第二の秘密
次の日の朝、私はまた例の場所へやってきた。
「おはよう。天城さん」
昨日と同じだ。眞賀さんは先に来ていた。相変わらず早い。
「――おはよう」
机に腰かけて、私の方を見ている。
「今日も来てくれたということは、気に入ってもらえたということでいいかな?」
「まあ、そう」
ある意味とてもエキサイティングだったことは、認めるしかない。
「良かった。――実は少しやりすぎたかもしれないと心配していたのだけれど」
「やりすぎ?」
「その……匂いとか?」
別段気になるようなことは……って、やっぱりあのとき、しちゃってたってこと?
でも、そのことをこれ以上確認しようとするのは、なんとなく悔しいというか、恥ずかしいからきかないけど。
「別に。なんともなかったよ」
「そう。ならよかった」
いや、良くはないだろう。教室の真ん中であんなことするのは。恥ずかしいから口にはしないけど。
「さて、それじゃあ今日の説明ね」
え、今日もするの? なんて言わないよ。分かってて来たんだから。
「昨日は初めてだから、私がやったけど」
「けど?」
「今回は天城さんにもやってもらおうと思う」
机から降りる眞賀さん。
私は反射的に下半身を押さえて後ずさった。
なんで逃げるの? みたいな顔されてもなあ。私は脱いだり履いたりするのは勘弁だって。
「ふふっ」
眞賀さんの口から笑い声がこぼれる。いや、なに笑ってんの。
「大丈夫。いきなり脱がせたりはしないから。――まあ、興味はあるけど」
いずれはさせるってこと? お断りだよ。
「……それで、私は何をすればいいの?」
「まあ、焦らないで」
そう言って眞賀さんは、机の中からポーチを取り出した。星がちりばめられた藍色の化粧ポーチだ。先生にバレないように持ってきてる子がいるのは知ってたけど、まさか持賀さんも持ってきてたとは思わなかった。
ポーチを開けて中身をかき回し、そして取り出したのは、
「はい、今日はコレね」
黒い円筒。口紅だ。色付きリップではない。
「迷ったのだけど、せっかくだからお気に入りの色を使おうと思ってね」
キャップをとって見せてくれる。淡い桃色だった。艶めかしい光沢を帯びたその先端に、思わず見とれてしまう。
「というわけで、少し時間を頂戴」
椅子を引いて座ると、ポーチから鏡とリップブラシを取り出し、私に背を向け口紅を塗り始めた。鏡に映るその手つきは思いのほか手慣れていて、眺めているだけでなんとなく楽しい。そうしているうちに塗り終わったらしく、眞賀さんがへ振り向いた。
「どう?」
「良い感じ」
お世辞じゃないよ。リップだけじゃ間抜けかなとも思ったけど、案外なじんでいる。いつもは長い髪で隠れていて気が付かなかったけど、眞賀さん顔は意外と華がある。
「色付きのリップにしとこうかと思ったのだけど、それだとスリルに欠けるでしょ? 付けてる人けっこういるしね」
なるほど。これが今日の『秘密』。先生にリップメイクがバレたら、確かに面倒だしね。
「で、私もソレつければいいの?」
「いいえ、天城さんはつけなくていいの。その代り」
眞賀さんが立ち上がり、椅子をこちら側に向ける。
「座って」
「え、うん」
言われるままに椅子に座ると、眞賀さんが私の前に回り込んだ。腰を屈める。顔と顔が近づく。彼女の距離感は未だによくわからない。
「じっとしてて。すぐに終わるから」
吐息が鼻の頭をくすぐる。眞賀さんの左てが私の顎を優しく包み、右手はそっと頭を支え、わずかに頭を左へ傾けさせた。
思わず息を止め、目をとじる。――べ、別に何か期待してるわけじゃなくって、その、眞賀さんがそうするなら拒む理由はないかなって、えっとその――
ちゅっ、と
首筋に柔らかい感触。
気が付くと、私の顔のすぐ横に、眞賀さんの頭があった。私の肩越しに、首筋を満足そうに眺めている。
「――これでよし。あ、見てみる?」
ポーチからもう一つ鏡を取り出し、合わせ鏡の要領で私の首筋を見せてくれた。
「あー……」
ついてる。唇の形がくっきりと。
「天城さんは、今日一日これで過ごすこと。別に洗って落としてもいいけど、ちゃんとキスマークもつけてあげたから、多分無駄だよ」
キスマーク。つまり吸引性皮下出血だ。痣と同じで、すぐに消えるようなものではない。
「私はマスクで隠しておくけど、天城さんは? ポニテ解けば隠せるかもよ」
そ、そうか。慌ててゴムを外す。髪が肩の上に降りてくる。
「どうかな。見えない?」
「ええ、大丈夫。――それではお互い楽しみましょう」
☆
「あれ? マギちゃんポニテやめたんだ」
同じセリフを別の人からもう5回は言われた気がする。
違うよ。髪上げたら見られたくないものが見えてしまうんだ。
校則では、肩にかかるような長さの髪はまとめなきゃいけないんだけど、そんなこと気にしていられない。
「うん。ちょっと気分転換にね」
「お、失恋か?」
「それなら髪切ってるって」
「ああ、そっか」
眞賀さんはというと、マスクで完全に隠れているので、特に気を遣う必要はなさそうだ。私はというと、髪が風になびいて一瞬でも首筋が露わになってしまうと気付かれてしまう可能性があるので、常におとなしくしていなきゃいけない。歩くときも静かに。淑やかさ3割増しだ。
そういえば、随分と状況が不公平じゃない? そう思ったけど、給食を食べるときはさすがに眞賀さんも難儀していた。まず、マスクを外さなきゃいけない。そして何より、食器に口紅がついてしまう。一体どうするつもりなんだろうね、と少し楽しみに見ていたら、脇にポケットティッシュを常備して、ばれないようにそっと拭っていた。まあ、彼女のアイデアだからね。流石に無計画じゃなかったか。
なんて他人のことを気にしていられるのも、昼休みまでだった。
五時間目は、体育。
着替えのときに見られるかもしれないけど、それは更衣室を使う時間をずらせば何とかなる。問題は、髪をまとめずに運動すると、かなり鬱陶しいし、あの体育教師が見逃すとは思えない。
とにかく、早めに更衣室へ行って着替えを済ませる。昼休みを挟んでいるから、時間はたっぷりある。
「あれ、マギちゃん。髪そのまま?」
早くもクラスメイトが来てしまった。大丈夫。着替えは終わってる。
「えっと、その髪留め持ってなくて」
「あ、じゃあシュシュ貸してあげるよ」
余計なことを……。他人の厚意をここまで恨んだのは初めてだ。
「まとめてあげようか?」
「いやいやいや独りで出来るから」
さて、どうする私。いつものポニテにしたらアウトだ。下の方で、緩めに一本にまとめてみるか。そうしよう。
「うーん。新鮮だね、マギちゃん」
「ああ、ありがと」
これで、長袖体操服のファスナーを上まで上げれば、多分見えない。
でもさ、この髪型って――、
「なんか眞賀さんみたいだね」
そう。彼女の体育スタイルと全く同じなのが気に入らない。
授業は、元々バレーの予定だったけど、なぜかドッジボールに変更になった。
正直助かった。ひたすら外野に徹すれば、友達に背を向けることはほとんどない。そう。私の背後にあるのは、体育館の壁だけ――、
「……眞賀さん、なにしてんの」
ではなくて、隅で体育座りしている眞賀さんもいた。
「見学」
「なんで」
「マスクしてるからじゃない?」
理不尽な。眞賀さんは別に激しく動いたって、マスクしている限りバレないじゃん。
「安心して。私が後ろから見守っていてあげるから」
嬉しくないなあ。まあ、眞賀さんにはいくら見られたって問題はないんだけど。
「それと、その髪型私とお揃い」
そんなに嬉しそうに言われたって、私はちっとも嬉しくないぞ。
というわけで、私は試合の間、万が一にも内野に復活しないように、消極的なプレーを繰り返した。背後から熱い視線を感じながらね。
☆
放課後。保健室。
「で、感想は?」
「……疲れた」
綺麗に口紅を洗い落とし、眞賀さんは私の首に氷嚢を当てていた。
「本当に消えるの?」
「まあ、内出血だからね」
今回の『秘密』はキスマークだったわけだけど、なんというか、自分で秘密を守る方が、他人の秘密を守るよりも、遥かに気を遣う。
そのことを眞賀さんに言うと、
「まだまだだね、天城さんは」
いやぁ、別に眞賀さんの境地に達したいわけではないんだけどね。ただ、退屈な日常を変えたいと思っただけで。
「あ、そうそう」
「なに?」
急に何かを思い出したらしく、ポケットから携帯を取り出す眞賀さん。そんなものも持ってきてたのか。思った以上に不良なのかもしれない。
「キスマークはちゃんと消えると思うけど、今回の『秘密』は、永久保存だから」
そう言って、携帯の画面を見せてくる眞賀さん。私の首筋のキスマークが、ばっちり写っていた。
「え、何!? いつの間に撮ったの」
「ひみつだよ」
――弱みを握られてしまったか。