野いばらの弟は菫を砂糖漬けにする
『ロサ・カニーナの弟』
それが僕につけられたあだ名である。
詳しいことは知らないし興味もないが、かつてこの王立アカデミーに通っていた育ての親ともいえる義姉の数々の奇行と生家をずたぼろにして捨て去ったという伝説が、触れる者を傷つける『野いばら令嬢』として残っていたらしい。
そしてその汚名なのか二つ名なのかわからない名前が、何世代も後に特待生枠で入学した僕へとつけられた。
勝手に付けて勝手におびえる、馬鹿馬鹿しいことこの上ない話だ。しかし正直なところ、勉強の邪魔になる人間が寄ってこないのは有り難いくらいだった。
友人などいらないし、一部を除き誰も名ばかり男爵の僕と社交なんてしたがらない。僕だって磨きたいのは魔法と錬金術の腕だけだ。そうしてさっさと卒業し、要職について育ててくれた義姉と義兄に恩返しをしたい。
二人は決して僕を甘やかしたりはしなかったけれど、血がつながっているかも定かじゃない僕を、学生のころからいずれこのアカデミーに入れるよう教育してくれた。
それがどれだけ大変なことだったか、当時の二人と同い年になった今なら解る。
十八歳で突然五歳の子持ちになるなんて、いくら義兄の実家が支援してくれたとはいえ正気の沙汰じゃない。
そんな正気じゃない二人のおかげで、今の僕がいるんだけど。
「ええと、どこまで書いたかな……」
いけない。意識を逸らし過ぎて貴重な便せんにインク染みができるとこだった。
特待生用の個室で、僕は今日も義姉たちに手紙を書く。彼女は宮仕えなど性に合わないと義兄ともども市井の錬金術師として暮らしているが、顧客はほとんど厄介ごとを抱えた貴族たちで実質的には貴族御用達の何でも屋のような有様だ。
いつもは授業が義姉さまに習ったことの復習でつまらなかったとか、次の休みは義兄さまに稽古をつけてもらいたいとか、そんなことを書くんだけど。
今日ばかりは少し違う。
『ロサ・カニーナの弟』に付きまとうようになった、害虫の駆除方法を教えてほしい、と相談しているのだ。
その害虫ことダフネ・グリエゴは課外授業でペアになったとき、たまたま遭遇した魔獣を僕が駆除したのを命を張って自分を助けたのだとでも思い込んだのか、やたらと行く先々に現れては馴れ馴れしく振舞ってくるようになった。
成績がトップクラスの僕とバランスを取るために組まされた分際で、いやだからこそ頭の中がお花畑なのかもしれないが。
しかもその害虫はなぜか男を誑し込む腕だけはあるようで、いつも何人もの取り巻きをつれている。そいつらとじゃれ合ってればいいものを、僕が腕を振り払ったり突き放してもなぜかあれの頭の中では「嫉妬している」「気を引きたくてつれなくしてる」と変換されるらしい。どうみても嫉妬されてるのは僕の方だし、嫉妬してるのもお前の周りにいる有象無象のほうだ。
おまけにその有象無象には婚約者持ちの連中までいるというのだから、本当に頭がどうかしている者同士で空の彼方にでも飛んでいってほしい。とういうかそういう魔法があるなら僕が使ってる。でも無い。割と真面目に図書館で縁切りの呪いでもないか探したが見つからなかった。
だから僕は最終手段として、義姉さまたちの知恵を借りることにした。
こんなことも片付けられないなんて恥ずかしいから言いたくなかったのだけれど、最近ではおちおち食堂で満足に食事もできないし、学業に支障が出ている以上背に腹は代えられない。
だって、この僕が。入学した当初から首位を独走していたこの僕が、今期の合同テストで初めて二位に落ちたのだ。
こんな屈辱があるだろうか。しかも例によってペアを組まされていた害虫は足を引っ張った自覚もなく「また頑張ればいいよ」「私と一緒で緊張しちゃった?」とまでぬかしてきた。何度その口を土で塞いでやろうかと思ったことか。
「……つきましては、この異常者への対策についてなにかアドバイスをもらえないでしょうか。この世で最も貴女を敬愛する弟――――ルシオ・シルベストレより」
できた。あとはインクが乾くのを待つだけだが、その時間も惜しいので風魔法を使おうとした、その時だった。
窓が外からノックされた。
ああ最悪だ。悪いことのタイミングというものはどうしてこうも重なるのか。無視してやろうかと思ったがそうなると後が面倒なので、渋々手紙が飛ばされないよう脇によけて席を立つ。
閂を外して窓を開け放つ。途端に、晩春の夜風が舞い込んでくる。それに靡く金色の髪も。
「酒臭い」
「敏感な奴だな。シェリー酒の一つ二つで」
「それが杯か瓶かで話が違ってくるな」
「まぁそういうな、入れてくれ。さすがに冷えてきた」
柘榴の実のように紅い瞳が弧を描く。
僕が酒臭いのは嫌いだと分かってて、毎晩のように外で遊びまわってはこうして堂々と人の部屋を玄関代わりにする。
こいつがこの国の第三王子で、僕以上の悪知恵もちじゃなかったらとっくに締め出しているところだ。
「いつか木から落ちて無様を晒すぞ。レオカディオ」
「そうしたらお前に突き落とされたとでも言って道連れだ。ルシオ」
本当に最悪だ。僕の周りにはこんな奴らしかいない。
僕の部屋の窓は大きな樫の木が近くまで太い枝を伸ばしているので、その枝を伝ってくればマナーハウスの鍵が閉められた後でも僕の部屋を経由して中に入れる。レオカディオは兄王子にこのことを教わったらしいが、代々の王族にはそんなことばかりが伝わってるのか?
「また麗しの姉上に手紙を書いてたのか?」
「読んだら燃やすぞ」
「俺を?手紙を?」
「知りたいか?」
にっこり笑ってやるとレオカディオが両手を挙げる。最初から素直にそうしてればいいものを。
「って、おい酒臭い体で人のベッドに乗るな!」
「ケチケチするなよ。王族直々に冷えたシーツを温めてやってるのに」
「お前がそう言う紛らわしい言い方をするから、馬鹿な誤解が増えていくんだよ……!!」
「誤解が増えればダフネに追いかけ回されずに済むんじゃないか?」
「僕の損害が増えるだけだろうが!」
そう、毎回毎回こいつが真夜中に僕の部屋から出てくるせいで、それを目撃した寮生が僕は第三王子のお気に入りだとかいう脳みそにおがくずでも詰まってるんじゃないかと思うような噂までたっているんだ。
マナーハウスは成績優良者だけが集められてるという前触れだったのに、信じた僕が馬鹿だったのか?いや、こればかりは僕のせいじゃないだろう。
義兄さまほどの肉体美をもつ人物だったら僕ですらぐらりと来てしまいかねないが、こんなひょろっちい柳みたいな奴に誰が身を許すものか。
「とにかくとっと出てけ!寝坊しても起こさないからな」
「やれやれ、友達思いなやつだ」
誰が友達だ。誰が。
強いて言うなら成績上位者同士の腐れ縁だ。こんなやつが僕と首位争いをしているだなんて信じられないが。
ああ、首位争いと言えば、あともう一人。
レオカディオを追い出しながら、同じマナーハウスの中でも、女子棟の見える窓へ何気なく視線を投げた。
あそこに、今回の合同テストで、僕を追い抜かした人物がいる。
数日後、義姉さまから返事が届いた。あちらの近況を報せる内容と、そして僕が一番知りたかったあのダフネへの対策は。
"仲間を見つけなさい"
「……これだけ?」
僕は中庭の片隅で頭を抱えてしまった。仲間。仲間ってなんだ。あの害虫女の被害に遭ってる者同士で協力しろということ?でも僕並の面倒を抱えている被害者なんて――――
「待ってイポリト。この前のノートはどうしたの?そろそろ返してもらわないと私……」
「ああ、悪いヴィオレタ。ダフネが見たいっていうから貸してるんだ」
「!?彼女に私のノートをあげたのっ?」
「あげたなんて……ちょっと貸しただけさ。ダフネが今回の課題で困ってるみたいだったから」
「イポリト、すぐ返してもらって。でないと私のレポートが間に合わないわ……!」
――――いたな。
震える声で必死に言葉を連ねているのはヴィオレタ・イバニェス子爵令嬢。相手はイポリト・グラシアンで同じく子爵令息。二人は婚約者同士だが、イポリトはあのダフネに傾倒している取り巻きの一人だ。
で、僕がなぜこんなどうでもいい個人情報を知っているかというと。
「君はそれぐらいどうにでもなるだろヴィオレタ?この前の合同テストだって、ダフネを差し置いて首位だったじゃないか」
「あれは……!ペアで協力し合う必要があって、私だけの力じゃ……」
そう、イバニェス嬢は僕やレオカディオと首位争いをしている一人だ。そしてなるほど、今回のノートの行方と、その理由も大体は読めた。
大方あの害虫が首位を逃した腹いせに、イバニェス嬢の婚約者であるグラシアンにねだったのだろう。今回の植生観察記録をまとめたノートがないと、今回の課題である観察記録レポートが書けないと知った上で。
まったく、本当に、花へよくつく害虫だ。
「とにかく貸したばかりのものをすぐ返せなんて言えない。男の沽券に関わる」
婚約者の成績にも大いに関わるんだがな。
「それと、次の休みの予定だけどダフネからお茶会に誘われてしまったんだ。急に欠席者が出て穴埋めをしなくちゃいけないらしくて……」
「そんな……!」
「そういうわけだから、本屋巡りは悪いけどまたの機会にしてくれ。それじゃ」
「イポリト、待って、そんな――――!」
なんとまあ、絵に描いたような。あまり下品な言葉を使うなと義姉さまに言われてるけど、こういうやつをきっとファッキソ野郎というんだろう。
植え込みの陰にいる僕に気づいた様子もなく、グラシアンはそそくさとした足取りで立ち去っていった。
さて、僕は少し背を伸ばして植え込みの陰から声のしていた方、残されたイバニェス嬢の様子を窺う。
彼女は手を差し出した姿のままふるふると震えていたが、不意に突き出していた手を懐に入れると小さなメモ帳を取り出して、一心不乱に何かを書きつけ始めた。
おや、これは、これは。
僕が知る限りのイバニェス嬢はいつも本を抱いて、俯きがちに人を避けて歩いているイメージがあったが、あの黒髪で隠された顔に浮かんでいた表情はなにも気弱な少女のそれだけでもなさそうだ。
ともあれ、せっかくの機会を逃すわけにはいかない。僕は便せんを封筒に、封筒を懐に仕舞って立ち上がると、あえて靴音高くイバニェス嬢の方へと歩いて行った。
「!」
「こんにちは、イバニェス嬢」
ごきげんよう、とは言わなかった。言うまでもなく、彼女の気分は最低最悪だろうから。
彼女は警戒を露わに、さっとメモ帳を隠して抱えていた本を持ち直した。それはそうだろう。あんなことがあった直後に、ろくに会話したこともない、おまけに害虫へ追いかけ回されてる『ロサ・カニーナの弟』が出てきたりしたら。
だから僕は最大限、義姉さまに教わった通りの懐柔術を試みた。
すなわち、緩やかに穏やかに微笑んで見せること。決して言葉は焦らず、ゆっくりと。
「その気はなかったんだが、手紙を読んでたら君たちの会話が聞こえてしまってね」
「ッ……そう、ですか」
イバニェス嬢の頬に朱が差す。まあ、あんな会話を聞かれてまともな神経の持ち主だったら恥ずかしいと思うことだろう。
「うん。だから、どうだろう。君ほどの出来じゃないだろうけど、僕の観察記録ノートを使ってレポートを書いてみる、というのは」
「え……!?」
「どうせ先生たちも、提出されるまでどのサンプルを観察してたかは知らないはずだ。それに君は薬草学に通じてるから、僕のノートでもある程度想像で補えるだろう?」
「……ど、どうしてそれを……」
「それ?」
「わ、たしが、薬草学が得意って……」
「それはもちろん、ライバルの得意分野は把握しておくべきだろう?」
なんてことない問いかけに、肩を竦めてみせる。けれどそれがイバニェス嬢には意外だったらしく左右にさ迷わせていた視線を、初めて僕に向けた。上目遣いですこし見えにくいけど、なるほど、彼女の瞳は綺麗な菫色だ。
紫水晶なんかとは違う、瑞々しい菫色。
「それに、悔しくてね」
「くやしい……?」
「優れた知性の持ち主が、全く無関係な物事でそれを発揮する場を奪われるのが」
「!シル、ベストレ――卿……」
「ルシオでいいよ。同級生に卿で呼ばれるのはさすがに慣れない」
意外なことに、彼女も僕がこの年で男爵位を継いでいることを知ってたようだ。
でも、ここからが大事だから、僕は一足飛びでその距離を詰めさせてもらう。先ほどの比ではなく戸惑った様子で間を左右に振らせる彼女の前に立ち、僕はわざとその俯きがちな顔を覗き込んだ。
「!」
「ひゃっ……」
おや、これは。いや、いまはともかく。
「呼んでみて。ルシオ、だよ」
「る……る、ルシ、オ……」
「うん、よくできました」
僕はにこりと微笑んで、覗き込んでいた顔を引っ込めた。あまり間近で見つめるのも失礼だからね。
「ノートは今日の放課後、マナーハウスの談話室で渡そう。それでいいかな?」
「え、あ、はい……」
勢いに任せて、ちゃっかりとノートを渡す約束も取り付けて、と。
マナーハウスは成績上位者しか入れない聖域だ。あの害虫もさすがに邪魔はできないだろう。
こくこくと頷くイバニェス嬢に、ふと思いついたかのように追撃する。
「僕もヴィオレタと呼んでもいいかい?」
「えっ!?」
「いや、さすがに馴れ馴れしかったかな……」
「あ、あ、えっと……その」
「うん?」
「ど、どうぞ……ご迷惑で、なければ」
「迷惑なんて」
君の方が被る確率の方が大きいのに、とはいわないけれど。
「じゃあこれからよろしく、ヴィオレタ嬢」
「は、はい。よろしくお願いします。ルシオ……君」
計画の第一歩としては順調じゃないかな。
まだ『仲間』とはいえないけど、共通の敵がいる者同士仲良くやっていけばいずれは――――と思っていたのに。
「なんでお前がいるんだよレオカディオ」
「そりゃあもちろん、お前が学年首席をナンパしたなんて面白い話きいたら顔を出さないわけにはいかないだろ」
「ナンパじゃない。あとヴィオレタ嬢に必要以上の緊張をさせるな」
「あ、あ、ええ、と……」
「なんだよお互い同じ学年の同級生で仲良くやろうってだけなのに」
仲間外れなんてさみしいぜ、とわざとらしく泣きまねをするもんだから、ヴィオレタ嬢が困ってる。そもそもノートを貸すだけだから渡してちょっと話してすぐ解散、のつもりだったのに。
第三王子がいるせいで、無駄に気を利かせた従僕たちが紅茶やら茶菓子やらを持ってきてアフタヌーンティーが始まってしまったじゃないか。入学中は自分のことは自分でという教訓はどこへいった。早寝か。
ともかく出てきてしまった茶菓子に罪はない。仕方がないので僕はハーブとレモンピールの練り込まれたスコーンを取り上げて割ると、そこにクロテッドクリームを乗せて齧りついた。美味い。マナーハウスの談話室特権の一つに、茶菓子の配布というのがあるのだが、しっかり温め直されたスコーンは例によって食堂で害虫に絡まれろくに食事ができなかった胃を慰めてくれた。
「その様子じゃ、今日もダフネに追いかけ回されてろくに食べる時間もなかったみたいだな」
見透かしたようなレオカディオの言いようにイラつくが、事実なので黙っておく。
小ぶりなスコーンは三口程度ですっかり胃の中に納まった、割ったもう片方には何をつけようか。
「あ、あの。サワークリームとディルもおすすめです……」
「!それは美味しそうだ。ありがとう。試してみるよ」
ヴィオレタ嬢の控えめな声に笑顔を返すと、横から口笛が飛んでくる。うるさい。
「ヴィオレタ嬢、悪いことは言わないからこいつに貸しを作らない方がいいよ」
「えっ……」
余計なことを言うなと思ったが、口の中がスコーンで塞がってる。
「些細な約束で後々何を要求されるかわからない。根っからの錬金術師だからね」
「まるで僕がお前に対価を求めたことがあるような口ぶりだな、第三王子殿」
スコーンを飲み込んで、口の中の水分を紅茶で補給しつつ釘をさす。
「俺に対するそれは貯金だろう?いずれ引き出し時がくる。まあ、それぐらいはいいさ」
レオカディオはふらつかせた指先を、結局僕と同じハーブとレモンピールのスコーンに据えた。けれどすぐには割らずに、手の中でころりと弄ぶ。王族が食べ物で遊ぶな。
「――――けど、何も知らないいたいけな令嬢をそのいばらの腕で絡めとるのは見過ごせないなぁ」
ああ、だからこいつは最悪だ。敵でもないが味方でもない。場を乱して遊ぶ根っからのトリックスター。
ヴィオレタ嬢の方を見ると、相変わらず緊張した面持ちのまま、少し何かを考え込むような表情をしていた。僕たちの間のテーブルには、ヴィオレタ嬢の持ってきた本と、僕の持ってきたカモフラージュ用の本とノートが乗っている。両者はまだ交換されていない。表向きは興味のある本を貸したという体にしようと思った僕と、ヴィオレタ嬢の考えた一致してたのには驚いたが。
彼女は少しの沈黙を置いて、口元にあてていた手を下げると、レオカディオの方へ――ためらいがちながらも、真っすぐに顔を向けた。
「あの……それのなにがいけないことなのでしょうか?」
「ほう?」
レオカディオの手がスコーンを割った。ヴィオレタ嬢の言葉の先を促しながら、その手元は器用にクロテッドクリームを控えめに塗る。そう言う所作だけはさすが王族というだけあってか、上品そのものだ。
「私は、この世に……対価のない取引はないと思っています。もし対価が求められなかったとしたら、差し出されたものを受け取ること自体が、私の支払うべき対価なのだと思います」
レオカディオの紅い瞳が興味深げに細められた。
僕はと言えば、レオカディオに向けられたヴィオレタ嬢の、あの菫色の瞳に見入っていた。
彼女の言葉は、取引というものの本質を突いている。そして、その言葉の意味するところは。
「ですから、ルシオ……君がノートを貸すと申し出てくれたとき、きっとこれは、私が受け取ることが……対価になる取引なのだと思いました」
ヴィオレタ嬢の菫色の瞳が振り返る。控えめだけれど、揺るぎない。瑞々しい青紫の双眸は。
「――――ちがいますか?ルシオ君」
なにもかも、最初から見抜いていた。僕の思惑も、何もかも。
その上で彼女は頷いたのだ。自分の意思で。
レオカディオがスコーンに齧りつく音がする。これ以上何も言う気はないというかのように。
僕は無意識のうちに、彼女の前に膝を折りそうになるのを戒めることで精いっぱいだった。だから返事が遅れてしまった。なぜなら僕は、彼女のその青紫の奥に、敬愛する義姉さまとはまた違う、知性の輝きというものを見てしまったから。
「……ああ、君のいう通りだ。ヴィオレタ嬢」
そして僕の敗北だ。かくなる上は、何もかもをさらけ出すほかない。
「僕は君とのつながりが欲しかった。グラシアンが害――グリエゴ伯爵令嬢に傾倒して迷惑をこうむっている君となら、お互いのためになれる関係を結べると思ったから」
「……それは、私がイポリトからグリエゴさんを引き離したい、と思っていると思ったから、という理解であってますか?」
「合っているよ」
そこでようやく、ヴィオレタ嬢は湯気の勢いが緩くなった紅茶にクリームと砂糖を注いで、静かな手つきでそれを混ぜると、ソーサーごと取り上げた。
一口。洗練された所作で喉を潤した彼女のカップが、ソーサーに戻される。
「それは、勘違いですね」
「……と、いうと?」
「私は、グリエゴさんがいてくださらないと、困るんです」
……ああ、なるほど。
ますます興味深そうに彼女を見つつ二つ目のスコーンに手を伸ばすレオカディオをしり目に、僕もまたティーカップとソーサーを取り上げて、乾いた喉を潤した。
「君は――――婚約破棄を狙っているのか」
「……ええ」
談話室に僕ら以外がいなくて幸いだった。尤も、レオカディオがいる時点で大抵の寮生は恐れをなして引っ込んでしまう。ただ信じがたいことに、あの害虫の取り巻きの一人にもマナーハウスの寮生がいるのだ。今頃は食堂であれを囲んでいるだろうし、不在を確認済のため問題はないのだが。
それにしても、そんな大胆な計画を大人し気なヴィオレタ嬢が狙っていたなんて、一体だれが思いつくだろう。
婚約破棄。これは『婚約不履行』という民事訴訟すら可能なスキャンダルであり、裏切られた側から行える最大の反撃手段だ。
「イポリトとは幼なじみで、婚約には両親の意向もありました。外で走り回って騎士を目指すイポリトと、本好きで内向的な私であればお互いの足りない部分を埋め合わせることもできるだろう、と……でも」
でも、それは当人たちの努力があってのことだ。
片方だけの努力では、どうしようもできない。
「アカデミーに入学して……グリエゴさんと出会って、イポリトは変わりました。いえ、本当は私のような引っ込み思案な人間より、イポリトの活躍を声に出して応援したり、賞賛してくれるグリエゴさんのような女性の方が、彼には合っていたんだと思います」
「なるほどな、しかし……」
「ええ。……だからといって、私が蔑ろにされていい理由には、なりません」
レオカディオの相槌に返されたヴィオレタ嬢の震える声には、今まで彼女が堪えてきたのだろう怒りや悲しみが滲んでいた。
「イポリトにも訴えました。両親を通じてグラシアンのお家にも……」
「でも、状況は変わらなかった」
僕の言葉に、唇をかみしめたヴィオレタ嬢が一つ頷く。
「だから最後の手段を選んだ。君が記録していたのは、グラシアンの行動だね?」
「それも、ご覧になられていたんですね」
微笑みに苦いものを滲ませたヴィオレタ嬢からは、しかし否定の言葉は出てこなかった。相手の不貞行為の記録は、裁判の際になによりの証拠になる。
彼女はたった独りで、戦う準備を進めていたのだ。よっていざ戦うときに敵に逃げられないよう、あの害虫はあくまでグラシアンの傍にいてもらわなくてはいけない。
「……ここまでお聞きになって、このような女に、ノートの貸し出しを後悔なさるようでしたら――――」
「いいや、是非受け取ってほしい」
僕はヴィオレタ嬢の、いやヴィオレタの言葉を食い気味に遮って、彼女の持ってきた本と僕の持ってきた本とノートの位置を入れ替えた。
ぱちりと瞬いた彼女の瞳は、当惑気味に揺れて僕を見ていた。僕は立ち上がると、二人を遮るテーブルを迂回してあらためてヴィオレタの前に立つ。
そして躊躇なく、彼女の前に跪いた。ソーサーを手放した彼女の右手を取りながら。
「その代わりに、約束してほしい。僕が君の婚約破棄に一役買うことができたら、次の婚約者候補として婚約を前提に僕と交際する、と」
「ぇ………えっ!?」
「君に心を奪われた男の一人の愚かな願いを、どうか聞き届けてくれないか」
「そういうことなら俺も立候補するかな」
「すっこんでろレオカディオ――――どうだろうか、ヴィオレタ嬢……いやヴィオレタ」
「そ、そんな、あの、わたし、そんなつもりじゃ……」
「ああ、君が僕に恋情なんて髪の毛先ほども抱いていないことはよく解ってる。だが僕は君という存在に心を奪われてしまった。だから、考えておいてほしい」
こんなにも湧き上がる感情のまま言葉を紡いだのは初めてのことだった。こんなにも高揚した気持ちにさせられたことだってなかった。
けれど今、潤んだ菫色の瞳に映っている男が僕一人だけであるということがただ只管に嬉しい。
僕はヴィオレタの紙をめくり過ぎて、少しかさついた指先に口づけを落とした。
ひゃい、とややひっくり返り気味の返事が聞こえて、少しだけ笑ってしまった。
「それで、どこまでやるつもりだ?」
「どこまでも、徹底的に」
僕は最高級の蜜蝋とオリーブ油、それにハーブの精油たちを並べながら鼻歌交じりに答えた。
相変わらず僕のベッドを寝椅子と勘違いしているレオカディオについても、いまは大目に見てやるという寛大な気持ちが湧き上がっている。
恋は恐ろしく、破壊的で、偉大なものだと義姉さまに教えられていたが、なるほど、これはたしかに強力で恐ろしい魔力を持っている。
ヴィオレタのために、今の僕はどこまでも残忍になれる自覚があると同時に、彼女のために手ずからハンドクリームを練ろうなどという他者に抱いたことのない愛情まで感じているのだから。
「墓穴がいくつできるかな」
「知ったことじゃない――――それよりもレオカディオ」
「なんだ?」
金糸のような髪を無造作に巻き込みながら、頬杖を突いたレオカディオが僕の方へと笑みを向ける。僕の口先から出る言葉を、既に知っているみたいに。
「引き出し時だ。手伝ってもらうぞ」
「仰せのままに?野いばらの錬金術師殿」
肩越しに言質をとった僕は、精油たちの小瓶へと向き直るのだった。
ああ、僕はまだヴィオレタの好みの香りすら知らない。知らないということは、話しかける口実になるということだ。それがこんなにも、心弾む出来事だったなんて。
けれど明日からはしばらく、僕はその楽しみをマナーハウスの中にだけ、封印しておかなくてはいけない。
害虫は叩き潰す。ただ少々、計画は変更する。
「ルシオ~~~」
朝から胸焼けしそうな甘ったるい声が、許した覚えもない僕の名前を呼ぶ。振り返る必要はない。どうせ勝手に寄ってくる。
案の定ぱたぱたと軽い足音が聞こえて、僕の通学鞄を下げた左腕が徐に引っ張られた。
「もうルシオったら!レディが声をかけてるんだから、立ち止まって挨拶するのがマナーでしょお?」
はしたなく脂肪の塊を腕に押し付けてくる輩に、マナーを説かれるいわれはない。僕はわざと大きなため息を吐いて、その腕を振り払った。「きゃん!」などという鳴き声と一緒に「ダフネ!」と取り巻き連中がざわめく声が聞こえるが、毎度の茶番なので気にはしない。
「それは失礼しました。グリエゴ伯爵令嬢、ですが僕もあなたに名前を呼ぶことを許した覚えはありません」
「もう、ルシオったら……だってシルベストレ男爵、なんて長ったらしいじゃない。私とあなたの距離には相応しくないわよ」
月と太陽以上の距離には十分過ぎるほど短いと思うが。
自慢らしいストロベリーブロンドの巻き毛とリボンを揺らして、小首を傾げながらこちらを覗き込んでくる淡い青の瞳。たしかに、蝋人形にして売ってやればいくらか値はつきそうな容姿ではある。
ただ、必要以上の自信と自分が選ばれると信じて疑わない高慢さがにじみ出てる表情が気に喰わない。どうせたかが男爵程度どうにでも出来る、と思ってるからだろうこその振舞いも。グリエゴ伯爵が娘に甘いのは社交界でも有名だ。甘さが過ぎて脇が甘くなっているのも。
「ですが、それがあなたの口にしたマナーです」
「そんなつれないこと言って……解ってるんだから」
「何をでしょうか」
「私の気を惹きたくて、そんなこと言ってるってこと!」
「……失礼します」
この程度で十分だろう。いつもなら腕を振り払った時点で立ち去ってるが、今朝はこの妄言に少し付き合ってやった。露骨すぎる態度の変化は警戒を招く。こいつに限ってはそんな心配をしなくてもよさそうだが、一応は。こいつというよりもその周りの連中のほうに警戒されたら面倒なんだ。
この後の計画のためには。
教室についたら講義がよく聞こえる席を確保する。すると、当然のように僕の右隣を害虫が、その周囲をクラスの同じ取り巻きどもが埋めてくる。さらに遅れて入ってきたレオカディオ――――と、俯きがちに入ってきたヴィオレタ。二人で来たのか?レオカディオのやつ。普段は興味がないくせに、人を引っ掻き回せると知った途端にこれだ。
そして僕の左隣を、当然のように埋めてくる。「イバニェス嬢も来るといい」なんて、さも親し気に言いながら。
恐縮しきりながら、ヴィオレタがレオカディオの隣に座る。僕は左右が地獄だというのに、この格差はなんだ。
じろりとレオカディオを睨むと、奴はさも楽し気に笑みを深めて見せた。この後存分にこき使ってやるという思いを新たにしつつ、僕は右側にぴたりとくっついてくる害虫の方を見やった。
「グリエゴ伯爵令嬢、近すぎます。ノートが取れません」
「あん、そんなつれないこと言わないでルシオ。ノートなんて他の人に取らせればいいじゃない」
「あなたはそれでいいかもしれませんが、僕は自分のノートは自分で処理しますので」
「もう、お堅いんだから……」
「それに、あなたの現在の成績を見る限り、その取らせたノートが役に立っているとも思えませんが?」
「ッ口が過ぎるぞシルベストレ!」
「シルベストレ卿、です。あなたたちと違って、僕はすでに爵位持ちであることをお忘れなく」
恐らくは当のノート取り役なのだろう、眼鏡をかけた男子生徒はたしか伯爵家の息子だったか……これでマナーハウスの一員だというのだから、嘆かわしい。
親が城の要職に就いているから、次期宰相かなどとも噂されているらしいが、一度も僕ら三人の成績争いに食い込めない分際で笑わせる。
「グリエゴ伯爵令嬢。どうせノートを取らせるなら、もっと優秀な人材を採用することをお勧めします」
「そんなこと言わないであげてルシオ、クレトも頑張ってくれてるのよ」
クレト。ああ、たしかそんな名前だった。
「では、僕を加える前に、満足に自分で取ったノートを献上する能すらない人間を除かれては?たとえば――――」
「ッ!!」
僕はそこで、意味深長な視線を害虫の後ろの段の席、護衛気取りのそこに居座るグラシアンへくれてやった。
さすがに心当たりのある人間の反応は違う。すぐに耳まで赤くして何か言おうと立ち上がった、ところへ、丁度先生が入室してきた。
着席なさい、とグラシアンを含む席に着いていなかった生徒たちへ鞭のような声が飛ぶ。
種は撒かれた。さて、次の手を打とう。
魔法学と建国史についての授業が終われば、次は男女が分かれての授業だ。女子は保健、男子は剣術。といっても、男子の剣術で負った怪我を、女子が保健で学んだ応急手当などで対応する、という前提なので、授業自体は同じ訓練場で行われる。
僕は軍人にも騎士にもなるつもりはないから、ここに関してははっきり言って手抜きしていた。
けど、今回ばかりは違う。
「シルベストレ、卿」
「なにか?グラシアン君」
木剣を手にしたグラシアンが、解りやすい殺気を滲ませて僕の後ろに立っていた。
「俺と勝負しろ」
「なんのために?」
「頭でっかちの奸狐はダフネに必要ないと証明してやる」
「おやまあ……」
婚約者がいながら――――こんなにもわかりやすく馬鹿げたことを口にできるとは。期待以上の馬鹿さ加減だ。それと同時に、僕の腹の奥底で青い火のような感情が点った。
そう、婚約者が、ヴィオレタがいながらこんなことを僕の前で口にできるとは。
「どうした。恐れをなしたか?」
自分の優位を確信しているのだろうグラシアンが、肩越しに自分を見やり黙ったままの僕を鼻で笑う。
「待て待て、ダフネ嬢の隣席をかけての勝負だと?」
ここで、場を掻きまわすことが大好きなレオカディオが顔を突っ込んできた。
あの長ったらしい金髪はリボンで結わえて、木剣で肩を叩きながらグラシアンの顔を覗き込む。
「そんな大一番で、明らかに自分が優位な勝負を挑むというのは――――どうなのかね、イポリト」
「レオカディオ殿下、しかしこいつは……!」
「まあ落ち着け。ご婦人をかけての勝負に剣術を用いるのは悪くないさ。ただそれだけというのは不公平というものじゃないか?」
朗々としてよく通るレオカディオの声が響く。当然、離れた場所で保健の授業を受けているだろう女子たちにも伝わっているのだろう。こいつは王子より興行師にでもなった方がいいと思う。
周りでペアを組んで手合わせをしていた生徒たちも、いつの間にかレオカディオの口上に載せられて僕らを囲んで様子をちらちらと見ているのがわかった。
「ッでは、殿下はどのような勝負であれば公平だと」
「それはもちろん、剣術と文筆だ!剣術勝負の結果と、文筆の技を競ってダフネ嬢にその思いの丈を綴ったラブレターを書いて、彼女自身に判定してもらう。これなら両方の得意分野で実力を発揮できるだろう?――――どうだルシオ」
「僕に利のない話ですが」
「そうか?今朝俺ははっきりと聞いたぞ "僕を加える前に" 、とお前が言ってるのを。最近ではさすがのお前も、ダフネ嬢が憎からず思えて来たんじゃないのか?」
「…………」
解りやすく眉を寄せてみせると、勝手に勘違いした周囲がざわめいた。
それと同時に、グラシアンから感じる殺気も増した。本当に解りやすい奴だ。
「お前……散々ダフネにひどい態度を取っておきながら……!」
「……君だけには言われたくない台詞だな」
「なんだとッ!?」
「あーあーそこまでにしろ。それで、どうする?この『公平な勝負』に乗るのか乗らないのか」
「ッいいでしょう、俺は乗ります!」
「ルシオ?」
「……解りました。いいですよ、受けて立ちましょう」
「そうこなくちゃな!よし、審判は俺がやってやろう」
完全に面白がってる顔でレオカディオが笑みを深めた。
気づけば保健の講義が終わったのか、女子たちが剣術訓練場を取り巻いていた。その中には当然――――ヴィオレタがいる。話がある程度聞こえていたのか、不安を露わにした顔でぎゅっと両手を握りしめていた。
その表情は、グラシアンではなく、僕のためのものだろうか。
そうであればいい。そう思いながら、僕はグラシアンと対峙し木剣を構えた。木剣の切っ先を、レオカディオが握る。
「ダフネの目の前で叩きのめしてやる……!」
「出来てから言え」
「始め!」
体格は僕と比べれば、グラシアンの方が圧倒的に優位だ。だが僕は、体格でも腕力でも敵わない相手との戦闘に慣れている。
僕の育ての親の一人である義兄さまは、いずれ義姉さまを守れる男になりたいなら、この程度はこなせと容赦なく僕に稽古をつけてきた。体ができ始めるまではひたすらに感覚と体幹を磨く訓練を。木剣を振るえるようになったら、その素早い動きに対応する訓練と基礎を。
そして今は、義兄さま直々に実践稽古をつけてもらっている。
あのしなやかな野獣のような動きに比べれば、型通りのグラシアンの動きなど読むのすら容易い。
勢いよく振り下ろされる切っ先が弧を描き、最もグラシアンから離れる瞬間にその横っ面を全力で右へ弾く。無駄に力の入った一撃が往なされ、バランスを崩したグラシアンが、僕に向かって右肩を差し出すような体勢になったところを逃さず、僕は右へと打った遠心力を加えた一撃をその肩へ叩き込んだ。
木剣が、軋んだ音をたてる。
「ぐァッ……!!」
「そこまで!」
レオカディオの制止と共に、どよめきがあがった。いつも手抜きでそこそこの成績しか出してこなかった僕が、剣術では一、二を争うグラシアンを下すとは誰も予想していなかったのだろう。
木剣を取り落として、肩を押さえ跪いたグラシアンを見下ろしていると、駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「イポリト!」
僕の傍らを通り過ぎていく、靡いた黒髪から香る薬草の匂い。今は手に入らないそれを、僕はグラシアンの傍でスカートが汚れるのも気にせず跪くヴィオレタをただ見ていた。
公衆の面前で他の女にかまけた結果、献身的な婚約者に看護される気分はどうだ?
僕は腹の奥底に燃える青火がわずかに勢いをなくしたのを感じつつ、ヴィオレタからの一瞥に一礼をもって応えた。剣術の試合のあとに行う、決まり切った礼のように。
「ルシオー!」
そして自分に向けられる、黄色い声へ無表情のまま振り返る。駆け下りてきた害虫は興奮気味に僕の腕を絡めとり、媚びも露な笑顔ですり寄ってきた。
「すごいわルシオ!あなたがこんなに強かったなんて……!」
「相手が僕を侮り過ぎていただけです」
実に虚しい。けれど、これで種は芽吹いた。後はただ、水を注ぐだけ。
「――――あの、これは……?」
「僕が調香した香料なんだ。三つまで絞ったのだけれど、どうしても決めきれなくて……よければ、一番好みのものを選んでくれないか」
あの剣術試合から一週間が経とうとしていた。僕は借りていた本を返す、という名目で食後自由時間、ヴィオレタをマナーハウスの談話室に呼び出すと、茶褐色の遮光小瓶を並べた。
ヴィオレタは戸惑いながらも、それぞれの小瓶を開けて手で仰ぎながらその香りを確かめていく。
「ええ、と……これが、一番……好い香りだと、おもいました」
「それか。ラベンダーベースのものだね。君もラベンダーは好きなのかい?」
「え、ええ」
「よかった。気に入ってくれるものがあって」
青紫の蝋を垂らしておいたそれを手元に引き寄せ、懐のポケットへしまう。残りはサイドのポケットへ。
「それで君が貸してくれたこの本だけど――――」
「あ、はい」
「――――僕はこのシーンが一番面白かったよ」
賑わう談話室の中で、彼女だけに見えるように開いたカバーとページ。
そこにあったものを見て目を見開いた彼女の前で、すぐに本を閉じると、僕はそれを差し出した。
「君の課題の参考になればいいんだけれど」
「……はい、とっても。きっと、参考になります……ありがとう、ございます」
受け取った本を抱きしめた彼女の手が、微かに震えていた。
その手をとって、温めてあげたいと心の底から思った。それが、今はかなわないことでも。
やがて社交シーズンに入り、アカデミーも夏季休暇を迎える頃。
ヴィオレタ・イバニェス子爵令嬢による、イポリト・グラシアン子爵令息との婚約破棄に基づく民事裁判が開かれた。二人の婚約は両家の合意から始まったものだから、その契約履行の確実性はまず問題がない。またグラシアン側の不貞の証拠となったのはヴィオレタが詳細に記した彼の素行、およびダフネ・グリエゴ伯爵令嬢にあてたラブレター、さらには第三王子レオカディオの証言による『決闘』と僕自身という証人に、その目撃者の多さだった。
グラシアン側も足掻くつもりのようだったが、あまりの証拠と証人の多さに初公判で即結審という異例の素早さで、莫大な慰謝料の支払いが命じられた。
異例の速さといえば、この裁判が始まるまでの開廷期間すらも通常なら数か月待ちのところを、たった数週間で開廷したということで話題となったが、その噂すらもわずかのうちに立ち消えてしまった。
代わりにサロンの話題に上ったのは、ダフネ・グリエゴ伯爵令嬢が婚約者持ちの男性ばかりに声をかけて遊びまわっている、という醜聞で、これによりグリエゴ伯爵家は予定されていた縁談が破談になったという。醜聞が消えるまでは、社交シーズンとはいえ満足な相手は見つからないことだろう。
「…………ねえ、どこまでがあなたの仕業なの?」
「うん?」
「お父様も、お母様も驚いていたわ。申請からたった数週間で開廷されるなんてありえないって……」
「さあ?その時の書記官が、丁度おいしいお茶でも呑んでたんじゃないか?」
「もう……」
シルベストレ男爵家タウンハウスの中庭では、そよ風の揺らすパラソルの下で、僕とヴィオレタだけがいた。最初は中庭の薬草園に夢中になっていたヴィオレタも、いまではすっかりこの空間に馴染んでいる。
そして僕はといえば、最近、ようやく触れてもびくつかれなくなった手の指先の一本一本までに、謹製のハンドクリームを静かに塗りこめていた。立ちのぼる香りはもちろん、ヴィオレタが選んでくれたあのラベンダーの香りだ。
「くすぐったいわ、ルシオ」
「我慢して、すぐに馴染むから」
「そうじゃなくて、なんだか……」
「なんだか?」
「……言わせないで頂戴」
白い頬を赤くしたヴィオレタの瞳が、指先を絡ませた手元に落ちる。
同じ香り、同じ温度を共有した指先を掬いあげて、僕はいつかとは違ってしっとりとしたその指先へ口づけを贈った。
指先から指の腹へ、そして手のひらへ、手首へと。美しい菫色の瞳を見つめながら。
「る、ルシオ」
「ずっと、こうしたかった――――ヴィオレタ」
素肌そのものに熱を帯びた僕の声を塗り込めるように囁けば、やがてその睫毛の揃った瞼がそっと閉ざされ、あの菫色が見えなくなる。
僕はそれを合図に身を乗り出し、抱き寄せたヴィオレタの唇をそっと奪ったのだった。
ああ、けれどこれは始まりでしかない。これからゆっくりと、じっくりと、僕の愛情という蜜毒に彼女を浸し切るまでの、ほんの、第一歩だ。
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