三十二 遅い初恋の終わり
「殿下!」
「ニール!」
後を追ってきた近衛兵の制止も聞かず、カリダは団長室の扉を開ける。
「殿下」
呆れたように声をあげたのはニールで、部屋には次期団長のナイデラもいて、小さな闖入者の乱入に目を瞬かせる。だが、次の瞬間礼をとった。
「カリダ王太子殿下。初めてお目にかかります。ニールに代わり次期近衛兵団長に推挙されたナイデラ・アサムです」
「次期近衛兵団長?」
興奮していたカリダは挨拶も返すこともせず、ただ目を丸くして彼を見ていた。
「ナイデラ。悪いが、ちょっと席を外してもらえるか?あと、周りの警戒も頼むな」
「ああ、わかった。それでは、殿下。失礼いたします」
ナイデラは戸惑うカリダに一礼し、困惑ぎみの殿下付きの近衛兵をせかせると部屋を出て行った。
「殿下。挨拶も返さず、なんというか」
「ニールが悪いんだよ!」
小言を言おうとするニールをカリダが怒鳴り返す。
こんな風な彼は珍しく、ニールはナイデラに扉の前に立ってもらってよかったと安堵する。さもなければ、大変な騒ぎになりそうなくらいカリダは興奮していた。
「僕に何も言わないで王宮を出て行こうなんて、酷いよ!なんで僕に話してくれなかったの?」
「……話しても反対するだけだろう?」
「そうだけど!タエは知っていたみたいだし、僕だけ仲間はずれだよ!」
仲間はずれという言葉にニールは思わずおかしくなって笑ってしまい、それがますます彼の怒りを煽ぐ。
「ふん。どうせ、僕になんて知らせなくてもいいって思ったんだろう。僕はニールにとってそれだけの存在なんだ!」
「そうではありません。殿下。あなたは私の大切な従甥です」
「従甥。ふん。そうだよね」
「失礼しました。大切な友人です」
「ニール!なんだよ。かしこまっちゃって。最近のニールはおかしいよ!どうしたの?何が悪いの?なんで王宮を出て行っちゃうの?」
「それは、領地の代理人が老いて、父の代わりに私が領地を治めるためだからです」
「新しい代理人を雇えばいいだけじゃないか!」
「殿下。十年以上も代理人にやらせてきているので、きちんとした領主がもどるべきなのですよ」
「嘘だ!そんなの!ギャンダーの父上だって、代理人が領地を管理しているよ。報告書に目を通していれば、別に領主が戻らなくても大丈夫だもん!」
「殿下……」
マティス家の領地は安定しており、カリダの言うとおり新しい代理人を立てることもできた。なので、これは本当にニールが王宮を離れるための建前に過ぎない。
けれども、ニールは押し通すことに決めており、カリダを困ったように見るだけだ。
「もしかして、この間の面談でニールが外されたから?だったら、僕、父上に言って」
「殿下。やめてください!それは関係ない」
ニールは思わず声を荒げてしまい、しまったと従甥の様子を窺う。
予想通り、おびえたような顔をしていて、彼は以前のようにカリダを抱きしめた。
「ごめんな。カリダ。わかってくれ。俺は、王宮を出ると決めたんだ。だから、ごねないでくれ」
「ニール……。なんで、なんで」
カリダはニールの腕の中で泣きじゃくり始める。
「ごめんな。カリダ」
そんな彼をニールはただ抱きしめ、その背中を優しく撫で続けた。
☆
数日後、ニールの最後の王宮勤めの日。
王室で、タエはライベル、カリダの隣で彼を迎えた。
もちろん、その場にはクリスナも控えている。
今後タエとニールのことでおかしな噂が立たないために、人払いをしておらず、壁際には数人の近衛兵、侍女たちが立っている。
「ニール・マティス。今日までのお前の功績、ありがたく思う。領地に戻ってもその手腕があればやっていけるだろう」
ライベルは労いの言葉をかけ、王妃タエが頷く。
その隣でカリダは涙を堪えているのか、唇を強く噛み、その目は怒っているようにニールを凝視していた。
タエは、王妃の穏やかな笑みを浮かべたままであったが、その心は荒れ狂っていた。この場から逃げ出して泣き叫びたい気持ちを必死に堪え、二―ルの姿をその目に焼き付けようとしていた。
彼は領地に戻り、落ち着いたら妻を迎えるだろう。
そうして、王宮に報告にくるはずだった。
王宮を去る彼を見送るのがこんなに辛いのに、彼が妻を迎えることを考えると、胸が張り叫びそうだった。
(でも私は王妃。王妃なの。静ちゃんの代わりにこの国と、陛下と殿下を守らなければ)
彼女は挫けそうになる自身に何度もそう言い聞かせ、礼儀に適った挨拶をするニールを見守る。
彼は一度たりとも、タエに目を向けることはなかった。
それは、今のタエにとってはありがたいことで、彼女は最後まで王妃として彼を見送った。
こうして、アヤーテ王国にきて六年、二十五歳の時、彼女の遅い初恋は静かに終わりを迎えた。




