5|『忘却の姫と竜の少女』
アルナゼリゼ城――玉座の間は、まるで額縁の中に収められた一枚の絵画のように、静止していた。その煌びやかな輝きのすべてが凍りつき、仕えていたメイドや執事、兵士たちもまた、ことごとく氷の彫像と化している。
天井からは、一つの氷の棺が垂れ下がっていた。
その透明な棺の中に横たわっているのは、呪いによって永遠の眠りに囚われた――アギルレギンの恋人、シグリッド。彼女の銀色の髪は一本一本が凍りつき、フリルのドレスもまた、風に揺れることなく凍りついたまま、時さえ止まっていた。
そして――
玉座に、鎧の男が座していた。
オセ・ツァザルディオ。
彼は頬杖をつきながら、アギルレギンを待っていた。
5.『忘却の姫と竜の少女』
「オセ……ッ!! 貴様、シグリッドに何をした!!」
「――ただ、眠っているだけだろう?」
「ふざけるなッ!!」
兜の奥で不敵な笑みを浮かべるオセに、アギルレギンは強く拳を握りしめた。
「アギルレギン。……お前に何ができる?
人を、――傷つけることすらできない、お前に」
「――っ……!」
爪が掌に食い込むほどに、アギルレギンは拳をさらに固く握り締めた。
そう――彼には、ただ一つの「弱さ」がある。
それは、人を傷つけることができないということ。
人を、殺すことができないということ。
その呪いは、生まれつきのものではない。
ある出来事をきっかけにして、彼はこの“弱さ”を背負うことになったのだ。
不殺生――それは、アギルレギンにとっての「枷」だった。
//
青の空。二本のひこうき雲が、
決して交わることなく。
どこまでも、どこまで続いていた。
「――アギル。ねぇ、アギル、聞こえる?」
果てしなく広がる海の上で、
アギルレギンは意識だけの存在となり、漂っていた。
その深い静寂の中で――愛しい君の声を、確かに聞いた。
――シグリッド。
君は、僕の人生でたった一人、僕を心から愛してくれた人だ。
どこへ行っても、元奴隷の僕は差別され、迫害されてきた。そんな僕が、今こうしてコミュニオンの主席魔導師になれたのは、すべて君と――君と出会えたから。
そして、アギルレギンは思い出す。
テイルソニア星央学院で過ごした日々を。
成績優秀だった彼は、
名誉ある〈星央生徒会〉の一員に選ばれて――選ばれて、それから……。
――何が、あった?
……思い出せない。
忘れている。何か、かけがえのない「大切なこと」を。
その正体は、いったい――何だ?
アギルレギンは、空に向かって手を伸ばす。
その先にあるはずの、シグリッドの声を探して――。
「シグリッド!! そこにいるのか!」
「答えてくれ……シグリッド……」
呼びかけても、もう彼女の声はどこにもなかった。
ただ最後に。アギルレギンには届かぬほど小さな声で、彼女は、そっと呟いた。
「お願い、アギル」
≫ 私を、忘れて。 ≪
//
「シグ……、シグ……君の、名前は――何だ?」
アギルレギンは、目の前に垂れ下がる氷の棺に眠る恋人へと問いかけた。だが、思い出せるのは――彼女が「大切な存在だった」ということだけ。名前も、共に過ごした日々の記憶も、すべてが霧の向こうに消えていた。
思い出せない。思い出せない……思い出せない!!
なぜだッ!!
「どうした、アギルレギン。もう終わりか?
フン。くだらんな。所詮、その程度の器か――」
「……りじゃない」
「聞こえんな。はっきりと言え」
「終わりじゃない!!
僕は主席魔導師・アギルレギンだッ!!」
叫ぶように言い放つと、アギルレギンは魔法を発動――その手に「黄金の鋏」が具現化される。彼はその鋏を、氷の棺を吊るす糸へ向かって投げた。
空中を滑る軌跡が、空間ごと裂けるように糸を断ち切る。
「すまない。君を――忘れることなんて、できそうにない!!」
凍てついた大理石の床に足を取られながらも、アギルレギンは落ちてきた棺を全身で受け止めた。そのまま、彼はオセに背を向け、城門へと駆け出す。
ある勇敢な王は言うだろう。
真に勇ましい者は、決して逃げず、立ち向かうものだと。
立ち向かわなければ、何も得られないと――。
だが、アギルレギンは「逃げる」ことを選んだ。
王としての矜持を捨ててでも、いまは生きることを――
氷の棺に眠る恋人と、共に生きる未来を、選んだのだった。
「追え」
オセが命じると同時に、彼の背後に魔法陣が出現する。
その光の輪から、青い甲冑を纏った騎士たちが次々と現れ、虚ろな瞳で、錆びた剣を携え、一斉に駆け出した。
キィズ=アニマ領域:第Ⅻ契【召喚魔法】――。
オセ・ツァザルディオは、召喚魔法を操る魔法使いである。彼の魔法契約書〈クラヴィス〉の表紙に記された本のタイトルは――『青騎士/アオキシ』。その力で呼び出されるのは、死してなお忠誠を誓う数千もの蒼き騎士たち。青い甲冑に身を包み、命なきその瞳で、ただオセの命を遂行するために動く。
オセは玉座から一歩も動かず、頬杖をついたまま彼らを操っていた。
その時――
「余裕ぶっこいてんじゃねぇよォ!!
――このヨロイ野郎ッ!!」
豪快な声とともに、天井を突き破って舞い降りたのは、一人の少女だった。
側頭部から生えた二本の「竜の角」――。
無造作に切り揃えられたダークグレーのミディアムヘアと、深緑の瞳。――傷だらけの戦闘服に身を包み、左腕には重厚な鋼鉄のガントレットを装着している。
その姿はまるで、戦場に現れた彗星のように。
――衝撃とともに、玉座の間に降り立った。
「お前は……」
「忘れたなんて言わせねぇぞ、このクソヨロイ野郎ッ!!」
「ああ……覚えているよ。
まさか、生きていたとはな。――神殺しのラルカ」
オセがそう呟いた瞬間、竜の角を持つ少女――ラルカは、わざとらしく手を打ち始めた。カァン、カァン、と。凍てついた空気に、金属音が混じった拍手が響き渡る。
やがて彼女は、自ら突き破って空けた天井の穴を指差す。
そこから粉雪が舞い落ち、玉座の間を静かに白へと染めていく。
オセはゆっくりと顔を上げた。視線の先、天井の穴から――太陽が、古代都市を背にした竜が、ゆるやかに落ちてくる様が映っていた。
ラルカは一歩、また一歩と玉座へと近づきながら口を開く。
「太陽が落ちてくるのはどうだっていいんだけどさぁ。
――あの竜、あれって『竜の背』だよな」
「……知らんな」
「はっ、シラを切るなよ、クソヨロイ野郎。
あれはオレがずっと探してたもんだ。
あいつが出てきたってことは……始まったんだな。『大雪焉』が――」
その問いに、オセは何も答えなかった。