22|『二つの約束』
ノアは、ためらいを押し殺すように口を開いた。
「ねぇ、ユズリハ……。キロちゃんがいまどこにいるのか、知ってるの?」
ユズリハは静かに目を伏せ、再びガラスの天井へ手をかざした。次の瞬間、星空は水面のように揺らぎ――代わりに、黄昏に染まった氷の大地が映し出される。
一面に広がる、砕けた鏡のような氷原。夕陽が斜めに差し込み、氷の結晶が黄金色に燃えるように輝いていた。遠い地平線には黒き太陽と、絡みつく竜の亡骸が沈んでいる。そして、天空は海底のように揺らめき、星の粒子を纏った魚や、悠然と泳ぐクジラの影が漂っていた。
「……これは?」
「――パラダイス・ロスト以降、この世界は崩壊と再生を繰り返してきました」
ユズリハの声は静謐で、重く響く。
「その輪廻の中で生まれた幾千もの〈世界の残骸〉が、いまも時空の果てで漂流しています。この世界もその一つ。名は、“黄昏のアガルタ”。……おそらく、キロシュタインはこの世界に迷い込んだのでしょう」
ノアの喉がきゅっと詰まる。
「どうしてそんな場所に……。
あの音楽祭の日、キロちゃんにいったい何が……」
「それは、私にもわかりません」
ユズリハは首を振る。
「ですが、一つ確実なのは――
あの日、何者かによってユハの封印が解かれたということ」
その名を聞いた瞬間、ノアは記憶の底に沈んでいた映像を思い出す。
「ユハ……。そういえば、さっきの映像で、あなたの隣にいたユハエルって……」
「はい。その通りです」
ユズリハはゆっくりとうなずいた。
「ユハエルは、ユハの天使名。
彼女も私と同じ、かつてノア様に仕えていた天使の一人です」
「……ユハに、なにがあったの?」
ノアの声は震えていた。
ユズリハの瞳が、ほんのわずかに痛みを宿す。
「ユハは……あなたをアカシアの巫女に選ぶことに、最後まで反対していました。そしてある時、ノア様をアカシアから解放しようと、禁じられた魔法を使い、地上世界へ転移したのです。その行為が神の怒りに触れ……彼女は人間としての姿を奪われました。残ったのは、終焉を司る天使――ユハエルという存在だけ……」
「そんな……っ」
ノアは小さく後ずさる。
「ユハは私を救おうとしてくれたのに……。
なのに私は、ユハのことを、ぜんぜん覚えてなかった……」
ユズリハはそっと首を振り、ノアの肩に手を置いた。
「ノア様、それ以上は背負わないでください。私も……ユハも。あなたがアカシアの巫女として過ごした一万年の孤独を、誰よりも理解しています。だから――もう、何も背負わないでください。今のあなたは、アカシアの巫女ではなく、ノアという一人の少女なのです」
「ごめん……ありがとう、ユズリハ」
ノアの瞳に、涙がにじむ。
「ユズリハのおかげで、忘れていたこと、いろいろ思い出せたよ。……まずはアガルタっていう世界にいるキロちゃんを助けに行かなくちゃ、だね」
「ノア様。私にも協力させてください」
「もちろんだよ~。ユズリハが手を貸してくれるなら心強いよー」
「では、ノア様……キロシュタインを必ず、救い出しましょう」
「よし! キロちゃん捜索隊、結成……だ――」
言い切る前に、ノアの視界がふっと揺らぎ、ぼやけていった。
瞼の裏に白い靄がかかり、意識が遠のいていく。
最後に映ったのは――
ガラスの天井に広がる無数の星々。
その星明かりに照らされ、ユズリハが静かに立っていた。
彼女は人差し指と小指を立て、額に当てていた。
――オルデキスカのサイン。
「……ユ……ズリハ……」
ノアの唇から零れた声が、
夜空の瞬きの中に溶けていく。
――――
――
鼻先をかすめたのは、乾いた木の匂い。
ノアは固い床の感触に身を震わせ、ゆっくりと瞼を開けた。
「……ここ、は……?」
視界に広がるのは、薄暗い物置。
積み重なった木箱、錆びついた工具、干からびた藁の束。
さっきまでいた幻想の植物園は、跡形もなく消えていた。
すぐそばには石造りの階段があり、上方へと続いている。
――あの森と植物園へと下りてきたのと、同じ階段。
「……夢じゃなかった」
ノアは小さく呟き、胸の奥をそっと撫でおろした。
その時、目の端に何かが光を反射した。
床に落ちていたのは、白化したサンゴの亡骸を編み込んだブレスレット。どこか懐かしい温もりを湛えたその装飾品を、ノアは震える手で拾い上げる。冷たいはずのサンゴは、掌の中でほんのりと温もりを帯びていた。
まるで、ユズリハの想いがそこに息づいているかのようだった。
そのとき――
階段の方からゆっくりと足音が響いてきた。
姿を現したのは、長老のムジヒカだった。
「……彼女には会えましたか?」
ノアはブレスレットを握りしめ、はっと顔を上げる。
胸に込み上げるものを必死に堪え、力強く頷いた。
「……はい!」
ムジヒカは小さく微笑み、その表情に安堵をにじませる。
「それはよかった」
そして、静かに言葉を継いだ。
「彼女から、一つ伝言を預かっています。――“カタルベルトにアカシアのプロトタイプがある。まずはそこを目指してください”……と」
ノアの手の中で、珊瑚のブレスレットが、かすかに光を返した。
22.『二つの約束』
その頃、ネルドストーテの大通りでは――
*
ネルドストーテの大通りの中心には、広い歩道橋が架けられている。川を渡る橋ではなく、通りを立体的に横切る高架のような橋だ。そこから見下ろせば、石畳を踏みしめて行き交う人々の姿が一望できる。毛皮をまとった商人たちが大きな荷車を押し、露店では香草やガラス細工が売られ、子どもたちが雪玉を投げ合いながら駆け回っている。その中には――狼の耳と尾を持つ者たちの姿も混じっていた。
遠くの空を見渡せば、村の外に広がる大雪原。白銀の大地は果てしなく続き、地平線にかすむ太陽の光を反射して、淡い金色の輝きを放っていた。
橋の上に、ラテルベルとアーチが並んで立っていた。下を通り過ぎる人々を、まるで舞台の観客席から見守るように眺めている。アーチはしばらく無言のまま人々を見つめ、それから、首に下げていた牙のネックレスをぎゅっと握った。
「……私たちは、もともと“狼樹”という一族でした」
風が吹いて。彼女の白い獣耳が、かすかに揺れる。
「狼の耳としっぽが生えてる人たちが、そうです。みんな……聖戦に負けて、故郷を追われて……このネルドストーテに移り住むことになったんです」
雪を含んだ風が吹き抜け、アーチの白髪を揺らす。
彼女が指先で握る牙のネックレスに、ラテルベルの視線が吸い寄せられた。
「それ……」
「お守りです。母からもらったんです」
アーチは少し照れたように笑い、牙のネックレスを胸に戻す。
その横顔には、どこか幼さと強がりが同居していた。
「故郷に……帰りたいって、今も思う?」
ラテルベルの問いに、アーチは一瞬ためらった。
けれど、目をそらさず、はっきりと答える。
「帰りたいです。……でも、もう戻れない。
瘴気の影響で、立ち入ることすらできないんです」
その言葉に、ラテルベルは胸の奥に痛みを覚えた。
思い出すのは、自分の故郷――ガラの街。
瘴気に侵され、色も音も奪われた、あの崩れ落ちていく記憶。
ラテルベルは小さく息を吐き、ふとアーチに向き直る。
「なら、約束しよっ!」
「え?」
「こうやって、人差し指と小指で角を作って、おでこにあてるの」
ラテルベルが笑顔でやってみせると、
アーチはおそるおそる真似をする。
「こ、こうですか?」
「そうそう。それで……」
ラテルベルの瞳がきらりと輝いた。
「――オルデキスカ! わたしが、アーチちゃんを故郷に連れてってあげる」
その言葉は雪原を渡る風に乗って、どこまでも澄んで響いた。
アーチは驚いたようにラテルベルを見つめ――やがて、頬を赤らめて笑った。




