17|『アド・アストラ』
「はい。まさにそのまさかです。
十一枝徒の一人、至星者・アスアス――」
ノアは息を呑み、震えるようにその名を繰り返す。
「運命を司る枝徒、アスアス。
シンボルは――“運命の輪”――」
その瞬間。
ノアの目の前に――ひらり。
一羽の青い蝶が、舞い降りた。
それはまるで、言葉のかわりに。
ノアに何かを伝えようとしているかのようだった。
「キロちゃん……?」
ノアは無意識にその名をつぶやき、
そっと手を伸ばす。
だが、指先が触れた瞬間、蝶は泡のように弾け、
光の粒子となって消えてしまった。
ドクン――!
心臓が一つ、
大きく、脈打つ。
刹那。
宇宙空間に、
クジラの鳴き声のような重低音が残響する。
「あれ? ノアさん、通信が切れちゃいました」
ラテルベルが、突然真っ暗になったモニターを見つめながら呟く。
「ツキナさん? ……ダメです。繋がりません」
そのとき――
突如として、コックピット内のライトが赤く点滅し始める。
カルディアに搭載された危険警告シグナル――
緊急事態を告げる鮮やかな赤が、狭い空間を塗り替えていく。
「ノアさん!! なにか……、
巨大な“影”が近づいてきますっ!!」
O2――急発進!!
警告と同時に、
巨大な氷塊が凄まじい速度で飛来。
O2の右腕部をかすめ、鋼の装甲に火花が散る。
ラテルベルは操作パネルに手をかざし、即座に詠唱を始める。
「――炎艦の千列!!」
その声と同時に、
彼女の魔法『フラマの踊り子』が発動。
O2の周囲に、炎の艦影が次々と展開されていく。
まるで舞台装置のように、
空間に浮かび上がる千の軍艦。
それぞれが赤く燃え上がり、
O2を守るように戦列を成した。
炎の艦隊、発進準備完了――。
17.『アド・アストラ』
「なに……あれ……?」
ラテルベルが恐怖に満ちた表情で、
O2の視界ディスプレイを凝視する。
――そこに映し出されていたのは、
漆黒の宇宙に浮かぶ、
「白き神話」。
磨き抜かれた大理石のような純白の皮膚。
その背には、幾重にも折り重なる天使の翼。
そして頭部には――
六つの眼。
それらが虚ろな視線で、
まっすぐにO2を見据えていた。
ノアが息を呑み、震える声でつぶやく。
「……ユハだよ」
「え?」
「ラテちゃん!! 急降下!!」
ノアの叫び。
「は、はい!!」
次の瞬間、
機体全身に流れる魔力血管が白銀色に輝く。
蒸気のように噴出する魔力を纏い、
急激な加速と共に落下軌道へと移行するO2。
だが、その背後。
ユハの追撃が始まった。
白き神話の背から放たれた、絶対零度の魔法波が、
オーロラのような帯となって宇宙に広がる。
魔法波は、光ではなく意志を孕み、次元を切り裂く。
色が褪せ、世界が止まっていく感覚。
轟音とともに空間が波打ち、
O2を包み込むように、
ユハの魔法波がうねりながら迫ってくる――!
「ッ!! 守って、みんな!!」
ラテルベルの叫び。
それに呼応するように、
炎の艦隊が咆哮するように魔力を収束させ、
千の魔法火弾が、赤く唸りを上げながら、
怒涛のごとくユハへと放たれた。
宇宙空間に閃光が瞬き、衝撃波の残響が艦を揺らす。
しかし――ユハは微動だにしない。
白き神話は、何一つ避けることなく、
ただそこに浮遊していた。
ユハの放つ魔法波は、
圧倒的な質量と温度を持った、神域の暴力。
炎艦の千列は、
なす術もなくその波に呑まれ、
次々と崩壊していく。
「避けきれない……ッ!!」
ラテルベルは、背を弓なりに反らせながら、
必死に機体の姿勢を制御する。
……が、抗いきれない。
濁流のような魔法波が、O2を包み込む。
警告シグナルが赤く明滅し続ける中、やがて。
すべての音が、
――沈黙した。
◆
星の彼方へ――。
遠のいていく意識の中で、
ノアが最後に見たのは、幾億の星々だった。
それらは、まるで意志を持つかのように瞬き、
ひそひそと、
ノアの魂に遠い時代の詩をささやいた。
“神代に晴れ。オルデシカの民よ。”
“我は運命を導きしアカシアの巫女。”
“魔女の祈りによって、回り始める世界に、”
“再び太陽は目を覚ますだろう。”
…………
……
――宇宙には、風も、光も、救いもなかった。
機能を停止したO2は、死体のように無重力を漂う。
そのときだった。
何の予兆もなく、背後に“それ”は現れた。
鹿のように枝分かれした角。
人のような姿に、透き通る身体。
宇宙の星々が、その身体の内側を透かしていた。
その存在は、沈黙のままO2の背後にぴたりと寄り、
両腕を回して、まるで優しく抱きしめるように包み込んだ。
肩から生えた六枚の羽が、すっと広がる。
まるで、それだけで宇宙を滑るように、
重力の方向を変えるように――
その瞬間、O2とその存在は流星のように動き出す。
――大気圏突入。
炎の尾を引きながら、魔力が爆ぜる。
焼け焦げる羽根の輪郭が、まるで祝福のように光を放つ。
そして――
着地地点は、広大な銀世界。
一面の雪原に、火花ひとつ立てることなく、
その生命体はO2を抱いたまま、そっと降り立った。
その抱擁には、敵意も慈悲もなかった。
ただ、そこに“運命”だけが、あった。
O2を雪原の上に横たわらせたその存在は、
そのまま、ふっと、灯火が消えるように――。
青い蝶と化して飛び去ってしまう。
◇
「……ん?」
ノアは、沈黙したコックピットの中でゆっくりと目を開けた。
視界ディスプレイには、
驚くほど澄み切った、透き通る青空が広がっている。
「ねぇ、ラテちゃん。起きて!」
ノアはとなりに座るラテルベルの肩を揺らす。
数秒の静寂の後、
ラテルベルもまた、まどろみの中から、ゆっくりと目を開いた。
「……ノアさん? ここ……どこ、ですか……?」
「わからない。私もさっき起きたの」
「……とりあえず、外に出てみましょうか」
ラテルベルは操作パネルに手をかざし、
コックピットのハッチを開く。
その瞬間――
鼻の奥を刺すような鋭い冷気が、
一気に機内に流れ込んでくる。
「うわっ、さむぅーっ! ……って、ここどこ!?」
ノアの派手なリアクションが、
静寂だった空間に、少しだけ明るさを取り戻す。
コックピットの外――
そこには、果てしなく広がる銀世界。
太陽の光を受けてきらきらと輝く、一面の大雪原が広がっていた。