二十九 満月
「父上。母上はああ仰ってるが、俺の意志は変わらない。結婚の話は勧めてくれてもかまわない」
レジーナの背を見送り、ニールはそう口にした。
「ニール。すまないな」
少し遅れて、クリスナが反応する。
「俺がもっと早めに決断していればよかった。すでにおかしな噂話は出ているのだろう?」
「ああ」
「それなら早いほうがいい。それから提案があるんだ。父上。母上の危惧は理解できる。俺がどんなに王妃様と個人的に話すことをやめても、おかしな話は妻になる女性に伝わるだろう。だから、俺は近衛兵団をやめようと思っている。俺は領地に戻ろうと思っているんだ」
マティス家には小さいながらも領地がある。
王宮から逃げるようにクリスナは、レジーナと婚姻を結び、マティス家の領地に引きこもった。
兄が体調を崩したことがきっかけで、領地に代理人を立て、王宮近くに住むようになっていた。
ライベルが戴冠して、領地に戻るつもりであったがエセルの動きが奇妙なことに気がつき、カラスからパルを雇い、しばらく様子をみるつもりであった。
そうして気がつけば、十年以上も領地からマティス夫妻は離れている。
連絡は定期的にきており、忙しいクリスナに代わり、妻のレジーナが対応していた。
「それはいい案かもしれないな」
ニールは優秀であり、近衛兵団長から田舎の領主にするには惜しい人材だった。しかし、妻と同じくクリスナも、王宮の噂にとらわれ、新しく娘となる女性を傷つけるつもりはなかった。
「婚姻も領地に戻ってからしたほうがいいな。新しい近衛兵団長の候補者、お前が領地にもどるいい理由も考えなければならないな」
「俺はもう一度母上に話してみる」
「頼むな」
クリスナはニールの心を思い測り、口にはしないが詫びを付け加えていた。
彼は息子の想いよりも、ライベル、ひいては王家をとった。
自身は、兄の想いを知っておきながら、レジーナを娶ったにもかかわらずだ。
それでもニールは彼を詰ろうとしなかった。
☆
「今日の面談は面白かったな」
「そうですね」
ライベルに話しかけられながらも、タエはぼんやりと答えていた。
心にあるのは、王室に来る前にバルコニーから見たニールだった。
思わず謝罪の言葉をもらし、聞こえていないことはわかっていたが、心配になった。
侍女に気を取られている間に、彼の姿は消えており、幻だったのかと思うくらいで、タエはもやもやとした気持ちに支配されていた。
「なんだ。ニールのことでも考えているのか?」
「そ、そんなことはございません」
「ニール」という単語で、我に返り彼女は慌てて否定する。
「まあ、照れることはない。他に誰もいないのだからな。さあ、お前の本日の役目も終りだ。部屋に戻るがいいぞ」
ライベルとの距離はすっかり縮まり、彼は彼女をからかうくらいまで、心を許しているようだった。その変化に対して嬉しさと、静子への罪悪感が混じり、タエは複雑な心境になる。
けれども彼女が長居することは、ライベルの就寝時間を遅らせることにもなり、タエは礼をとると、王の寝室から王妃の間に戻った。
眠気などどこかにいったようで、目がすっかり覚めた彼女はガウンを羽織ると、バルコニーに再び出た。
先ほどニールがいた場所を見下ろすが、何事もなかったように、ただ樹木が見えるだけだ。
闇夜にかかわらずに明るいことに気がつき、空を仰ぐ。
先ほどまで曇っていた空が晴れており、満月が顔を出していた。
「この月を見て、私はアヤーテにきたのね。静ちゃんも」
そう考えると、彼女は満月に対して、激しい怒りを覚えた。
六年前、タエは普通の村の娘だった。
王宮の生活に比べると貧しい生活、母を手伝い畑、家事と体を使う仕事が多かった。
けれども、そこにはささやかな幸せがあった。
「麦ご飯に、たくあん。お味噌汁。懐かしいな」
貧しい食卓、けれども家族で食べる食事は美味しかった。
「……静ちゃん。ごめんなさい」
心に芽生えた気持ち、それは日本に帰りたいという思い。
なので、夜空に向かって詫びをいれる。
「大丈夫。私は、私の役目を果たすわ」
彼女はそう誓い、己を抱きしめるように腕を掴んだ。




