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9 先走ってすっころんで立ち上がる

カイジュールはやはり次の日からなんとなく誠一を避けるようになった。ルールはきちんと守っている。挨拶はするし、声を掛けられれば顔を見せる。しかし、夕食が済んだあと、誠一と一緒にリビングにいることはなくなった。


寂しい、と誠一はふてくされる。

砥草さんとは普通に接しているという。誠一だけがカイジュールに構って貰えない。寂しい。


まあ、仕方がないのかな、とも思う。

カイジュールも混乱しているのだろう。いままで、刷り込まれた御恩に縛られて、御恩だからと考えることを止められて、ただ指示に従うだけを求められていた。


聖女を連れ帰ることがカイジュールがただ一つ、御恩に報いる方法だと。


召還の時に死んだほかの忌子達とは違い、カイジュールは考えることを課せられた。何も考えずに動力となって命を散らした、刷り込まれた御恩に報いることができた他の忌子たちはしあわせだったのかも知れないな、とぼんやりと思った。


一人じゃないと描けないと思っていた魔法陣も、カイジュールがリビングにいないのになんだか集中できなくて用紙に向ったまま一つの線も描けないでいる。今日、手を付けようと思っていた魔法陣は「学業成就」。資格試験に合格したいらしい。誠一の胡散臭い魔法陣に頼るより、必死に勉強したほうがご利益があるだろうに、とぼんやり考える。


魔法陣を作成する集中力もなく、誠一はカイジュールが来てから控えていたビールを冷蔵庫から取り出した。しかし、ビールのプルタブを開けることなく手に持ったまま、ソファに座り込む。


菅原からメールが来ていた。

就籍については家庭裁判所の許可を得るため、カイジュールからの聞き取りや調査を行わなければいけないこと。そのため、三か月はかかることを覚悟しておけ、ということ。

家庭裁判所の許可が下りれば就籍の手続きは簡単らしい。


それと誠一は婚姻していないため、未成年を養子にする事は難しい、というかできないと考えたほうがいいということ。

誠一がカイジュールをこのまま養育するなら、未成年後見人となる方が現実的。但し、その場合には家庭裁判所へカイジュール本人が申し立てを行う必要がある、とのことだった。


別に養子という形にこだわるつもりはなく、カイジュールに穏やかな、安心して暮らせる生活を与えられればいいので、後見人でもなんでもいい。どちらにせよ、カイジュール本人の同意が必要になるので、カイジュールがこちらの世界で生きる覚悟をしなくては物事は何も進まない。


調べてもらったことに対する感謝の言葉を添えて、今は動くのに差しさわりがある。急ぎではないから、気にだけ留めておいてくれ、とだけ返信する。


すぐにリターンが帰ってくる。

こっち(東京)に出てくる予定があるなら、一度飲もう、詳しい事情も聞きたいから、というものだった。カイジュールが側にいては話しづらいこともあるだろう、という菅原の配慮だということがすぐに分かったが、カイジュールをひとり家に置いて泊りで出かけるのは誠一が嫌なので、調整する、と言葉を濁した。


これからのために動くにもすべてが宙ぶらりんだった。カイジュールがこちらに残る判断をする可能性は全く分からない。神殿長への御恩に報いなくてはいけないという洗脳は解けていないだろう。その状態でこちらに籍を作ってしまえば、カイジュールが元の世界に帰ってしまったあと穴が開く。


カイジュールに確認も取らずに、菅原に相談したのは誠一も覚悟を決めるためだった。


誠一は今まで、剣崎という名から逃げ回っていた。

逃げ回るのをやめるために、剣崎という家の名を捨ててしまおうと決心したのだ。

カイジュールを自分の庇護下においたら、どうしたって雑音が湧く。それなら、被害が小さくなるようにあらかじめ剣崎との縁を切ってしまおうと考えたのだ。


誠一はKENZAKIの創業家であり、現在の社長の次男だった。KENZAKIは、世界を股に掛ける国内屈指の商社だ。


さまざまな思惑にさらされてきた。

兄、弟とも仲が良かったのに、気が付けば、二人に比べられ、二人と競い、二人に負けた。


秀才の兄は努力の天才だった。周りの思う「優秀」という評価より、一歩前をいつも歩いていた。なんでもない顔をして、周りを圧倒するほどの結果を出す。

しかし、いつも一緒にいた誠一は知っている。皆が見ていないところで、兄が血が滲むような努力をしていたことを。

その努力はカリスマ性となって、兄をさらに高くした。

次代、KENZAKIを導くものとして、兄はその階段を着実に上っていく。


弟はそんな兄に憧れて、兄の背を追って、兄に近づいた。天性の人たらしの弟はどんな垣根も超えて人々を心酔させる。次代のKENZAKIの右翼を担う者として、くちうるさい重鎮や外野を黙らせ、兄を支える。


誠一はそんな二人に敵わなかった。努力もした。しかし、誠一を評価する言葉は、「平凡な次男」それだけ。兄に追いつこうとしても、弟に抜かされぬよう努力しても、KENZAKIの左翼にはなり得ない。そのうち、ふたりに対する劣等感に塗りつぶされた。

両親も祖父母も誠一たちを比べることはしない。誠一がひねくれず、劣等感に塗りつぶされても兄や弟に害を為さなかったのはそのおかげだ。


でも、長じるにつれてその状態が辛くなった。兄と同じ高校には進んだが、兄と同じ大学には進学しなかった。それは、誠一が志すものが兄とは違うからに他ならない。しかし、有象無象の中傷が誠一を攻め立てた。やはり、次男は出来損ないだと。

幼い頃から、無意味な批判に晒されて、兄や弟に比べられ、自分の心の弱さから二人と距離をとっていた誠一は心が折れた。


そして、父に直談判した。KENZAKIには入らない。しかし、他の企業に自分が就職すればすぐにKENZAKIとの繋がりが露見しおかしなことになるだろう。だから、KENZAKIの影響が少ない、できれば地方の会社を紹介してくれ、と。

父は誠一の願いを叶えた。誠一が疲弊していたことに気がついていたのだろう。

地方の、KENZAKIとの関わりが少ない、今の会社を紹介してくれた。


そのことで、一波乱あった。特に弟の反発は大きかった。

「桂兄と誠兄の三人でKENZAKIを守ることを目標としていたのに」と。

「KENZAKIに入社しないのは百歩譲ってもいい。でもどうして、実家から遠い場所に引っ越すんだ」と。

「誠兄は物理的な距離も取って、家族からも距離を取って、どうするつもりなの」と。

誠一が家を出てから10数年たった今も言い続けている。そして、弟は誠一が剣崎を捨てないように、不定期かつ突然、誠一の家を訪れる。


今はカイジュールがいるから来ないように言い含めているが、そろそろ連絡くらいはきそうだな、とふと笑う。

カイジュールが浩一(弟)と会ったらどうなるだろう、と想像する。最初は警戒の上に警戒をにじませるだろうが、天性の人たらしの弟に早々に慣れてしまうかもしれない。

そう考えると、黒く塗りつぶされそうな気持ちになった。


こんな気持ちになりたくなくて剣崎とは距離を取ったのに自分は結局兄と弟に縛られている。

勝とうとは思っていないのに、些細なことで劣等感を刺激される。


ビールは結局、室温に戻しただけ。

ため息をついて冷蔵庫に戻す。冷蔵庫の中には砥草さんがカイジュールのためにと用意した食料がたくさん詰め込まれている。人たらし、というならカイジュールもそうだな、と苦笑いする。


出会って早々誠一はカイジュールを懐に入れた。砥草さんも今では誠一の家の家事に来ているのか、カイジュールの世話をしに来ているのかわからない。カイジュールのために嬉しそうにたくさんのものを用意する。


カイジュールの表情もこわばりが取れてきた。知識を吸収することに楽しみを覚え貪欲に学んでいる。

よく食べるし、体つきもしっかりしてきた。風呂にも慣れた。夜もベッドでしっかりと眠っている。


今はそれで十分じゃないか。


ポツリと、心のそこから言葉が浮き上がってきた。


最初は、この世界にいる間だけでも庇護しようと考えていたはずで。

カイジュールと暮らす内に欲がでた。

このかわいそうな子どもをなんとかしてあげたいと。

このかわいそうな子どもをちゃんと笑わせてあげたいと。

かわいそうな子どもを幸せにすることで、自己満足に浸りたかっただけだ。


カイジュールにかこつけて、剣崎を捨てようとして。

剣崎の姓を捨てるためには、カイジュールをこちらの世界に留める必要があって。

焦って、急いで、すっころんだ。


でも、躓いたおかげでこの方法は間違いだと気が付けた。


焦っても仕方がない。

今、カイジュールは安心して暮らせている。

今は、それで十分だ。


大体、幼い頃から縛られていた思いをそう簡単には解除なんてできやしないのだ。誠一はただ、ゆっくりと時間をかけてカイジュールを懐柔することしかできない。


そもそもカイジュールの件と誠一の葛藤は関係のないことだった。同じテーブルに載せたから間違いを犯した。だいたい、家を出たって剣崎の名は付いてまわるのに。


剣崎を捨てるなら、もっとちゃんとみんなと話し合わないといけない。逃げ回っていたってどうにもならない。そうでなければ家族に傷を残す。


そもそも、自分は剣崎という名前の重さに負けただけで、剣崎の家族を嫌いなわけではないのだ。


努力に努力を重ねる兄を見ている。

誠兄と、慕ってくれる弟の努力も知っている。

ただ、自分の努力が実らなかっただけで、大切な家族や兄弟と袂を分かつのは間違っている。


(ほんとうに俺はしょうもない)


間違えなければ、大事なことに気が付けない。

せめて、傷が浅いうちに気が付いたことに安堵しておこう。



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