四 カリダ・アヤーテ
「父上。入るぞ」
相変わらず粗暴な調子でニールは、父クリスナの執務室へ入った。
クリスナは彼が来ることを予想していたように、座るように促す。
「さて、タニヤマタエから何か聞き出せたか?」
「ああ。だが、信じたくない話だ」
ニールはソファに深く腰掛け、眼を閉じた。
「私は、タニヤマタエの話を信じる」
そんな息子を横目で見ながら、クリスナは彼の向かいのソファに腰を下ろした。
「シズコ様は本当に亡くなってしまったのだ」
「俺、俺は信じないぞ!あいつがそんな簡単に!」
冷静な父の言葉に反発するようにニールは目の前のテーブルにこぶしを叩きつける。壊れることはなかったが、テーブルの置かれたカップからお茶がこぼれた。
いつもならここで叱り飛ばすクリスナだが、何も言わずにただ布でこぼれたお茶を拭き、ニールを見据える。
「お前も本当はわかっているのだろう。おそらく、陛下も。タニヤマタエは嘘をつくような女性ではない」
クリスナの声に動揺は感じられない。それにニールは苛立ったが再度テーブルを叩くことはなかった。
「ニール・マティス」
「父上はどうして平気なんだ?死んでしまったんだぞ。あいつが。あんなに元気で、エイゼンでも生き残ったのに!くそっつ!」
ニールはテーブルを再び叩きそうになったが、その憤りを拳を握り締めることで堪える。
「俺は、信じたくない!」
「ニール!」
強く名を呼ばれ、ニールはゆっくりと拳を開き、息を吐いた。
「俺は父上のようにはなれない。だが、やるべきことはやる。父上。タエにパルをつけてくれ。牢屋に一人では負担が大きいから。後のことはそれからだ」
二―ルはそれだけ言うと荒々しく席を立ち、部屋を出て行く。
残されたクリスナは深く息を吐き、冷えた紅茶を口にする。
タエからもたらされた情報を現在知っているのは、ライベル、ニール、クリスナの三人のみだ。
ニールに指摘されたとおり、クリスナは冷静で、静子の訃報に動じる様子もなかった。それが息子を苛立たせていることもわかっていたが、クリスナは冷静でなければならなかった。
静子が行方不明になってから、ライベルは徐々に己を失っていった。死亡した事実がさらにそれに追い討ちをかけるのは明白だった。今、この時、クリスナが彼を支え、国政を補佐しなければ、このアヤーテは再び混乱するだろう。その恐れもあり、彼は自分が冷静であることを課していた。
内部で、心が悲鳴を上げているのは自覚しているが、それに浸っている時間は彼にはなかった。
長い間国政を兄と甥に任せ見ない振りをし、王族の責任から逃げてきた。クリスナは今その責任を果たそうとしていた。
☆
「ニール様!」
執務室から出てしばらくすると、ニールはカリダの乳母メリッサに呼び止められた。
「よかった。ここにいらっしゃって!殿下がお呼びです」
メリッサは顔を青白くさせており、ニールは何かあったのかと先を急いだ。
カリダ・アヤーテ。
ライベルと静子の息子で、まだ二歳にもならない幼児。
瞳は父親譲りで緑色であったが、髪は癖のある黒髪。いつも笑顔を絶やさず、笑い声は軽やかで、聞く人皆の心を和ませる、そんな明るい子供だった。そのため城の皆から可愛がられ、静子が甘やかせすぎだと苦言をもらすほどであった。
静子が消えた後、ライベルは部屋に篭ることが多くなり、カリダとも距離を置くようになってしまった。母もいなくなり、父からもそのような扱いを受けるようになったカリダを気にして、ニールは以前よりも多くの時間を彼と過ごすように心がけた。そんなこともあり、カリダはニールにさらに懐くようになっていた。
「殿下。ニール様をお連れました」
部屋の中から返事はないが、メリッサは扉を軽く叩くと中に入る。ニールはその後に続き、部屋に踏み込んだ。
「カリダ」
何事があったのかと呼びかけ、ふと部屋の主がいないことに気がつく。メリッサの視線を追うと、それはベッドの白い塊に向けられていた。
「カリダ。何をしてるんだ?」
まだ赤子のようなカリダだ。ニールは苦笑しながらベッドに近づく。
「ニー!」
すると白い塊がもぞもぞと動き、中から黒髪の可愛らしい男の子が現れた。カリダはその緑色の瞳を真っ赤に充血させて、ニールの胸に飛び込む。
「はーう、はーう」
まだ言葉をうまく話せないカリダは、数単語しか話せない。
「にー」とはニールのことで、「はーう」というのは母上を指すことだ。昨日彼はタエの姿を見ており、母親だと思って大泣きしていたことを思い出し、ニールはカリダを抱きしめる。
「あの人はシズコ様じゃない。母上ではないんだ。カリダ」
できるだけニールは優しい声音を心がけ、ゆっくりとそう言葉にする。
「はーう!はーう!」
しかし、カリダは首を横に振って、繰り返す。
「カリダ」
「はーう!はーう!」
「カリダ!」
ニールが強い口調で名を呼ぶと、カリダが体を震わす。
「やばい。すまん。カリダ!」
「うえーん。ニー!ニー!」
激しく泣き出し、ニールの腕の中でカリダは暴れだしてしまった。
「カリダ。悪かった。悪かった。だから、泣き止め。母上か。わかった。あわせてやるから。な?」
泣きやませるためにそう言うと、カリダは現金なことに、ぴたりと泣き止んだ。嘘をついたことが少し後ろめたかったが、ニールは胸を撫で下ろす。
「カリダ。昼食をとって、お昼寝したら、会わせてやる。だからメリッサの言うことを聞け。わかったな」
「うん」
笑顔でニールの言葉を頷くカリダに、横で見守っていたメリッサは大きく安堵の息を吐く。昨晩もなかなか寝ず、ついには泣きつかれて寝てしまった。そのため今日は遅めに目覚めた。それから、母親を求めてずっと泣いており、メリッサがどんなに言ってもきかなかった。
やっと昼食をとってくれることで、彼女は心底安堵して、ニールに頭を下げた。
「カリダ。俺はちょっと用事で出かけてくる。お前が昼食とって、お昼寝したら戻ってくるからな。しっかり、メリッサの言うことを聞くんだぞ」
「うん。ニー」
ニールは彼を絨毯の上に降ろし、頭を撫でる。
「さあ。殿下。まずは顔を洗いましょう」
メリッサが桶を持ってきて、カリダの身支度は始まる。それに素直に従う彼を確認し、ニールは部屋を後にした。
「さて。どうするか。無理だよな。だけど会わせないとカリダがまた泣くしな」
扉を閉めてから、ニールはこれからどうしようかと頭を捻る。先ほどまで静子の訃報で胸がつぶれそうな思いをしていたが、カリダによってそれが少し軽くなっていた。
そのことを少しだけ寂しく思い、ニールは今孤独の淵にあるライベルを思う。
「陛下。ライベル。お前は王なんだぞ。そしてカリダの父でもある。お前がしっかりしないとどうするんだ」
どんなに諭そうと彼は聞き耳をもたないだろう。けれども言わなければならないとニールはライベルがいる場所――王宮の池に向かった。