光沢のある黒い液体の入った壺(未鑑定)
「やあ『古き良き魔術師たちの時代』へようこそ。
もしダンジョンから持ち帰った未鑑定アイテムが御座いましたら是非、お立ち寄り下さい。
細剣、薬瓶、長盾、指輪、帽子、書物、革靴、御札、どんなモノでもすぐに鑑定いたします。
……おや。貴方の手にされているそのアイテムも付与道具かもしれませんよ?」
ダンジョン地下五階、通称『共同墓地』。
その東南に位置する丘陵地『なげきの丘』には一匹の大鬼がいる。
それはかつて人間だったものたちの成れの果て。
しかばねとなった後に、解体され、縫合され、ひとつの大きな肉体として再構成され、数々の呪式儀式を経て、仮初めの魂を与えられ生肉自動人形だ。
名を与えられてはいなかったが、探索者たちからは『なげきしもの』と呼んでいた。
◆
『なげきしもの』は憂鬱だった。
先程見つけた二匹の鼠を手のひらで潰して食べようとしたのだがちょこまか、ちょこまかと跳ね回って捕まらないのだ。
掴まえたかと思った傍から消えているのだ。
おまけに、身体のあちこちを小さな針で刺してきたり、小石のようなものを投げてきたりする。
無意味なのに。
何百回突こうが貫くことはできないのに。何百回ぶつけようが傷つけることはできないのに。
ああ鬱陶しい。
次第に気分が塞いでくる。
空っぽのはずの腹のなかに何かが満ちていく。
不満、憤怒、癇癪、不安、愁い、嘆き、悲嘆、 哀憐、憂鬱、沈鬱、嫉妬、怨嗟。それらが溜まり、交わり、濁り、淀み、穢れ……『呪い』へと変わろうとしていた。
◆
『なげきしもの』が身震いしながら、全身から黒い靄をくゆらせている。
身体のあちこちに継ぎ足された唇から瘴気を孕んだ吐息を吐き出しているのだ。
リンネはすぐに両耳を手で塞き、身構える。
前衛でおとり役になっていたソアラが退いてくる。そして同じように構えた。
この巨大なモンスターと闘うのはこれで七回目になる。
だからそれがこれから起こる事の前触れであることを知っていた。
うぉぉおおおおぉぉ。うわおんおんおんん。うえええんええんん。びゃああああああん。うぁわんわんんわん。おぎゃあああああん。うぎゃああんあん。うぉぉおおおおぉぉ。うわおんおんおんん。うえええんええんん。びゃああああああん。うぁわんわんんわん。おぎゃあああああん。うぎゃああんあん。
泣き声とも、叫びとも、断末魔とも、区別のつかない無数の声。それが空気を震わせる。
それは『なげきしもの』が身体のあちこちにある唇から紡ぎだす呪いの言葉--『呪詛の咆哮』。
リンネはすでに耳のなかには湿らせた布の切れ端を詰めていた。だがそれでも聞こえてくる。
歯を食いしばらなければ、意識が遠くなっていきそうだった。まともに耳を傾けてしまえば、意識を根こそぎ刈り取られ、正気を失うことになるだろう。
初めてこのモンスターと闘った際、これのせいで三日も寝込んでしまったことを思い出す。
でも同じ過ちは繰り返さない。
おおおん……おんおん……おん……。
声が次第に小さくなっていく。
『なげきしもの』に群生する唇がゆっくりと閉じていき、取り巻いていた黒い靄が薄れていくのをしっかりと見計らってから、手を離した。
よし。もう声は聞こえない。
ソアラの方に視線をやった。彼女がこちらにけて頷いてくる。
今が機会だった。『なげきしもの』は『呪詛の咆哮』を連発できない。これでまた暫くはただ暴れるだけだ。下地は十分に整っている。すでに三回以上の『呪詛の咆哮』を凌ぎながら、準備してきたのだ。
リンネは反撃の狼煙を上げる為、杖の先を、見上げた先にいる巨大な継ぎ接ぎだらけの大鬼へ向ける。
そしてゆっくりと噛まないように呪文を唱え始めた。
◆
『なげきしもの』は呻きを漏らした。
こんなにも世界がままならぬものだとは。
こんなにも満たされぬものだとは。
針を持った鼠と、石を投げてくる鼠は、どちらもまだ元気に動いている。
生き生きとしている。
ああ何というその輝き。何という生の謳歌。
狂おしい。恨めしい。口惜しい。
首をちぎり。
手足をもいで。
腸を引きずり。
肉を裂き。
骨を粉にし。
泥と混ぜ。
殺したい。
力いっぱいに地団駄を踏んだ。
あわよくば地鳴りで、鼠どもの鬱陶しい身動きが止まればという打算を込めて。あわよくば鼠どもを踏み潰せればという打算を込めて。
だが途中でよろめき転んでしまう。
躓いたわけではなった。いつの間にか左足が千切れたせいで、地面を踏み外したのだ。
見ると、足首を接合していたはずの糸が何本も断ち切れている。それは鼠の仕業に違いなかった。先程から、針を持ったほうが糸を少しずつ傷つけていたのを知っている。
怒りを込めて、僅かに視線を上げたところで、ふいに何かが目に入る。
光る羽虫のようなもの。
何だろう。
つまみそこねたそれは、胸に辺りにへばりつく。
どうやらそれは火のようだった。
◆
リンネの放った『火の球』が着弾。反撃を警戒して距離をとり過ぎていた為、威力は弱まっていたが、火は『なげきしもの』の胸のあたりに確実につく。そしてむくんだ肌をなめるように燃え広がっていく。
これなら巨体がすべて炎に包まれるのも時間の問題だろう。
何故なら『なげきしもの』の生気のない土気色の身体は、今や黒いてかてかと光沢のある液体で濡れいる。それは『古き良き魔術師たちの時代』にお願いして手に入れたひと壷分の油。
ソアラが注意をひきつけている間に、リンネが小瓶に詰めたそれを後方からひたすら投げつけた成果だった。
◆
『なげきしもの』は唸った。
黒煙を上げる炎は、払おうとしても何故か消すことができず、寧ろ全身へと広がっていく。後方にいる鼠げがこそこそと投げてきたものが身体に付着しているかららしい。
生肉自動人形はすでに死んでいる存在だ。皮膚感覚は殆どなく、熱いも寒いも分からない。火傷の痛みに苦しむこともなければ、煙に喉をやられることもない。だがこのままでは遠からず身体は焼かれ、大きな損傷を負うことになるだろう。
そうなれば何が起こるのか、よく覚えている。
それは全身を構成する部位――かつての生者だったものたちが等しく味わったことのある経験。
それは絶望で、虚無で、沈黙。
すなわち死だ。
『なげきしもの』は、それでもと思った。
ゆっくりと身を起こし、大地に突き刺さる身の丈と同じ高さの墓標を抜き放き、握りしめる。目の前には一匹の針を持った小さな鼠がいた。
それでもやるべきことは変わらない。飽くなき破壊と死の創造。それこそが生まれてきた意味であり、与えられた魂の課題。
ならば灰になるその前に、こいつだけでも道連れにしてやるまでの事だ。
◆
ソアラはしくじったと思った。
『なげきしもの』が獲物を構え出したので一旦、距離をとろうとしたところで転倒した。うっかり油に足を滑らせたらしい。
それが致命的な結果を招こうとしている事は、見上げた先を見れば明らかだった。
巨大な鋼鉄製の十字棒が今にもこちらに振り下ろされようとしていた。
◆
気が付くとリンネは駆け出していた。
後ろ髪を留めている髪飾りに触れ、魔力を込める。
それは彼女からもらった大切な宝物。
『守りの髪飾り』。見えない障壁を展開し物理攻撃を防御できる付与道具だ。
ソアラを助けよう。それができないなら身代わりになろう。大鬼の一撃を防ぐことはできないかもしれない。でもある程度の衝撃ならば和らげることができるはずだ。
それは以前までの臆病な性格の自分では考えられない行動だった。
半年前は、ただの蜘蛛に出くわした程度でも悲鳴を上げて逃げだしていたし、モンスターの出ないダンジョンの地下一階を歩きまわるだけで精一杯だったのに。
でも今はそうじゃない。
ソアラのおかげで、いつだって勇敢になることができた。暗いダンジョンも、手強いモンスターにだって立ち向かうことができるようになれた。
◆
僕は何でこんなところにいるんだっけ。
これから何をしようとしていたんだっけ。
迷宮都市を訪れたばかりの時のことだ。
ソアラはふと夜中に目が覚めて水を飲みながらよく自問することがあった。
夢にまで見た迷宮都市にこれたのに何をしても楽しい気分になれず、憧れの探索者になれたのにダンジョンに潜る日々はただただしんどいだけだった。
それはたぶんモンスターが手強すぎるせいで、手に入れるアイテムがしょっぱいものばかりなせいで、結果がでないから宿代が嵩んでいくせいで、要は自分の実力が足りないからだろう。
「どうすればいいと思う?」
瓶の水面に映る自分に問いかけるが何も応えてはくれない。
ただ曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
「……」
地面に頭を打ちつけたせいで意識がすこし朦朧としている。
辺りには土煙が立ちこめていた。周りがよく見えず状況がわからない。
でも探しているものはすぐに見つかった。
リンネはすぐ傍にいた。
ソアラの腹部に顔を埋めるようにして倒れこんでいる。自分が足を滑らせたせいで避け損なった『なげきしもの』の攻撃から助けてくれたのだ。
彼女が顔を上げ、うっすらと目を開く。
「―-」
何かを呟いた。
だが聞き取れない。そう言えば耳栓をしていたことを思い出して、慌てて外した。
「……アラ……大丈夫?」
「リンネこそ怪我は……?」
「えっとね……」リンネが起き上がり、身体を見回してから笑う。「へへ。掠りもしなかったみたい」
ソアラはほっと胸をなでおろした。
◆
『なげきしもの』は嘆いた。
自らの運のなさを呪う。
力を込めすぎた為か、身体を包む炎のせいか、振りかざした途中で左腕がちぎれてしまったのだ。
ああまたしても鼠を始末し損ねた。
絶望感が、徒労感が、挫折感が、敗北感が、無力感が、苛んでくる。
だがまだ片腕が残っていた。
◆
体の節々が痛い。手や、足元がてらてらと油で黒く汚れている。辺りに立ちこめるにおいは墓場の腐敗臭やら、油やら、焦げやらで最悪だ。早く帰って湯浴みをしたかった。でも気を抜くのはもうちょっと先だ。
これから何をすべきか。そんなことは誰かの答えを待つまでもなく決まっている事だ。
見上げた先には燃え盛る巨体--『なげきしもの』がいる。
まだ倒れる気配はない。低い呻き声を上げながら、ぎょろりと白く眼でこちらを睨みつけ、千切れていない方の腕を伸ばし墓標を握る。
またやるつもりなのだ。
ソアラは立ち上がり、足元に転がっていたショートソードを拾い上げると駆けだす。そして今まさに大地から引きぬかれようとしている巨大な墓標に乗り上がる。
駆ける。
燃え盛る大鬼の巨大な腕の上を伝いながら、『伝達』を行使。
それは毎日のようにリンネに指導して貰っていること。身体のなかにある魔力を対象に流し込むだけの極初歩的な魔術。手にしているショートソード――『炎の剣』を始動させる為に必要な条件だ。
成功率はだいたい百回に一回程度。
でもたぶん今ならその一回を引くことができる気がした。
ふと、あの頃、悩んでいた自分に教えてあげたいと思った。
以前よりもダンジョンの深い場所に進めるようになれた事。手に入れるアイテムもだいぶましになってきた事。生傷は絶えないけどモンスターとの戦いもかなり慣れてきた事。お金持ちにはなれてないけど宿代だけはちゃんと払えるようになった事。
それから--大事な仲間ができた事を。
意思が実現化する。
剣身が仄かに青白い光を放つ。
次の瞬間、かっとマグマのような熱を放ち赤く輝いたそれを、ギロリと動きこちらを捉える巨大な目に目掛けて突き刺した。深く深く埋める。そしてありったけの魔力を叩き込む。
◆
『なげきしもの』は涙する。
両目からは代わりに白い光が漏れている。全身が内部まで燃え尽きようとしている。与えられた身体が二度目の死を迎えようとしている。
肉体という檻が崩壊し、閉じ込められていた仮初めの魂が開放されようとしていた。
これでようやく眠れるのだ。『なげきしもの』は心から安堵した。
◆
燃え盛る巨大なモンスターの断末魔が次第に小さくなり、やがて途切れると、代わりに二匹の小さな鼠たちから歓声が上がる。
それは彼女たちにとって大きな勝利だった。
◆
鑑別証『油壺(粗悪品)』
調理、化粧、燃料など日常生活の様々な場面で使用されている油。ダンジョン探索などにも欠かせないランプやランタンなどの燃料用の場合、その原材料はオリーブなどの植物か、魚などのいきものから抽出されるものが殆どです。
ただこの黒く濁った液体はそれらとは別種の油のようです。
西国のはるか北、『燃えさかる海』という海域から自然に産出されたもので、恐ろしく長い年月を重ねて、海底の鉱物が液状化したものだとされております。
比較的大量に安価で手に入る品で、恐ろしく良く火がつくのでモンスターを攻撃する手段にも使えるかもしれません。ただ精製が非常に難しいらしく出回るその殆どが粗悪品となっており、悪臭を放つ黒煙が出る為、屋内での使用は避けた方が賢明かもしれません。
※化粧水としてご利用の場合は、品質の低いものは肌荒れの原因となりますので高級品をお求め下さい。また品質にかかわらず、食用としての使用には適切ではありません。
以上がソアラとリンネが♣の通行許可証を手に入れるまでの経緯である。
彼女たちが『なげきしもの』を生み出した管理者と出会うのはもっと先の話だ。




