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19|『白き大海を渡るネルドストーテ』




   19.『白き大海を渡るネルドストーテ』




 世界の縁を漂うかのように、

 風那(フウナ)=ネルドストーテは銀世界を静かに進んでいた。


 三つの巨大な車輪――前方に一つ、後方に二つ。大地を噛みしめるようにゆっくりと回転するそれらの車輪によって、この村は移動という概念を手に入れていた。ただの村ではない。これはひとつの移動要塞、あるいは動く神殿のような存在だった。


 その外観はまるで石造りの巨船。船首にあたる前方には、鋭く突き出た装飾の舳先があり、風を切るように空を裂いて進む。船底のように滑らかな下部には、過去の戦争で擦り減った痕跡が幾重にも刻まれていた。古代文明の遺物がそのまま動き出したかのような、威厳と時間の重みを湛えた姿。


 ネルドストーテの村そのものは、広大とは言えない。だが、堅牢な石壁に囲まれたその空間には、不思議な安堵と静けさがあった。そこに住まう「風那の民」たちは、まるで船に乗る旅人のように慎ましく暮らし、石の床を踏み鳴らす足音と、歯車が噛み合う低い音が、日々のリズムとなっている。


 村の中央には、空へと突き立つように巨大な石造りの塔がそびえ立つ。まるで帆柱を思わせるその塔は、動く村の司令塔であり、祈りの場でもあった。頂には魔力を受信する円盤状の装置があり、星の軌道を読み取り、村の進路を定めるという。塔の周囲には、露店のように石造の屋台が並び、食料や鉱石、薬などが取引されていた。


 この村の風景には、未来的な鋼鉄の光沢も、機械的な騒がしさもない。

 あるのは、古の知恵と魔法が息づく、静謐な機構都市。


 白き雪の大海を進むその姿は、

 まるで、遠い過去の世界から迷い込んだ方舟のようだった。



 *



 雪しぶきを高く巻き上げながら、移動要塞が大雪原を進んでいく。空は澄み渡り、淡い冬の光が白銀の大地をまぶしく照らしていた。――そのあとには、巨大な車輪が刻んだ三本の轍が、延々と続いている。


 冷たい風が頬を刺す。

 吐く息はすぐに白く凍り、耳元でひゅうひゅうと音を立てた。


 少年は手袋をした指で遠くを指し示す。


「あれがオラたちの村、ネルドストーテだ!」


 雪煙の向こう、白銀の世界にぽっかりと浮かび上がる巨大な影。車輪で雪原を踏みしめ、ゆっくりと、それでいて揺るぎない速度で進むその姿は、まるで生きた巨獣のようだった。船首に似た前方の装飾が光を反射し、雪粒を切り裂いていく。


「すごー。あれが君の村……、

 あ、そういえばまだ名前聞いてなかったね」


「オラか? オラの名前はトウロ! で、こいつはアーチだ!」


 トウロに呼ばれた白毛の狼、アーチが、「ワン!」と短く吠える。

 その吐息さえ白く、鼻先から立ち上る湯気が冬の冷気に溶けていく。


「トウロくんとアーチちゃん、ね。よろしく。私はノア」


「ラテルベルです」


「ノアとラテルベルだな! よろしく!

 ……それで、聞いていいのかわかんねぇけど、

 二人はなんであんなところにいたんだ?」


「それは――、……」


 ノアとラテルベルは顔を見合わせ、言葉を詰まらせる。


 足元では、雪がきゅっきゅっと鳴り、遠くではネルドストーテの車輪が雪を押し潰す重低音が響いている。「宇宙にいた」「ユハに襲われた」――そんな話を信じてもらえるだろうか。けれど事実であり、嘘をつく理由もない。


 ノアは小さく息を吸い、

 白い吐息を空に溶かしながら正直に告げた。


「実は私たち、さっきまで宇宙にいたの。友達と連絡を取るためにね。そしたら突然、ユハが現れて、襲われて……気がついたら一面真っ白、銀世界。こうして迷子になってたわけですよ」


「……ユハ。聞いたことがある。たしか今、世界がめちゃくちゃなのって、そのユハってやつのせいだって、ムジヒカ様が言ってた」


「ムジヒカ様?」


「ああ。ムジヒカ様はネルドストーテの長老だ。なんでも知ってるんだぞ!」


 トウロは誇らしげに胸を張る。


 そのとき――


 アーチが耳を立て、低く唸り始める。


「……どうした、アーチ?」


 トウロの問いかけに答えるより早く、雪原がぱきんと裂けたような音が響く。その白の下から、何かが這い出す気配――細く長く伸びた影が雪面を走り、次の瞬間、黒く変色した手が、氷の膜を突き破った。


 ごぼり、と腐臭を含んだ瘴気が噴き上がる。


 それに混じるように、異様に歪んだ人型が雪煙の中から姿を現した。皮膚は灰色にひび割れ、骨ばった肢体が不自然に揺れている。その口は人間の形を残しながらも、声にならない呻きを吐き続けていた。


「……屍人(シビト)っ!」


 ノアが息を呑み、わずかに後ずさる。

 吐き出した息はすぐに白く凍り、冷たい風にかき消された。


「この辺りは瘴気が濃いからな……屍人が多いんだ」

 

 トウロが短く説明する声も、緊張でやや低く響く。


「二人とも、下がって!!」


 ラテルベルは短く告げると、背負ったカバンに手を伸ばした。


 指先が布の感触を確かめ、彼女がカバンから引き抜いたのは――深紅のローブ、『太陽の衣』。広い袖口には深い青の刺繍と告式が流れるように走り、背中には太陽紋が金色に輝いている。キロシュタインから誕生日プレゼントとしてもらったラテルベルの宝物。それは、彼女の魔法の火力を何倍にも増幅させる切り札だった。


 風が衣をはためかせる。

 雪面に映る影が、ゆらゆらと赤く染まった。


 その光景に、トウロは息を呑む。


「……太陽の勇者様……?」


 その姿は、まさに、

 伝説に残るイシュナダレトそのものだった。


 ラテルベルは静かに息を整え、詠唱する。


「――紅蓮の剣(フレイゼイ)


 右手に赤い魔法陣が瞬き、次の瞬間、握られた空間から炎があふれ出す。火は渦を巻くように集束し、一本の剣の形を成した。振るわれた刃先から、バチバチと火の粉が舞う。雪原の白に散ったそれは、瞬く間に蒸気を生み、凍りつく大地にほんのわずかな温もりを残して消えた。


 白と赤――


 大雪原の静謐を、

 ラテルベルの炎が真一文字に切り裂いていく。



 *



 炎の剣が雪を切り裂き、蒸気の尾を引く。

 

 ラテルベルはそのまま屍人に駆け寄り、

 低い姿勢から薙ぎ払った。


「やぁッ!!」


 灼熱の刃が灰色の胴を裂き――


 瞬間。


 炎が全身を包み込み、雪原の白に紅を描き出す。


 屍人は呻き声も上げられぬまま、

 燃え尽き、灰となって雪に散った。


 だが――


 雪煙の向こうから、影が次々と揺れて現れる。


「一体じゃない……囲まれてるぞ!」


 トウロの声が冷気を切り裂く。


 その中の一体が、錆びた剣を握りしめ、

 トウロめがけて跳びかかった。


 振り下ろされる、鈍色の一撃――


「今度は私の番だね。――詠唱開始(アンカー)


 左腕の羅針盤を指でなぞるノア。

 針が高速で回転し、魔法陣が浮かび上がる。


 次の瞬間、屍人が振り下ろした錆びた剣が、

 ノアに吸い寄せられるように宙を舞う。


 キィズ=マキナ領域:第Ⅴ契、【魔法電磁気学】。

 

 磁力が金属を奪い、その軌道をねじ曲げた。


「もーらい、っと」


 ノアは奪った剣を反転させ、

 背後から迫る別の屍人へと投げ放つ。


 空気を裂く金属音――


 刃は正確に首筋を貫き、

 屍人は灰と化して消滅する。


 最後の一体。


 武器を失った屍人が、トウロに近づいていく。

 アーチが前に立って彼のことを守っていた。


(力を貸して、アルミナ――)


 心の中で祈りながら、ラテルベルが片手を掲げる。


「――蒼炎の斧(サルーヴェ)!」


 キィズ=アルキミア第Ⅰ契、【火式魔法錬金術】。


 青い炎が渦巻き、ハンドアックスの形を成す。

 刃は氷を思わせる透明感を帯びながら、揺らめく炎を纏っていた。


 ラテルベルは大きく息を吐いて、


 斧を投げる――!!


 回転しながら飛翔した蒼炎の刃は屍人の胸を貫き、青い閃光を舞い上げた。――刹那、屍人の影は跡形もなく灰となり、冷たい風に溶けていった。



 戦闘、終幕。



 トウロは、瞳をきらきらと輝かせて叫んだ。


「ラテルベルさん――いや、ラテルベル様!!

 あんた、太陽の勇者だったのか!!」


 ラテルベルは、困惑した表情で両手を振る。


「え? い、いやそんな……! わたしが勇者? ないない!」


「いいじゃんラテちゃん、勇者だってさ。ふぅー、カッコいい!」


「もう! ノアさんまで……違いますってば!

 わたしはただの女子高生ですぅ!」


 そんなやりとりをしているうちに――

 ふと、白狼のアーチの姿が見当たらないことに気づく。


「あれ、トウロくん? アーチは?」


「なに言ってんだ? あんたたちの横にいるだろ?」


 ノアとラテルベルは顔を見合わせ、

 その方向をそろって振り向く。


 そして――


「え……?」


 困惑の声が同時に漏れた。


 そこにいたのは、四足歩行の白い狼ではなかった。雪のように白い髪、頭からのびる獣耳、腰にはふさふさとした尻尾。純白の毛並みを思わせる衣服に身を包んだ、年若い少女が立っていた。


 少女は頬を赤らめ、恥ずかしそうに小さな声で、


「あ、あの……はじめまして。アーチです……」


 と告げるのだった。

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