4|『竜の都、落日に燃ゆ』
英雄歴2970年12月25日、英雄戦争アストラマキアの終結の日。
その日まで、魔導教は一つの巨大な統一組織として存在していた。
その当時、始祖にして終焉の皇帝と呼ばれたアダムゼノンの勅令によって、主流派と異なる思想を持つ者たちはすべて“異端者”と見なされ、容赦なく処刑された。それが、旧世界における魔導教の在り方だった。
しかし、神罰によって人類がアスハイロストへと追放され、英雄戦争の責を問われてアダムゼノンが処刑されたことで――魔導教はその絶対性を失う。そして、残された教徒たちは統一を維持できず、無数の教派へと枝分かれしていくこととなった。
現在――
魔導教には「三大教派」と呼ばれる三つの主要な〈コミュニオン〉が存在している。一つは『魔導教・主流派オリジン原理主義』、一つは『魔導教・東方エーカム調和派』、そして最後の一つが――『魔導教・新教エクシクス諸派』である。
このエクシクス諸派、通称『XCiX/エクシクス』は、オセ・ツァザルディオによって創設された新しい教派だ。その名の由来は極めてシンプルである。
かつて、各地に乱立していた99の小規模な教派――それらをオセが一つに統合し、ひとつの強固なコミュニオンへと再編したことに因む。「99」=「XCiX」――それが、エクシクスという名に込められた意味だった。
…………、
……、
〈この世界で平穏な日常を望むことは、あまりにも強欲で、罪深いことだ。〉
アギルレギンは、かつて自分を支配していた“飼い主”の男の言葉を思い出す。――幼き日の彼から家族を奪ったのは、やはり戦争だった。
もはや〈アスハイロスト〉の地では、戦争が日常茶飯事のように起きていて、どの戦争だったのか、彼自身すらもう思い出せない。ただ、彼の記憶には――焼け落ちた街の中心で、ひとり泣いていた幼い自分の姿だけが、強く焼きついている。
そんな彼を拾ったのは、ある奴隷商の男だった。
当時、ハル・ナキア条約はまだ締結されておらず、奴隷貿易は各地で当たり前のように横行していた。特に戦争の跡地では、居場所を失った子どもたちが多くさまよっており、奴隷商たちはまるで網を打つ漁師のようにその地へ赴き、子どもたちをさらっては“商品”として売りさばいていた。
アギルレギンもまた、そんな子供たちのひとりだった。
その美しい容姿ゆえに、彼はある貴族の女性――
少年を好むことで知られた人物の目に留まり、買い取られることとなる。
その女性はアギルレギンに対する歪んだ愛情さえなければ、比較的穏やかで理性的な人物だった。痛みや苦しみを与えることはなく、自分の子供のように……いや、それ以上に、狂おしいほどの執着と情愛で、アギルレギンを育てた。
――その育ての親も、また戦火に呑まれて命を落とした。
アギルレギンは誓った。
コミュニオンを統べる王となり、
「……この理不尽な世界を、自らの手で変えてみせる」と。
エクシクス諸派の初代主席魔導師・オセ・ツァザルディオの失墜後、組織内で最も優秀な彼が次代の主席魔導師の座に就くことは、もはや自然の流れでしかなかった。
これが、主席魔導師・アギルレギンの物語の始まりである。
04.『竜の都、落日に燃ゆ』
「ツァザルディオ! 貴様、本気か……!?
エクシクス諸派を相手に勝てるとでも思っているのか!」
雪と寒風が吹きすさぶ中、アルナゼリゼ城の城門前で、アギルレギンとオセ・ツァザルディオが、しんと、にらみ合っていた。白く煙る風が唸りを上げ、ゴウゴウと咆哮しながら、街道沿いの木々を大きく揺らしている。
オセの背後に控える青い鎧の騎士たちは、まるで一つの意志を持つかのように微動だにせず、氷像の軍勢のように圧を放っていた。
「勝利など、くだらん。
……この世界を徹底的に破壊し尽くす。それだけだ」
「破壊し尽くす……? そんなこと、できるはずがない。
ツァザルディオ、おまえはもう……過去の亡霊だ」
アギルレギンの挑発に、オセは兜の奥で静かに笑みを浮かべる。
オセ・ツァザルディオ。彼は、かの英雄戦争アストラマキアにも参加した戦士としても知られる、数少ない旧世界からの生き残り――旧人類の一人である。
神と人の血を引く半神族・オセ。
その齢、すでに数百年を超える――。
――ドォオオオオオン……ッ!!
その瞬間、世界が揺れた。突如として鳴り響いた轟音に、大気が震える。降り注ぐ瓦礫、砕け散るガラス片――アギルレギンは反射的に顔を上げた。
そして、見た。
そこに浮かんでいたのは、“空”ではない、もう一つの空だった。
裏の裏――逆さまの、さらに逆さま。まるで、水たまりの底から水面越しに、別の世界の空を覗き込んでいるかのような感覚。透明なフィルター越しに、アスハイロストとは異なる風景が、淡く、だが確かに映し出されていた。
ザッ、ザッ、ザッ……。
ダァァン!!
ヒュー――ドカァァン!!
鳴り響くのは、戦場の音。歩兵のブーツが地を打ち、戦車の無限軌道が空を横切っていく。空という名の巨大なスクリーンに、大地の裏側から染み出した“いつかの戦争”が再生されていた。だが――これは過去の記憶か? 幻想か?
アギルレギンは息を呑む。
その空に映し出されていたのは、見覚えのない街だった。高層ビルが林立し、ガラスと鋼鉄が輝く近代的な都市――それは、現在の人類がすでに忘れ去った旧世界の残響だった。映し出されたそれは確かに、かつて存在した現実なのだ。
アギルレギンの胸を、冷たい混乱が満たしていく。
「これは……いったいどういうことだ……!?」
「アギルレギン。お前のような新人類には、書物でしか知ることができないだろう。これが――かつて神と人類が八百年にわたって争った、英雄戦争の光景だよ」
オセの言葉に、アギルレギンはただ驚き、言葉を失った。
その様子を見ながら、オセは静かに語り続ける。
「ずっと手を伸ばし続けてきた――」
「だが、決して届くことはなかった」
「世界の根源に手を触れた時、恐怖で手を離してしまったことを」
「……今も。後悔している」
そう言って、オセはゆっくりと両手を広げ、天を仰ぐ。
漆黒の鎧には降りしきる雪が静かに積もり、黒と白が――じわじわと混ざり合い、溶けていく。その姿は、まるで神に祈りを捧げる預言者のようだった。
刹那――
空が、戦慄いた。クジラの鳴き声のような、甲高い金属音が空気を切り裂く。その音に呼応するように、まるでコップの底が抜けたように崩れ落ち、天に映し出されていた旧世界の光景から――水が、溢れ出した。
押し流されるように、ビルの残骸、瓦礫、ガラス片……かつての都市の断片が空から降り注ぐ。それらは、姿かたちを持たない幽霊のように、実体のないシャボン玉のように、地表に触れた瞬間、パァンと弾けて霧散してしまう。
オセは、天を仰ぐ。
アギルレギンは、城壁上にいた近衛兵たちは、ただ立ち尽くす。
その時、アギルレギンは、――あぁ、触れてしまったと、なぜか確信した。
世界の根源に……触れてしまった、と。そう確信してしまった。
――――レギン。
――ルレギン。
「聞こえているか、アギルレギン――」
唐突に脳内に響いたその声が、アギルレギンの意識を現実へと引き戻す。聞き覚えがあった。……星掟統制機関の執政官、アニハ=サンタカージュの声だ。
「アニハ様、ですか? ……どうやって?」
アギルレギンは無意識に応答する。
外から見れば、ただのひとりごとのように映るだろう。
だが、確かに声は、アギルレギンの思考に直接届いていた。
「すまない。時間がないのじゃ。
今はこれだけしか伝えられぬが、よく覚えておくのじゃ――」
「は、はい!」
「≫ 世界記憶天体・アカシアに、すべての答えがある。 ≪」
「アカシア……? それは――、――」
その言葉を最後に、ジジジ、と激しいノイズが脳内を走る。
会話は、そこで途切れてしまった。
(くそっ……いったい何が起きているんだ……?)
アギルレギンは混乱を押し殺しながら、オセの姿を探そうと前方を見やる。
しかし、そこにはもう彼の姿はなかった。
咄嗟に振り返り、城壁上にいる近衛兵たちに視線で合図を送る。
だが、兵たちは首を横に振る――
オセ・ツァザルディオが、消えた。
その時――、
アルナゼリゼ城の中から、ひとりの男が息を切らして駆けてくる。
「はァ……はァ……、
マスター・アギルレギンッ!!」
「どうした!!」
「シグリッド様が……シグリッド様がッ……!!」
「まさか、シグリッドに何かあったのか!?」
アギルレギンは男の肩を強く掴み、声を荒げて訊ねる。
シグリッド・ヴィルピ――
それは、このアルナゼリゼ城に暮らすアギルレギンの恋人の名だった。
「それが……オセ・ツァザルディオによって……」
「呪いを……!」
男は言い淀みながらも、ようやく続けた。
「呪いをかけられてしまい、目を覚まさないのです……!!」
雪が、しんしんと降り積もっていた。
◇ ◆ ◇
キロシュタインとツキナは、アルナゼリゼのとある路地裏でフードを深くかぶりながら、雪をしのいでいた。すでに気温は氷点下に達しており、寒風が容赦なく頬を突き刺す。アルナゼリゼの冬が厳しいのは事実だが、それにしても――この寒さは明らかに異常だった。
「電話も繋がらないし、街は兵士だらけだし……
あぁもう、最悪。ふぁ、――ッッぁしょん!!」
キロシュタインが派手なくしゃみをひとつ。
その様子を見ていたツキナは、ふいに何かを思いついたように小さく頷いた。
そして――
「……影生」
静かな詠唱とともに、幻影のツキナがボァンと現れる。
「……お願い。寒いの。少し、温めて」
本体からの命令にこくりと頷いた幻影のツキナは、しゃがみ込む二人をそっと、ぎゅっと包み込むように抱きしめた。人ひとり分の体温が加わる――それだけでも、多少は温かく……
「なるわけない」
キロシュタインは、きっぱりと言い放つ。
三人寄っても、どうにもならないことはあるらしい。
――ドォオオオオオン……ッ!!
その瞬間、世界が揺れた。突如として鳴り響いた轟音に、大気が震える。降り注ぐ瓦礫、砕け散るガラス片――キロシュタインとツキナは反射的に顔を上げた。
そして、見た。
先程まで、ホワイトアウトして見えなかった太陽が――落ちてくる瞬間を――。日が沈むという意味ではない。文字通り、まさにそのままの意味で、太陽が“落下”している。
雪の帳が消えたわけではなく、太陽の輪郭だけが不自然に浮かび上がり、光を帯びているのだ。やがて二人は、その落ちてくる太陽に、ある生き物の姿を見た。
竜だ。
それもただの竜ではない。その背に、石造りの古い都市を背負った、巨大な一匹の生きた竜だ。――天を割るような大きさのその竜は、燃え盛る太陽にその身を巻きつけながら、太陽とともに――地上へと堕ちてきていた。
運命の輪が、再び回転を始める――。