三十四 王宮への知らせ
「ニールが結婚する」
それから一年後。
ニール・マティスが領地に帰ってから、二年後。
タエがアヤーテに召喚されてから、八年後の或る日。
いつものように寝室に入ってきたライベルが彼女に告げた。
あの日、彼の後姿を見送りながら覚悟していた事。
けれども衝撃は大きく、タエは必死に表情を変えないように心がけた。
「……式は領地で行われる。だが、婚姻後の挨拶のために1ヵ月後に王宮に来ることになっている」
ライベルはその瞳に哀れみなのか、緑色の瞳に影を落とし、タエを見つめている。
「それはよいことですね」
声が震えないように努めて、彼女は答えた。
「無理はするな。俺はわかっている」
ライベルの優しさあふれる言葉に胸をつかれ、必死に堪えた感情があふれそうになる。けれども、タエは力を振り絞り、息を止め、衝動をやり過ごした。
「お祝いの品など考えなければなりません」
心配そうなライベルの視線に彼女は王妃の微笑で返す。
王妃になり五年になり、ニールが去って二年。
二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
王と王妃としても使命感、それは生きる原動力になっていたが、癒しとはほぼ遠いもの。
ライベルにとって愛する女性は静子ただ一人、タエもライベルにそのような感情を抱くことなかった。
「陛下。本日は視察でお疲れでしょう。お早くお休みください。私はこれで」
二人が同じベッドに寝ることはない。
王と王妃の不仲を疑われるため、こうしてタエは寝室でライベルが来るのを待つ。それから、秘密の通路を使って王妃の間に戻るようにしていた。これは婚姻してから五年間続けていることだ。
「タエ。すまない」
「陛下。何を謝るのです。あなた様が謝る事など何もございません。これは私が選んだ道です。ニールのこともわかっております。ご心配なく」
王妃の間に戻る前に声をかけられ、蝋燭の明かりで痛々しいライベルの表情が浮かび上がった。彼女は彼が傷つかないように注意して、そう返すと王妃の間に戻った。
部屋に戻ったタエはやっと気持ちを解放した。
こみ上げる嗚咽を聞かれないように、布で口を押さえる。
心が悲鳴を上げていた。
(わかってる。この日がくることはわかっていた。彼には後継ぎが必要。そのために彼は領地に戻ったようなものだもの。私が動揺したら折角の彼の努力が無駄になってしまう。奥様になられる方には幸せになってもらわなければ。おかしな噂を立てられたら、すべての努力が消えてしまう)
けれども、今夜だけは、許してほしいと、タエは彼のことを想う。
(ニール様。あの時、私が迷いなく彼の手をとっていたら)
次々と過去の思い出が浮かび、その度に彼女は自身をせせら笑った。
☆
ライベルはベッドに横になったが、寝付けなかった。
そして日中のことを思い出す。
日中クリスナからニールの結婚の話を聞いて、最初に浮かんだのはタエの顔だった。しかし、それを打ち消して、祝いの言葉をかける。
結婚式は領内で行うこと、臣下として結婚報告のため1ヵ月後に訪れること。
クリスナは、息子の祝い事だというのに、淡々とライベルに告げた。
その冷たさにライベルが心配になるくらいで、思わず聞いてしまった。
己の母のことを思い出し、ニールの妻が幸せになれるか、不安になったのだ。
ライベルの母――エリーゼは息を引き取るその時まで、己がレジーナの身代わりの妻だと信じており、オレガの愛が自身にないと思い込んでいた。
初めはそうだったかもしれないが、オレガはエリーゼ自身を愛しており、その誤解が彼を終始苦しめ、ライベルに対しても愛情を表すことができなかった。
負の連鎖は、エセルを復讐にかりたて、ライベルは彼の思惑に知らないままエセルへ依存した。
ニールが自身の父と同じ轍を踏むのは避けてほしかった。
「私はわが息子を信じております。新しく我がマティス家の娘となったマリアンヌを決して不幸にすることはありません。ご安心ください」
クリスナはライベルの不安を心底理解しているようで、彼にしっかりと頷く。
「王宮にくればおかしな噂を耳にいれてしまうかもしれない。そのことに対してはどうするのだ?」
だが、ライベルは続けて質問をした。
「私もそれを危惧していたのですが、マリアンヌ自身が王宮で王妃様に挨拶をしたいと申したのです」
「なんだと?その、マリアンヌは噂を知っているのか?」
思わぬことで、ライベルは動揺する。
ニールが領地にもどったのは、おかしな噂を封じるため。
妻となるものにも噂が届かないようにと願っていたのだが、すでに知っているとなれば本末転倒だ。
動揺する彼に、クリスナは小さく返した。
「……そのようです」
彼らしくなく、ライベルはさらに噛み付く。
「それでは二の舞ではないか。俺は賛成できぬぞ」
王の憤りにクリスナは少し言い辛そうに口を開いた。
「ご安心ください。マリアンヌは強い女性です。だからこそ、ニールが妻にすることを決めたのです。実は一年ほど前から強く迫られていた様子で、この度やっと決意したのです」
「……子どもか?」
「いいえ。そのようなことは。ただ、あやつも心境の変化があったようです」
ニールの心境の変化。
おそらく、タエへの想いを振り切ったのか。
そう思えば、妙に悲しくなり、ライベルの脳裏にタエの悲嘆にくれた顔を浮かんだ。
けれども、ほかの女性のことを想いながら、婚姻するのはもっとも避けてほしいことあので、ライベルは再び首を横にふった。
「それなら、いい。だが、タエに会いたいというのはどういうことか」
「私もそれは……。レジーナも賛成しているので」
「レジーナか」
レジーナは母によく似た女性だったが、その性格は明るくて溌剌している。
おかしなことになるまいと、ライベルは覚悟を決める。
「承知した。一ヵ月後の謁見を進めろ。タエにも今夜でも話す」
「王妃様は大丈夫なのでしょうか?」
「心配するな。タエはニールやマリアンヌを不幸にするようなことをするやつではない」
クリスナがタエを誹謗するように思え、ライベルは反射的にそう答えていた。
「失礼いたしました」
その勢いに少し呑まれ、クリスナは詫びをいれる。
ライベルは昼間のクリスナとのやり取りを振りかえり、改めてタエのことを思う。
必死に動揺を隠していたが、体が小刻みに震えており、顔色は青ざめていた。
おそらく翌日には平気な顔を見せるだろうが、彼は彼女の痛みを考え、目を閉じる。
タエの華奢な体を抱きしめ、その悲しみを癒すこともできた。
だが、ライベルは静子に愛を誓っており、そんなやり方はしたくなかった。またタエをその時は癒したとして、彼女が後々後悔することを目に見えていた。
「言葉をもう少しかけてやればよかったか。シズコよ。俺にはどうしていいかわからない」
天井を眺めながら、そう問いかけてみたが、答えをくれるものはいなかった。




