20|『動き始める世界の色』
大雪原を踏みしめる音が、昇降機の床に吸い込まれていく。
鉄と石を組み合わせた昇降機は、ぎしりと音を立てながら動き出した。チェーンが唸り、巨大な歯車がゆっくり回転する。
四人を乗せた昇降機は、雪原から垂直に立ち上がる石壁を這い上がり、少しずつ天空へと引き上げられていく。眼下には、どこまでも広がる銀の大地。遠く、地平線は青白くかすみ、雪原を渡る風が頬を刺した。
「すごい……っ!」
ノアが思わず声を漏らす。
昇降機の先、石壁の頂には――ひとつの“村”があった。
雪に閉ざされた世界に、そこだけは柔らかな灯りが満ちていた。
高く積み上がった石造の城壁。その内側から、青白い魔灯ランプの光が無数に瞬き、まるで星座のように揺らめいている。巨大な車輪が雪を噛み、村全体がゆっくりと前へ進む様は、まるで雪原を渡る巨獣。幻想と現実が同居する光景だった。
昇降機が城門に到着すると、すぐに一人の男が駆け寄ってきた。
背筋の伸びた、落ち着いた気配を纏った男だ。
「あなたがノア様ですね」
「え? 私ですか?」
「えぇ。ムジヒカ様がお呼びです。……こちらへどうぞ」
ノアは思わずラテルベルを振り返る。
「あの、ラテちゃんは……?」
男は静かに首を振った。
「お一人で、とのことです」
「――あの。わたしは大丈夫ですよ、ノアさん」
ノアは少し不安げにしながらも頷いた。
「……わかった。ちょっと行ってくるね」
そう言って、男のあとをついていくノア。
その様子を眺めていたトウロが、突然ぽんと手を打った。
「あ! オラ、親父から店番頼まれてたんだった!」
慌てて叫ぶと、アーチの肩を軽く叩いてから、
トウロは雪煙をあげて駆けていった。
残されたのは、ラテルベルとアーチの二人。
村の広場の灯りに照らされながら、アーチは少し困ったように笑った。
「あはは……。わたしたち、取り残されちゃいましたね」
ラテルベルはそんな彼女に向かって、楽しそうに言う。
「よし。それなら、アーチちゃん。その耳としっぽのこと、教えてよ。――ついでに村の案内もお願いできるかな」
風が吹き抜ける。アーチの白い耳がぴくりと揺れ、尾がふさりと揺らめいた。
ネルドストーテの村での、新たな時間が静かに始まろうとしていた。
20.『動き始める世界の色』
大雪原を航行する移動要塞式の村・ネルドストーテ。
三つの巨大な車輪が雪を噛むたび、大地は低くうなり、村全体がかすかに震える。――石壁に守られた村の中は、異国情緒に満ちていた。石畳の路地には青白い魔灯ランプが並び、柔らかな光が足元を照らす。市場には香草や干し肉を並べた露店が肩を寄せ合い、炉端からは鉄と鉱石を打つ音が響く。
その一角。中央塔にほど近い路地に、一軒の工房が佇んでいた。
「風那・ガラス工房」と刻まれた看板。扉を開けると、光があふれ出す。
そこは、色彩と光の幻想世界だった。
壁一面に並ぶ棚には、キィズ=クリスタル【魔法結晶術】で練り上げられたガラスの工芸品が整然と並ぶ。雪の結晶を封じ込めた球体、淡い光を放つ色彩の杯、天井から吊るされたランプは羽根のような造形をしており、風に揺れて虹色の光を散らす。
工房全体が、まるで夢の内部に迷い込んだような幻想の輝きに包まれていた。
ガラスの椅子には、ノアと白髪の男、ムジヒカが座っている。
ネルドストーテの長老・ムジヒカ。――あごの下で一つに結んだ白髪、目は黒い布に覆われていた。ヒスイの装飾が縫い込まれた、全身を包む白の衣は宝石のように淡く輝いている。老いの静けさと、神秘の気配が同居する姿だった。
「私は――」
ノアが口を開きかけた、その瞬間。
ムジヒカはすっと手を上げ、言葉を制した。
「……ノアだな」
その声は深く澄み、工房に溶けていくようだった。
「すべて見ていた。
――トウロとアーチを屍人から守ってくれて、感謝する」
ノアは一瞬驚き、そして何かに気づいたように目を細める。
「……もしかして、魔眼ですか?」
「あぁ。そうだ」
その答えと共に、
ムジヒカの目を隠している黒い布に淡く光が浮かぶ。
やがて布の表面に――目を象った魔法陣が、
じわりと浮かび上がった。
それは、世界を見透かす真理への眼差し。
ノアは息を呑んだ。
祖式錬金術によって生み出された古の魔法、【魔眼】。
今やその知識は失われ、伝承の中でしか語られない存在となった。
(もしキロちゃんがここにいたら、きっと目を輝かせただろうな……)
ノアは心の中でそうつぶやき、
ほんの少し寂しげに目を伏せる。
ムジヒカは静かに言葉を紡いだ。
「キロシュタインという少女を捜しているようだな」
「……そこまで知っているんですか?」
ノアの問いに、ムジヒカは無言でうなずいた。
沈黙すら重みを帯び、すべてを肯定する返答となる。
やがてムジヒカは、ゆるやかに立ち上がる。白き衣がさらりと揺れ、棚に並ぶガラスの工芸品に反射した光が、その背を後光のように包む。
「――君に合わせたい人がいる。案内しよう」
◇
ガラス工房の奥、細い廊下を進んでいく。
ランプの灯りが揺れ、石造りの壁に淡い光の帯を映していた。
ノア、ムジヒカ――二人の影が長く伸び、足音だけが静かに響く。
その途中で、ノアの視線がふと、壁に飾られた古い写真に吸い寄せられた。
そこには、金髪の青年と、竜の角を持つ少女が肩を並べて写っている。
「……これは」
思わず漏れたノアの声に、ムジヒカが足を止め、
少し遠くを見つめるように答える。
「私の若い頃の写真だよ。
――となりにいる竜人族の少女は、古い……友人だ」
その声音には、懐かしさと、
どこか取り戻せない日々を想う寂しさが滲んでいた。
ノアは言葉を飲み込む。
廊下の冷たい空気の中で、
写真の中の笑顔だけが温もりを帯びて見えた。
――
廊下の終端には、下へと続く石の階段が口を開けていた。
ノアとムジヒカはその階段を下りていく。
地下へ進むごとに、空気はひんやりと湿り、
奥からかすかな脈動のような気配が漂ってくる。
やがて現れたのは――重厚な扉。
その表面には青白い魔法陣が刻まれ、幽かに浮かび上がっていた。
ムジヒカが静かに歩み寄り、手をかざす。
すると魔法陣が音もなく回転を始め、
細かな図形がパズルのように次々と組み合わさっていく。
低い振動音。
そして――封印が解かれる音が、空間全体を満たした。
扉がゆっくりと開く。
その隙間から、草木と花の香りが一気に溢れ出す。
まるで閉じ込められていた森そのものが息を吹き返したかのように。
「案内はここまでだ」
ムジヒカの声は静かだが、確かに重みを持っていた。
「――この先に、君が求める答えがあることを願う」
ノアは、小さくうなずいて扉をくぐった。
*
扉の先に広がっていたのは、暗く深い森だった。
背の高い木々がびっしりと並び、枝葉が天を覆う。
差し込む光は少なく、緑の闇の中を冷たい風が渡っていく。
――カラカラ、キコキコ。
どこからともなく、不思議な音が響いていた。
木がきしむような、歯車が回るような、
しかし生き物の声のようにも聞こえる音。
「ノア……ノア……」
その音に混じって、確かに呼ぶ声がした。
ノアははっとして振り返る。
そこに浮かんでいたのは――木の精霊。
切り株のような頭部に、炎のように揺れる二つの眼。
胴も足もなく、ただ宙に漂いながら、
枝の欠片のような腕を広げていた。
周囲に木屑の光の粒を散らしながら、
ゆらゆらと漂う姿は、現実と幻の境界に立っているようだった。
ノアは小さく息をもらす。
「……不思議なことばかりね」
精霊は「カラカラ」と音を鳴らしながら、ノアの周囲を旋回する。炎のような眼差しは、不思議なほど優しさを帯びていた。
彼女はその姿に微笑み、森のさらに奥へと歩を進めた。
*
やがて視界がひらける。
そこにあったのは――八角形のガラス張りの植物園だった。
古びた森のただ中に、不意に現れた光の宮殿。
透明なガラスの壁面には蔓植物が這い、
内部からは柔らかな光が漏れ出している。
天井は尖塔のように高く伸び、雪のような花弁や、
色彩を変える奇妙な果実がガラス越しに透けて見える。
森の静寂と対照的に、
その植物園はまるで呼吸をしているかのように、
内側から脈動する輝きを放っていた。
◇ ◇
◇◆◇ ◇◆◇
◇ ◇
森を抜けたその先に、それはあった。
八角形のガラス張りの植物園。
外観は夜空の中にぽつりと浮かぶ水晶宮のようで、
薄明の光を受けて虹色に瞬いていた。
ノアがその扉に手をかけ、中へと足を踏み入れた瞬間――
急に、世界が暗転した。
反射的に息を呑む。
次の瞬間、頭上のガラス天井に、
無数の星々が瞬きはじめた。
それは夜空の投影ではなかった。
遥か遠くの星々が、
ここに流れ込んでいるかのような、生きた星空だった。
闇の中、色とりどりの花々がふわりと光を放つ。――青い炎のように揺れる花弁、音を奏でるように茎を震わせる草木、瓶詰めにした夢を並べたような花壇。湿った土の香りと、甘やかな花の芳香が入り混じり、幻想の庭がノアを包み込んだ。
ノアの瞳に、驚きと好奇心の光が宿る。
そのとき――
カツ、カツ、と。
規則正しい靴音が、植物園の奥から響いてきた。
星々の投影を背景に、一人の少女がゆっくりと姿を現す。
ミミズクを模したローブ。その羽根模様が月明かりのように揺れ動く。髪はローズピンク。夜空に溶けるような光沢をまとい、肩のあたりで二つに分けられ、アンダーツインテールとして流れていた。腰には小さな瓶――液体に花々を封じ込めた、幻想的なハーバリウムがいくつも吊り下げられ、歩くたびに淡く光を散らす。
少女は立ち止まると、静かにスカートの裾をつまみ、
膝を折り、カーテシーをした。
「待っていました、ノア様」
柔らかな声。
だが、どこか確信に満ちている。
ノアは目を瞬かせ、思わず問いかけた。
「あなたは……?」
少女は穏やかに微笑みながら、
「私のことは――ユズリハとお呼びください」
星空の下で名を告げる。




