1|『アルナゼリゼ音楽祭』
英雄歴2970年12月25日、英雄戦争アストラマキアは終結した。神と人類が八百年にわたり争った戦争は、人類の敗北に終わった。神は罰として地上に大洪水をもたらし、世界の悉くを水底に沈めた。そして、敗北以前の『旧世界』を生きていた旧人類/オルデノートは、地上と冥界の間にある狭間の世界、アスハイロストへと追放された。その終焉の日を、『パラダイス・ロスト』と云う。
――緩衝帯遺世界=アスハイロスト――。
それは、生者の世界と死者の世界の狭間に存在する第三の世界。遥か遠い神代の時代、まだアスハイロストが存在していなかったころ、生者の世界は隣接する死者の世界から発生した「瘴気」の影響を受け、生命は絶滅の危機に瀕していた。その様子を見た、ある維持を司る神が、瘴気の影響が地上に及ばないよう、緩衝帯としての役割を果たす狭間の世界を創造した。
それが。この世界、アスハイロストの創世神話。
そして、パラダイス・ロストの後――。
アストラマキアで人間の味方をして楽園追放された天使、アニハは、「星掟統制機関:アークステラ」を創設し、新たな秩序として『星の掟』を制定した。元最高位の天使であり、到底人間では敵わない強さを持つアニハが抑止力となり、人類は星の掟に従って生きるようになった。
新秩序の下、アスハイロストでは、国に代わって『コミュニオン』が、王に代わって『主席魔導師/マスターマギア』がその役割を担う。また、コミュニオンは、自らの力で築き上げるか、聖戦を経て他のコミュニオンから奪うことで、領土となる「都市国家/キウィタス」を手に入れ、統治することとなる。主席魔導師の役職名はコミュニオンによって異なり、様々な呼び方がされる。
「風が吹けば死者が舞う」という俗諺が広く知られるほど、アスハイロストの環境は過酷だ。死者の世界――冥界から溢れ出る呪いを伴った瘴気は、これまでに何人もの命を奪ってきたのだろう。
01.『アルナゼリゼ音楽祭』
雪の帳が、静かに降り続いていた。
都市全体が、まるで白いレースを纏ったようにやさしく包まれ、
石畳の路地にも、広場の噴水にも、劇場の円屋根にも、
ふわりと薄雪が降り積もっている。
ここは、音楽と芸術の都――黄金街=アルナゼリゼ。
かつて王家の居城だった白亜の宮殿が、いまでは国立楽団の本拠地となり、
その中央ホールからは毎晩、古典楽器の旋律がこぼれていた。
バロックとロココの装飾が華麗に交錯する外観は、
この都市が歴史と共に音楽を歩んできた証そのものだった。
街の通りを歩けば、石造りのアーケードに響く弦楽四重奏の音、
冬の市場でホットワインを売る屋台の合間から聞こえる少年合唱の澄んだ声。
音は街のあらゆる隙間に染み込んでいた。
大通りを飾る建物群は、古典主義様式の荘厳な列柱を誇り、
軒下には帯状の彫刻や天使のレリーフがあしらわれている。
時折、雪の積もった赤煉瓦の屋根から鳩が舞い降り、
広場のカフェテラスに残された椅子の背を、小さく鳴きながらついばんでいた。
街の南端には、高い尖塔を持つ鐘楼がそびえ立ち、
正午になると、街全体に鐘の音が鳴り響く。
その鐘の響きに、誰かが窓辺のヴァイオリンを奏で、
どこかの音楽学校では若き演奏家たちが一斉に練習を始める。
アルナゼリゼは、雪の下でさえ、音の息吹を止めない街だった。
冬の澄んだ空気のなか、
白い街にこだまするのは、管弦とピアノと、人々の生のハーモニー。
まるで街そのものが、一つの交響曲だった。
◇
南ビアンポルト地方の中央に位置する国家都市・〈アルナゼリゼ〉は、ブルクサンガから列車でおよそ五時間の距離にある。この都市は、魔導教エクシクス諸派――通称『XCiX/エクシクス』と呼ばれるコミュニオンによって統治されており、数ある国家都市の中でも、アルナゼリゼはその中枢――すなわち、エクシクスの首都とされている。
英雄歴3072年01月22日。
その日は、アルナゼリゼで、年に一度の祭典、
――「アルナゼリゼ音楽祭」が開催される日だった。
会場は、都市の中心にそびえ立つ由緒ある劇場、アルナゼリゼ帝立歌劇場である。石畳の大通りに面して建つこの劇場は、灰白の石材で構築された優美な外観を持ち、中央には三連のアーチと半円形のバルコニーが配されている。
ファサードを縁取るように飾られた黄金の装飾と、降る雪の帳に浮かぶガス灯の淡い輝きが、建物全体に柔らかな光を与えていた。入り口上部には、楽聖たちの名がアーキ語で刻まれた銘板が掲げられ、その両脇では、天使像が街を見下ろしている。
劇場の内部へ足を踏み入れれば、青と金を基調とした絢爛な内装が目を奪い、天井には天啓を受ける女神たちが描かれたフレスコ画が広がっている。
舞台を囲む馬蹄形の客席は幾重にも積み重なり、
重厚な緋色のカーテンの向こうでは、楽団と合唱団が開演の時を待っていた。
この劇場で演奏を行うことは、音楽家にとって生涯の名誉とされ、今日のために集まった人々もまた、一年で最も華やかな音楽祭の到来を、静かに待ち望んでいた。
――
その客席の中に、華やかなドレスに身を包んだキロシュタインとツキナの姿があった。あのサンタキエロとの聖戦から、すでに半年。――今も変わらず、キロシュタインはゼロシキ商会の屋根裏部屋で、ノアとラテルベルとともに暮らしていた。
一方ツキナは、獄卒の仕事を続けながら、ブルクサンガの街にあるアパートで一人暮らしをしている。今ではキロシュタインたちともすっかり打ち解け、気のおけない友人関係となっていた。
かつてアサンが「屋根裏、まだ空いてるよ」とツキナを誘ったこともあったが、彼女はそれをやんわりと断ったという。本人いわく、「プライベートの時間は一人で過ごしたいから」とのことだった。
「――、ツキナ」
そう言って、キロシュタインは魔法起動式スマートフォン〈アルスタ〉の画面を差し出した。画面には、彼女とノアとのメッセージのやり取りが映し出されている。
キロシュタイン
{体調はどう? 少しは良くなった?}
ノア
{(鼻水を垂らしたサメのスタンプ)}
キロシュタイン
{……まだ治ってないんだね。ラテルベルも?}
ノア
{うん。二人でずっと鼻ズビズビしてるよ〜}
キロシュタイン
{お大事にね}
ノア
{(号泣するサメのスタンプ)}
{私も行きたかったよ〜!!}
キロシュタイン
{二人の体調が良くなったらね}
ノア
{ぜったい、絶対! 約束だよ!!}
{オルデキスカっ!!}
キロシュタイン
{(人差し指と小指を立てた絵文字)}
「……二人とも、まだ風邪が治っていないんですね」
メッセージを見ながら、ツキナは心配そうに呟いた。
ヴァルテス城跡学園は冬休み期間に入り、みんなで旅行……のはずだったのだが、先日からノアとラテルベルがウィルス性の風邪を引き、今日はこうして、キロシュタインとツキナの二人で音楽祭に来ることになった。――だが、その偶然が、のちに長く厳しい『冬の旅』の始まりになるとは。
この時のキロシュタインには、知る由もなかった。
幕が上がる。
音楽祭が、始まった――。