浴槽の楽園
俺は風呂が嫌いだ。
人は皆なぜ毎日当たり前のように湯に浸かるという儀式を行うのだろう。気持ち悪い。全くお前たちは気持ち悪い。俺はお前たち人間のことがたまらなく気持ち悪い。
「気持ち悪いのは人間じゃなくてそんなことを考えるお前だろ」
どこからかそんな声が聞こえた。
ムカついたので言い返してやろうかと考えたが、よくよく考えているうちに、それは誰の声でもないのではと思い始めた。
いや、誰かの声だったような気もするが、幻聴だったような気もする。あれは「もう一人の自分」の声だったのかもしれない。そもそも俺は、自分の思考を口に出してはいなかったはずだ、はずだが、忘れた、もしかしたら漏れていたのかもしれない。今となっては確認のしようのないことだ。俺もいよいよイカれてきたのかもしれない。やれやれ。風呂にでも入れば調子を取り戻すかもしれないと考え、俺は大嫌いな風呂場へと向かった。
無理矢理テンションを上げようと、浴槽に向かってダイブした。
「待ってたぞ、青年」
また声が聴こえた。うるせえ! 俺に話しかけんじゃねえ! それに俺を青年と呼ぶな、なんかムカつく。
また幻聴か? いや、今回の声はおそらく、浴槽のお湯のものだった。
「まあそう身構えんなって。今日はお前と話をしに来た」
やはりお湯が俺に話しかけているようだ。浴槽が話しているのではなく、浴槽の中のお湯全体が、俺の体に振動を与え、音声を送り込み、念じているかのような感じだ。
「お前……一体誰なんだよ」
俺はお湯に言った。口に出して言った気がするが、あくまでもお湯に念を送ったという感じで口に出してはいなかったかもしれない。
とにかく俺は、お湯と話す方法をなぜか無意識のうちに理解していて、それを自然に実行したかのようだった。
「俺が誰かって? そいつは教えられねえなあ」
お湯は不敵に笑った。笑った? お湯が? いやお湯が笑うはずないだろ、俺の錯覚だ、馬鹿げた幻覚に違いない。
まあいい、暇を持て余していたところだ、せっかくだから遊んでみよう。
俺は意を決して言った。
「お前、さてはお湯じゃないだろ」
「……!」
変化は一瞬にして起こった。42℃前後だったはずのお湯は、一瞬にして5℃未満の冷水と化した。
「うわ冷てえ!」
俺は思わず飛び上がった。
お湯、もとい冷水は舌打ちし、言った。
「こんな簡単にバレちまうとはな……まあいい、なら話は早い。お前、こっちの世界に戻って来いよ」
「は?」
バレちまうも何も、俺は何もわかっていない。ただ当てずっぽうで、冗談半分で言っただけだったように思う。
しかし、自分の意思で言ったのではないような気もする。何か、超自然的な何かに言わされていたような気もする。わからない。はっきりしたことは何もわからないし、さっきから俺は自分の意思を失いかけているのだ。もはや意識すらも失いかけている。だから俺は、言った。
「よくわからんが、わかった。そっちの世界とやらに俺を連れて行けよ」
言うや否や、俺は再び浴槽の中に引き摺り込まれた。
しかし、さっきのようなお湯の暖かさも冷水の冷たさもそこにはなく、浴槽の先には、幻想的で超越的で、されど現実以上に現実味のある、静かで平穏な楽園のような世界が広がっていて、そのうえその光景は、古い故郷のような懐かしさと、ありとあらゆる苦悩から永遠に開放されたかのような幸福感とを感じさせるのだった。