8|『運命のクロスロード』
――、ねぇキロちゃん。
ノアが、不意に口を開いた。
「人差し指と小指だけを立てて、鹿の角みたいなサイン作ってみて」
キロシュタインは訝しげにノアを見る。
が、素直に左手でハンドサインを作った。
「…………、こう?」
「そそっ」
ノアはにっこりと笑う。
「でね? それをおでこに当てるの」
言われた通りに、
キロシュタインは、サインを額に当てた。
「オルデキスカっ!!」
ノアが同じサインを作り、額に押し当てながら叫ぶ。
「オルデキスカ?」
キロシュタインが眉をひそめる。
ノアは少し得意げな顔をして、説明を始めた。
「うん。オルデキスカ、っていってね」
「古代アーキ語で、『魔女の祈り』って意味なんだけど」
「昔ね、あ。昔っていっても、すっごーーーーーーく昔のことなんだけど」
「その時代の人たちは、角を持つ生き物を神聖なものとして崇めていたの。
シカとか、カブトムシとか?」
「で、僕たち人間も、角をもった特別な存在になれますようにーって、このハンドサインができたの。――それからなんやかんや、かくかくしかじかなどあったりして、『オルデキスカ』は、契りを結ぶためのサインになったとさ!」
キロシュタインは小さく息をつく。
「なるほど……なんやかんやあったんだね」
「すみませんねー、お客さん。話せば長いもので」
「それはそれは涙あり、笑いありの……と」
ノアが芝居がかった口調で言う。
「冗談はさておいて、ですよ。キロちゃんさん」
「……約束しましょ?」
二人は、向かい合う。
キロシュタインとノアは、
床に座り、額にオルデキスカのサインを当てた。
ノアの横では――。
ぺたんと座ったポリプも、
器用に触手でサインを作る。
時折、爆発音が鳴り響くアカシアの廊下で。
それでも、この場所だけが、
静かで、温かかった。
ノアはまっすぐにキロシュタインを見つめ、言った。
「――私、フェイト・ノア=ユーリスニュアは約束します」
「――キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーの親友になることを約束します」
「――この先、彼女の人生になにが起ころうとも」
「――たとえ、彼女自信が変わってしまったとしても」
「――私、ノアは、キロシュタインの親友であり続けると」
「――約束します」
言って、ノアは、恥ずかし気に笑う。
彼女の真っすぐな言葉を受けて、頬が緩んで仕方がない様子のキロシュタイン。彼女の心を縛っていた不安や恐怖の糸が、するすると解けていく。不条理に満ちた世界の片隅にできた小さな歪み……姉シアナスとの平穏で、幸せな生活。その終わりを勝手に妄想して、一人で悩んで、苦しんで。
キロシュタインは、仕返しをするように、ノアと向かい合う。
「――わたし、キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーは約束します」
「――フェイト・ノア=ユーリスニュアの親友になることを約束します」
「――わたしは、あなたが抱える孤独を」
「――あなたが背負っている、大きな運命を」
「――親友として、共有することを約束します」
人差し指と小指を立て、
その手を額に当てる。
ただの言葉が、契約となり、
互いの心を繋ぐ『魔法』となる。
オルデキスカ――。
古き魔女の祈りによって、親友になった二人。
キロシュタインとノアは、
互いの手を取って、立ち上がる。
(PROLOGUE|前編
『灯台守の姉妹とアカシアの巫女』より)
…………、
……、
08.『運命のクロスロード』
夢から目覚めるキロシュタイン。その夢は、忘れるはずもない――ノアとの出会いのすべてだった。灯台に現れた、不思議な椅子。水没した旧世界の残響、アカシアの巫女の告白。漆黒のカルディアによる襲撃――、未来の自分との邂逅。
そして――
魔女の祈り、オルデキスカの約束。
だが、胸に残るこの違和感は何なのだろうか。
わたしは、
(いままで……この記憶を忘れていた?)
「――キロシュタインさん? 大丈夫ですか?」
遠くで反響するように、ツキナの声が聞こえた。
その声に引き戻されるように、キロシュタインは跳ね起きる。
その勢いに「わっ」とツキナが驚いて、思わず声を上げた。
吹く風はまだ刺すように冷たく、
空気には冬のにおいが漂っていたが――雪はもう、止んでいた。
「おはようございます、キロシュタインさん。
あの……大丈夫ですか? 悪い夢でも見ていたとか……?」
ツキナが改めて、優しく声をかけてくる。
キロシュタインは、いつの間にか額に浮かんでいた汗を拭いながら、
「心配してくれてありがと。……大丈夫よ」
と微笑んで答えた。
少しずつ焦点を取り戻していく視界で、キロシュタインは周囲を見渡す。――雪が積もった石畳、薄く氷の張った用水路、壁に描かれたスプレーアート。間違いない――ここは意識を失う前にいた、アルナゼリゼの街の路地裏だった。
街は息をひそめたように静まり返っており、空を見上げても、カルディアの影は、まるで初めからなかったかのように、どこにも見当たらない。アルナゼリゼ音楽祭から始まった騒乱――あのクーデターが、すべて幻だったかのような静けさだった。
そしてキロシュタインは、もっとも大切なことを思い出す。
落ちてくる太陽。
――古代都市を背負った、あの一匹の竜。
キロシュタインは、その光景を見たはずの空を仰ぐ。けれど空は、どこまでも晴れていて、神話めいたあの幻想は、もうどこにも無かった。
「わたし、いつの間にか眠ってたみたいね。……ツキナも?」
「……はい。私も、ついさっき目を覚ましたばかりです」
「はぁ――さむぅ……。もう何がなんだか……」
二人は目を合わせ、そろってため息をつく。
音楽祭を観るためにやってきた観光旅行のはずが、気づけばクーデターに巻き込まれ、さらには空から太陽と竜が落ちてきて……本当に慌ただしい一日である。
――
「キロシュタインさん。……なにか、においませんか?」
ふと、ツキナがそう呟いた。
「ん? そうかな?」
「……、ッ――!」
「どうしたの、ツキナ?」
「これ……血のにおいです!」
ツキナはそう言うなり、勢いよく立ち上がり、細い路地裏を駆け出した。
降り積もった雪をザクザクと踏みしめながら、その背中がぐんぐん遠ざかっていく。キロシュタインも慌てて立ち上がり、ツキナのあとを追った。
路地の先に十字路があった。ツキナはためらいなく右へと曲がる。……その先に広がっていた光景は――あまりにも残酷で、目を逸らしたくなるほどだった。
雪が、真っ赤に染まっていた。
その染みの上に、子どもたちの小さな体が幾重にも重なって倒れている。雪に埋もれるように、ひとり、またひとり――その中の一人、ある少年の顔が視界に入った瞬間、キロシュタインははっと息を呑んだ。
見覚えのある顔だった。
「……ハヴァロ、くん……?」
かすれた声で名前を呼ぶ。
半年前、テイルソニアの街で出会った少年――ハヴァロ盗賊団の団長、「月喰いのハヴァロ」。オークションでキロシュタインが競り落とした太陽の衣を盗み出した、あの坊主頭の少年の顔が、そこにはあった。
キロシュタインは駆け寄り、そっとハヴァロの体を抱き起こす。
「ねぇ、あんた……ハヴァロよね。どうして、こんなことに……」
震える声で問いかける。
ハヴァロは、途切れ途切れの呼吸を繰り返しながら、
喉の奥からかすれた声を絞り出した。
「……あなたは……テイルソニアで会った……?」
「落ち着いて。ゆっくりでいいから、何があったか教えて」
「……ぼく、たち……あれから……義賊に……っ」
その言葉は風のように弱々しく、まともに耳へ届かない。
意識は朦朧とし、キロシュタインの声さえも届いていないようだった。
血に染まった手が、ゆっくりと動く――ハヴァロが差し出したのは、あの日、キロシュタインが「呪い」として渡した、黄金のカザラル貨幣だった。
微かに笑みを浮かべながら、ハヴァロは言う。
「あな……たが、くれた……このカザラルの……おかげ、で……」
「ぼく、たち……なれ、た……です。……義賊、に――」
その最後の言葉を終えると同時に、彼の体から力がふっと抜けた。
「……まだ息があります!
でも……急いで治療しないと……!」
ツキナがハヴァロの首筋に指を当てて確認し、声を上げる。そして、倒れている他の子どもたちの容態も、慣れた手つきで次々と確認していく。それは、彼女が獄卒として死と日常的に向き合ってきた経験ゆえの冷静さと迅速さだった。
「全員、まだ助かる可能性があります!」
ツキナは、確信をもってキロシュタインにそう告げた。
――
(病院……いや、それより回復魔法を使える人を探したほうが早いか……)
焦りの中で思考を巡らせるキロシュタイン。
そのときだった。
≫ 終わらせない!! ≪
――声。
声が、聞こえた気がした。
キロシュタインは、無意識のうちに走り出していた。なぜかは分からない。ただ、己の足が何かを知っているように、正しい道を指し示すように動き出していた。
辿り着いたのは、ついさっき通った十字路だった。
狭い路地裏に組み込まれたその十字路は、まるでキロシュタインを待ち構えていたかのように、沈黙の中で佇んでいる。そして、その十字路の中央には――確かに存在しなかったはずの、赤い電話ボックスが忽然と現れていた。
リリリリリ……!
ベルが鳴る。
キロシュタインは導かれるように電話ボックスに足を踏み入れ、受話器を取った。
(身体が勝手に動いている?)
意識と身体が乖離していくような奇妙な感覚。それは、かつて灯台のあの椅子に座り、水没した旧世界へと転移したときの感覚に酷似していた。
受話器の向こうから、声が聞こえる。
「……キロちゃん?」
それはノアの声だった。
「よかった……ちゃんと声、届いてるんだね」
「――、――――」
キロシュタインは言葉を返そうとするが、声が、言葉にならない。
何かが引っかかっている。苦しいほどのもどかしさが胸に広がっていく。
「大丈夫だよ。キロちゃん。
私には……ちゃんと聞こえているから」
「だから――」
「……待ってて。必ず迎えに行くから――」
その声が終わった、その瞬間。
――ッ ダ ァァン!!
銃声が、無情にも響いた。
キロシュタインは最初、何が起きたのかわからなかった。
だが――電話ボックスの曇ったガラスに映る、自分の姿を見て、すべてを悟った。
彼女の背後に立つ、黒い影。
その影が持つ拳銃の銃口からは、まだ煙が上がっていた。
――自分の腹部が、撃ち抜かれていた。
鮮血が、まるで花びらのように宙を舞い散る。
――――、落ちる。
――
……、
倒れている子供たちの応急処置を続けていたツキナは、ふとキロシュタインの姿が見当たらないことに気づいた。最初は、助けを呼びに行ったのだと思っていた。
けれど――時間が経っても、
彼女は戻ってこない。
(キロシュタインさん……、何かあったんでしょうか?)
ツキナの心に得も言われぬ不安が芽生えていく。
路地裏は、不自然なほど静まり返っていた。