十 三年後
「タエ!」
母親譲りの癖っ毛の黒髪、瞳は父親譲りの緑の瞳。
第九代アヤーテ国王の息子であるカリダ・アヤーテは、中庭で本を読んでいたタエに抱きつく。
あれから三年がたち、五歳の誕生日を迎えようとしているカリダの背丈は、タエの胸の辺りの高さに届きそうになっていた。
「殿下。どうしたのですか?剣術の稽古ではありませんでしたか?」
「だって、ニール。厳しすぎるんだもん」
「殿下!やっぱりここに逃げ込んでいたか!」
怒声とともに現れたのはニールで、急いできたはずにもかかわらず、息も乱さず仁王立ちでカリダを睨む。
この世界にきた当初はニールの視線に怯えていたタエだが、三年もするとすっかり慣れていた。けれども、やはり睨まれると心が沸き立つのは今も変わっていない。
「ニール!タエが怖がっているよ。怒鳴らないで」
「悪かった……。じゃなくて、殿下。責任転嫁はしないでください」
カリダが乳児の頃、ニールは彼に対して対等に話しかけていたが、四歳になり時期王として教育が始まると、彼は口調を改め、臣下としてカリダに接するようになっていた。
「殿下。大丈夫です。私は怖がってませんよ。剣術のお稽古は必要です。ニール様も団長の仕事を中断して、指導の時間に割いているのです。時間を無駄にしてはいけません」
タエはカリダに対して、王太子であることを弁えた上、「お世話役」という役割を果たそうとしていた。静子の代わりにはなれない、なろうなどとんでもないと思っているのは今も変わらない。
しかし、彼が王位を継ぐとき、相応しい人物であってほしいと、微力ながらも注意すべきことを口にしていた。
「うん。わかったよ。ニール。行こう」
「あ、ああ」
言い聞かせる必要があると構えていたニールは、カリダの素直さに牙を抜かれたような気分になり、それを見ていたタエは思わず口元が緩みかけた。
けれども、口元を押さえそれを隠す。
(私は静ちゃんの思いをかなえるために生きている。私の犯した罪を償いたい。笑ったりしたらだめ)
その思いはタエがずっと抱えるものであり、彼女はこの世界にきてから笑ったことがなかった。
先を歩くカリダの後を追おうとしていたニールはそんな彼女の行動を目の端に留め、唇をかみ締めた。
「タエ。もう三年だ。俺はお前のせいだと思っていない」
「……私のせいです。ニール様」
タエは首を振って、逃げるように視線を逸らす。
ニールといるとすべてを許してもらえるような気持ちになり、彼女は息が苦しかった。
なので、早く立ち去ってほしいと、無礼だと思いながらも、本に目を落とす。
いつのものこと。
この三年繰り返されたこと。
ニールは小さく息を吐くと、すぐにカリダの後を追った。
☆
タエがこの世界に静子の代わりに来て、三年が経った。
王妃であった静子は、やむ得ない事情で元の世界に戻り、その代わりにタエが召喚された、公的にそのように彼女の存在は知られていた。
異世界の娘は特別な存在。
国を纏める為、静子を王妃とするために撒いた話は国中に広まっており、タエの処遇についても論議が交わされていた。
カリダの健やかな成長の影に異世界の娘タエの力あり。
誰にも隔てなく接する優しさ、教師たちを唸らせる賢さには定評があり、王宮に勤めるもの達は、カリダのことを語るとき、世話役として尽くしているタエの功績も同時に称えた。
それは彼女自身が、常に謙虚で、努力家であるため、印象がよかったこともある。
明るく奔放な静子とは異なり、タエは人々に愛されるというよりも敬われるという感じであった。
☆
「何度も言ったが、俺は同意しない」
人払いをし、ライベルとクリスナはまたしても同じ案件で遣り合っていた。
「ただ位に就けると思っていただければいいのです」
「王妃はただ一人、シズコのみだ。俺は他の誰も娶ることはない。カリダの評判は上々だ。俺の跡継ぎはカリダだ。子供をもうける必要など必要がない」
「それは存じ上げております。私はただ、王妃の座にタエを座らせ国の安定を図ってほしいのです。形だけの王妃として」
「形だけでも、俺は同意せぬぞ」
「陛下!」
それ以上は話すなと背中を向けたライベルに、クリスナは追いすがるように呼びかける。
「必死だな。おかしな連中が沸いてきてるからか。俺が王に相応しくない。新たな異世界の娘をニールに嫁がせ、新王とする動きか」
「陛下……。ご存知でしたか」
「ああ。俺も馬鹿ではない」
静子が異世界に戻り、代わりにタエを召喚したことを公式発表としてから、一年ほどたち、ライベルに反感を持つものたちの中で、そのような動きが出始めたことをライベルも知っていた。
クリスナのように「カラス」を使っているわけではないので、そこまで細かな動きは把握していない。けれども最近のクリスナの焦りを思うと、かなり勢力が強くなっているようだった。
「クリスナ。ニールはどうなのだ。あやつはタエを妻にしたいのではないか?」
この三年、ライベルがクリスナに約束させた通り、タエは彼に近づいてはいない。だが、同じ王宮で、カリダの傍に仕えているため、その姿を目にすることがある。
ライベルは、ニールが静子に想いを寄せていたことに気がついていた。そして妻を娶らないのもそのことが原因だと思っていた。静子によく似たタエに、ニールが惹かれるのは当然だった。
ライベルすら、タエの姿を視界に捉えると、静子と重ねてしまうときがあった。彼はタエに近づかないし、言葉を交わしたのも最初の日だけだった。
けれども、二―ルはほぼ毎日のようにカリダと接している。それは当然タエも同様だ。言葉を交わせば情も移るだろう。
クリスナは珍しくライベルの問いに答えなかった。
沈黙が答えかもしれないが。
「私の後にはカリダがいる。ニールの好きにしてもかまわぬぞ」
三年がたち、ライベルの心も落ち着いてきていた。
静子を失った痛みはずっと続いているが、慢性化した痛みのように激しくなることはない。タエに怒りを覚えることもなくなっていた。
「陛下」
「私の地位はそんなに危ういか」
ライベルは王である。すでに王太子もおり、安泰であるはずだ。
国民の生活も安定し、財政も明るい。
けれどもクリスナは不安そうで、少しの可能性をつぶそうとしているようだった。
「まだ俺の信用は地に落ちたままか。俺は売国奴であるエセルを重用していた。エセルは俺の伯父だからか?」
彼は幼児期から孤独だった。伯父であるエセルに愛情を見出し、静子が現れるまでエセルを信じきっていた。
アヤーテ王国の滅亡を願うエセルを――。
「ならば、いいではないか。俺は王位を失ってもいい。カリダを支え、アヤーテを守ってくれれば」
「陛下!」
厳しく叱咤され、ライベルは口を噤む。
エセルを失い、そして静子を失い、彼は虚無の中にいるようだった。
王という責務をこなすことで、生きている。
クリスナはそれを知っていた。むしろ知っていたからこそ、ライベルに王であってほしかった。
王でなくなったら、彼が消えてしまう気がしたからだ。
「俺は少し疲れた。休む。少し時間をくれ」
「畏まりました」
言葉のとおりライベルの顔色は悪く、クリスナは頭を下げると退出した。