21|『祈りの方舟//Noah's Ark』
星々の瞬きが降り注ぐ植物園の中央で、
ユズリハはノアに向かい、ゆるやかに問いかけた。
「ノア様。――自分はどこから来たのか、
どこで生まれたのか……覚えていますか?」
ノアは、少し驚いた顔をしたあと、真剣な眼差しで答える。
「もちろん、覚えているよ。……私はアカシアの巫女として、水没した地上世界を観測するために生まれた。人類がいつか再び地上世界に戻る日を見届けるため、観測者として永遠の時を生き続ける。――それが、私の使命だった」
言葉に乗せられた記憶は、冷たく澄んだ泉のように静かで、
それでいて抗いがたい重みを持っていた。
ユズリハは頷き、花々の間を歩み寄りながら、微笑を浮かべる。
「そんなある日、偶然にも地上世界に迷い込んだ少女、
――キロシュタインと出会ったのですよね」
ノアの胸が小さく震える。
「そんなことまで知ってるなんて……あなたは、一体……?」
ユズリハは瞳を伏せ、そして決意を込めて顔を上げる。
「……隠す必要はなさそうですね。――私はユズリハ、またの名をユズリエル。七大天使が一人、かつてあなたに仕えていた者です」
その名を口にした瞬間、植物園を満たしていた神聖な空気が、かすかに震えた。
七大天使――それは二十二星界を構成する存在の一つ。
―― ◇◆◇ ――
二十二星天とは、
神話に登場する主要な存在の総称。
その数は「22」。
それを構成する存在は、以下の三つ――。
・【十一枝徒】の11人。
・【七大天使】の7人。
・【四大悪魔】の4体。
11+7+4=22。
それが、二十二星天と呼ばれる存在たちである。
―― ◇◆◇ ――
ノアの喉がかすかに鳴る。
「……仕えていた?」
「ええ。そうですね」
ユズリハは小さく笑い、まるで懐かしむように目を細めた。
「では、フェイト・ノア=ユーリスニュア。
その“はじまりの物語”を語りましょうか。
一万年もの孤独を生きてきた、
あなたの、ノア様の……
はじまりの物語を――」
言葉が終わると同時に、ガラスの天井に映っていた星空が溶け、
そこに映し出されたのは――青く輝く「地球」だった。
「――っ!」
ノアの瞳に、懐かしくも遠い星が映る。
ユズリハは大きく両腕を広げる。
その背から、まばゆい光が溢れ、羽音もなく白銀の翼が展開された。羽根一枚一枚に光の粒子が宿り、舞い上がるたびに夜空の星を撒き散らすようだった。
ふわり、と重力が消える感覚。
ノアとユズリハの身体が宙に浮き、星空の海を渡るように上昇していく。
そのとき――
ガラス窓に映っていた地球から、奔流のように水が溢れ出した。
怒涛の海が逆巻き、植物園を満たしていく。
咲き誇る花々は水の中で揺れ、光の粒子を散らしながら溶けていく。
息を呑むノアの瞳に、幻想が次々と沈んでいった。
――そして、世界は水に包まれ、景色は一気に暗転する。
21.『祈りの方舟//Noah's Ark』
水没した植物園に、静かにユズリハの声が響く。
「英雄歴2970年。――。
英雄戦争アストラマキアの終結、そして、パラダイス・ロスト。
旧人類はアスハイロストへと追放され、地上世界は水底へと沈められた」
その言葉に呼応するように、二人を囲む水が揺らぎ、
光の粒子が立体映像のように組み上がっていく。
「――その地球最後の日。
水没した世界に、ひとりの男が立っていた。
男の名は……ラピス――」
水のヴェールの中に、過去の光景が投影される。
海に沈んだ地上世界。
その上空に浮かぶのは――砂時計のような形をした人工天体・アカシア。青と金の光が交わり、時を刻む巨大な楽器のように、静かに世界を見下ろしていた。
その天体の頂には、ひとりの男が立っている。
風に揺れる深い緑の外套、蒼の瞳。
魔法の父と呼ばれた男――預言者・ラピス。
そこへ、三つの影が歩み寄ってくる。
背に天使の翼を持つ二人の女と、まだ幼さを残した一人の少女。
ラピスは振り返り、名を呼ぶ。
「……ユハエル、ユズリエル。……ノア」
その瞬間、映像を見ていたノアの胸が大きく脈打つ。
「……あの子が、私?」
映像の中の少女は、確かに今のノアと同じ銀の髪を持ち、
怯えるように、しかし澄んだ瞳でラピスを見上げていた。
ユズリハはゆっくりと頷く。
「そうです。あの少女はノア。
そして、そのとなりに立っているのが――ユハエルと、私……ユズリエル」
過去の映像の中で、ユズリエルはラピスの前に進み出る。
ローブの裾を揺らし、恭しく告げた。
「――ノア様を連れてきました」
ラピスは短く「あぁ……」と答え、少女を見つめる。
すると、隣の天使、ユハエルが問いただした。
「預言者・ラピス。本当にこれが正しい選択なのか?」
その声は震えていた。
天使でありながら、人としての迷いを孕んでいた。
ラピスは静かに首を振り、幼いノアを抱き寄せる。
「……ノア。君は人類最後の希望だ。
『運命の輪』のイデアカラーを宿す君にしか……できないことだ……」
*
ユズリハの声が、静けさを切り裂くように残響する。
「――あなたはアカシアの巫女として。
水没世界の観測者として、たった一人、地上に取り残された」
ガラスの天井に、青黒い水底の光景が広がる。
瓦礫に沈む都市、流れゆく残骸。
そこに漂うノアの孤独な影が、まるで幻のように映し出される。
「世界の心臓である《運命の輪》と共鳴できるリンネホープの色、そのイデアカラーを持って生まれた。ゆえに、預言者ラピスは、全人類の祈りを託した方舟・アカシアをあなたに委ねたのです」
ユズリハの言葉を聞いたノアの胸がざわめく。
まるで忘れていた旋律を、急に耳にしたかのように。
「……預言者、ラピス……」
無意識のうちに、その名をつぶやいていた。
ユズリハの眼差しがやわらかく揺れる。
「思い出したようですね。
――そうです。ラピスは、あなたの父です」
「……っ!」
ノアは目を見開く。心臓が痛いほど脈打ち、冷たい指先に血が巡っていく。
ユズリハの言葉は、さらに重く続いた。
「ラピスは、英雄戦争で亡くなった九十億人の意識を、旧世界の知識、技術と共に記録し、魔法で《世界記憶天体・アカシア》を創造しました。……その船主に選ばれたのが、ラピスの実の娘であるあなた、ノアなのです」
ガラス天井に浮かぶ映像が揺らぎ、砂時計の形をしたアカシアが光を帯びる。
その光の中に、無数の人々の祈りが漂い、ノアの胸を打つ。
ユズリハの声はさらに先を告げる。
「そして――人類の地上回帰計画が停滞したまま、一万年。
ある日、特異点となる一人の少女が現れた」
ユズリハが掌をすっと天井にかざす。
瞬間、星の海が揺れ動き、映し出されたのは――ひとりの少女の姿だった。
ペールオレンジの長い髪、澄んだ碧の瞳。
港町を走り抜けるような光景が一瞬、天井に映り込む。
ノアはその姿を見た瞬間、息を呑む。
「……キロちゃん……?」
その声は震えていた。
ユズリハの表情に影が落ちる。
「そう。キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカー。
――彼女もまた、その魂に《運命の輪》のイデアカラーを宿していた」
星空に二つの光が瞬き、重なる。
ノアとキロシュタイン。
運命をめぐる二つの魂の輪郭が、静かに照らし出されていた。




