続けた。
あ~、マジでやらかしたわ……。
今回の教訓:周りはよく見た方がいい。”無言の親切”は相手に伝わらない可能性があるので、ちゃんと面と向かってやろう!……お願いしますマジで。