一 異世界転移
タエの従姉妹の静子がいなくなったのは、三年前の暑い夜だった。
彼女はある夜、突然姿を消した。戸を開けた形跡はなく、残されたのは彼女の履物だけ。
タエの父親が主導で、山狩りとも言える静子の捜索を行った。けれども、彼女が見つかることはなかった。そして村人は囁き始めた。
静子は鬼に浚われたのだと。
村の子供たちは彼女が禁忌とされる鬼の木に登っていたことを大人に告げ、おかしな消え方をしたせいもあり、村人は「鬼によって浚われた」という奇怪な話を信じるようになっていた。
三年の月日が流れ、奇怪な話も囁かれなくなった頃、静子が突如戻ってきた。
母親は泣き崩れ、タエは素直に喜んだ。
タエにとって、静子は手のかかる妹のような存在であり、その存在を慈しんでいた。だから戻ってきて、彼女は素直に嬉しかったのだ。
「だから、私はアヤーテ王国に行っていたの!早く戻らなきゃ」
戻ってきた静子は様子が変わっていた。
三年も経っており、当然のことなのだが、彼女の出で立ちは「普通」ではなかった。また戻ってきた時に着ていた服も、村に馴染みにないもの。彼女の立ち振る舞いは、落ち着いていて気品というものが溢れていた。
タエは戸惑いながらも、変わった彼女を徐々に受け入れていた。けれども彼女の語る話については、やはり半信半疑で信じられないものだったが。
「次の満月で私はアヤーテに戻るの。ライベルもカリダも、私がいないからきっと泣いているわ。お母さんのこと、よろしくね」
彼女は故郷に戻ってきたにも関わらず、何度もタエにそう話した。その度にタエは引きとめたが、彼女の決心が変わることはなかった。
静子の話は初め、夢物語と捉えられていたが、さも本当の話かのように繰り返す彼女に村人は畏怖に近い気持ちを持ち始めた。タエがそれに気がつき、静子に人前でその話をするのを止めるように言った。けれども、タエの制止は遅く、ある日、事件は起きた。
――鬼と通じた娘を追い出す。
村人からの訴え、そして威厳を持ち始めた静子を煙たがった長老は、彼女を村から追放することを決定した。追いすがる母をタエに預け、静子は彼女に微笑んだ。
「これでアヤーテに戻れる。今夜は満月だから。心配しないで。お母さんのこと、お願いね。お父さんが帰ってきたら私はアヤーテで元気で暮らしているからと伝えて」
村を去る静子は、戻ってきた時に着ていた美しい布の洋服を纏い、髪を結い上げ、とても眩しかった。背筋を伸ばし、村を出て行く彼女に悲壮感はなく、むしろ開放感で溢れていた。
その姿はとても神々しく、「静ちゃんは帰っていくのだ」と今まで半信半疑だった話についても信じられるくらい、静子は高貴で悠然としていた。
けれども、翌日、タエはやはり心配になり、森に入った。
静子いわく満月の日にアヤーテに通じる道が開けるということであり、彼女の話が真実であれば、すでにアヤーテへ戻っているはずだった。
彼女の自信に溢れた様子から、タエは彼女を見つけることがないだろうと予想して、森に足を踏みいれたのだ。
タエは自然と鬼の木に近づく。
彼女の愛する王は鬼神のように美しく、最初会った時、その王を鬼だと思い、食べられるのではないかと心配したと話していたからだ。
アヤーテに戻っているなら、きっと鬼の木の近くに出入り口があるのだろうと足を進めた。
最初鼻についたのが異臭だった。そして、転々と続く血の跡、何かわからない肉の塊。美しい布が千切れ、それが血にまみれている事。
タエの胸が痛み出し、開けた場所にたどり着いた時、足が地面にくっついたように動けなくなった。
「し、静、ちゃん?」
お腹の中からこみ上げてくるものがあり、タエはそのまま吐き出す。涙目でもう一度その場所を確認する。
「な、なんで?」
そこにあったのは、肉片と布が巻きついた骨の残骸だった。
こみ上げてくる吐き気を堪え、タエは棒のように動かなくなった足を必死に動かす。
近くまできて、彼女は倒れるようにその残骸を抱きしめた。
「ごめんなさい」
最初に口から出たのはその言葉だった。
(別の世界など存在するわけがなかった。静子ちゃんはかどわかされたんだ。そして異人に捨てられた)
彼女の夢物語を信じ、そのまま送り出した自分自身の愚かさを呪う。
あの時必死に止めるか、自分もついていくべきだったとタエは心の底から後悔した。
こみ上げて来る吐き気。絶え間なく流れる涙。でも彼女の体であった残骸をタエは抱きしめ続けた。
どれくらいそうしていたのだろう。
タエは立ち上がると、おぼつかない足取りで静子の躯を集め始めた。追い出された村で、墓など作れるわけがなく、タエは鬼の木の下に彼女の躯を埋める。
「静ちゃん。痛かったよね。怖かったよね。何もできなくてごめん。私は結局何もできなかった。村の人がやることなんて、予想できたはずなのに。ごめんなさい」
胸に宿るのは後悔。
(よく考えれば止められたことだったのに)
今更何を言っても無駄で、タエは静子を撫でるように小高くもった土に手を触れる。
「墓標、墓標が必要だね。今とってくるから、待っててね」
彼女の名前を書いた墓標を作ろうと、タエは重い体を押して村に戻る。体中に血が張り付いた彼女を止めるものは誰もおらず、ただ遠巻きに様子を窺うものばかり。
「タエちゃん!し、静子は!」
「タエ……」
「お姉ちゃん」
静子の母親がタエの様子、その表情で、何が起きたかわかり、叫びだす。それをタエの母が抱きとめ、興奮する彼女を必死に宥める。それが痛々しく、タエの心はますます痛みで軋んだ。
「絹子さん!ミエ!」
騒然とする村に戻ってきたタエの父親は、騒ぐ義理の妹、それを宥める妻に駆け寄る。それから、タエに目を向けた。
タエは父に何を言っていいからわからず、ただ呆然と手に持った木の板を抱える。
その胸にある思いはただ墓標を作らねばならないという奇妙な使命感だった。
静子の母絹子はしばらく叫び続け、ついに引き付けを起こして気を失う。今すぐにでも鬼の木の下の彼女の墓に向かいたかったが、静子の言葉を思い出し、絹子を運ぶ父に付き添い、静子の家に入った。
目に最初に飛び込んできたのは、畳の上に散乱している明るい色の着物。それは静子が身につけていたもので、彼女の美しい笑顔がタエの脳裏に浮かぶ。胸がきりきりと痛みを訴えタエは逃げ出すしかなかった。
「タエ!」
絹子の世話を母ミエに委ね、父が追っていくのが見えたが、タエはがむしゃらに走り続けた。静子を殺したのは彼女ではない。けれども止められたはずであり、彼女は何度か転びそうになりながらも鬼の木にたどり着く。
「タエ……」
墓の前で立っていると背後から声をかけられる。運動苦手なタエを見失うはずもなく、タエの父は息を切らしていながらも、彼女に追いついた。
「タエ……」
周辺にはまだ血の匂いが残り、何があったのか、容易に想像できた。
「お父さん……。私が、私が気をつければよかったの!村の人が、静子ちゃんを追い出そうとすることくらいわかったのに!」
タエは後ろを振り向かず、墓に焦点を当てたまま、叫ぶ。
枯れたと思った涙だったが、瞳から水滴はまだ流れ続けていた。
「村の奴らめ。私がいない間に静子を村から追い出したんだな!あいつら!タエ。自分を責めるものではない。私もその可能性を知っていた。なのに止められなかったのだ」
彼は拳を握り締め、歯を食いしばった。
昨晩、タエの父は町に出かけており、先ほど戻ってきたばかりだった。タエの父がいれば、少なくても静子は昨日追い出されることはなかったに違いない。
そう思うのは自由だが、それは過去の話に過ぎない。
静子が死んだのは事実で、それは誰にも変えられない。
「姉ちゃん!お父さん!」
父の背後に弟の姿が現れる。日が傾きかけているというのに、彼は二人を追ってここまで来ていた。彼にも何かが起きたことをわかっているのだろう。森に消えた二人を追わずにはいられなかったようだった。
タエは無言で座り込むと抱えていた板を盛り上がった土の上に置く。
「ごめんね。静ちゃん。名前は明日書くから」
姉の行動に弟は従姉妹が死亡したことを理解したのだろう。父同様に歯を食いしばり、墓を見つめる。
「静ちゃん……」
消えた従姉妹が三年ぶりに戻ってきた。これからまた二人で仲良く過ごせると思っていたのに。
止められたはずの惨劇。その後悔で、タエの胸はえぐられた様に痛みが走る。
父はそんなタエの肩を抱いて、自らも悔いる。
戦争に行った弟に、絹子と静子のことを頼まれた、けれども、結局何もすることができなかった。
後悔で打ちひしがれ、その場を動けずにいると獣の遠吠えが聞こえ始め、タエの父は顔を上げる。 タエも尋常ではない森の気配に気がつき、父の傍で身を硬くする。弟にいたってはしがみつかんばかりの勢いで父の腕を掴んでいた。
いつの間にか日がすっかり暮れており、獣が活動する時刻に入っていた。
タエの父一人でも野犬の一匹や二匹であれば撃退することが可能であった。しかし野犬は集団で行動する。しかも昨日静子を食らい、その味を占めているはずだった。
「走るぞ!」
父は暗い森の中をタエと弟の手を取り走り始める。その背後で獣のうなり声が追ってくるような感覚がして、ますます父は足を速めた。
「いたっつ!」
しばらく走り続け、弟が根っこに足を引っ掛け、転ぶ。父はタエの腕から手を離し、かがみ込んだ。
「あれは?」
タエは薄暗い闇の中で光を見つける。目を凝らして、それが静子が大切にしていた金のブローチであることに気がつく。
獣への怖さはどうしたのか。タエは誘われるようにふらふらとそれに近づいた。
「タエ!」
自分の傍を離れた娘を父は叱り飛ばす。弟は足を挫き、父の背中におぶられていた。
タエは金のブローチを拾い、その直ぐ傍に水溜りがあるのを見つける。
おとといの大雨の水がまだ残っているかと、何気なしに水溜りを覗き込んだ。
「月?」
空が見えないくらい森の木々が頭上を覆いつくしている。
けれども、確かに水溜りには月が映っていた。
「タエ!何をしているんだ!早く来なさい」
焦った父の怒鳴り声に驚き、タエは振り向きざまに、誤ってその水溜りを踏んだ。少し水が跳ね、彼女の足元にかかる。
その瞬間、水溜りが光を放った。
「タエ!」
「姉ちゃん」
父と弟に悲鳴に近い声で呼ばれたのがわかった。けれども眩しい光に目を奪われ、彼女は何も答えられないまま意識を失った。