12|『星泳ぐ舟とクジラの歌』
キロシュタインとラルカは、シルクハットを被った案内人――ウェクシルムの後を静かに歩いていた。ウェクシルムの頭のランタンには青白い炎が揺れており、その光が屋上庭園の石畳に淡く反射するたび、世界がほんの一瞬だけ別の色に塗り替わる。
ヴェネ・ハ・レイユの中央区にそびえる高層ビルの屋上庭園。都市で最も高い場所に位置するこの場所からは、氷に沈んだ世界をすべて見渡すことができた。
空は黄昏に溶け、紫がかった金色の光が、雪を纏った木々を柔らかく照らしている。庭園の木々はまるで金箔をまぶしたかのように輝き、葉の一枚一枚が淡く揺れていた。枝先からは光の粒がこぼれ落ち、雪の積もった地表を淡く照らしている。
風は凍るほど冷たいが、どこか香水のような甘やかな香りを運んでくる。
雪を踏みしめる足音は、深く沈みながらもやわらかく、まるで夢の中を歩いているようだった。キロシュタインのブーツが雪をかき分け、ラルカはその足跡をたどるように歩いていく。
やがて二人は、庭園を流れる小川のほとりにたどり着いた。水は氷のように透明で、川面には星を映したかのように光が瞬いている。川辺には、金や銀の花弁を持つ幻想的な植物が咲き乱れ、まるで神話の楽園を想わせた。
その小川に、一艘の小舟が静かに浮かんでいた。まるでキロシュタインたちを待っていたかのように、雪に包まれた水面の上でたゆたっている。
ウェクシルムが、小さく頭を下げながら言った。
「こちらデス。さぁ、どうぞ乗ってくださイ」
ガス灯の光に導かれるように、キロシュタインとラルカは小舟へと歩み寄る。舟に足を乗せた瞬間、船体に淡い青の光が走り、魔法譜が水面に浮かび上がる。その模様は生き物のように揺らめきながら、彼女たちの体重を優しく受け止めた。
二人が乗り込むと、小舟は音もなく水面を滑り始めた。
静かに、静かに――そして、ふわりと浮かび上がる。
雪に包まれた庭園の木々が下へと遠ざかり、幻想の光で彩られた植物が静かに視界の外へと遠ざかる。小舟はゆっくりと上昇を始め、やがてその船体が宙に浮かぶ。
眼下に広がるのは、真っ白に染まったヴェネ・ハ・レイユの街。
幾層にも重なる黄金の街並みは、今や氷の衣をまとって沈黙していた。白い装束に身を包んだ街の住人たちは、まるで氷像のように凍りついて動かない。時間さえもこの雪に閉ざされたかのようだった。
キロシュタインは、凍りついた都市を見下ろしながら、白い息を吐く。
海底のようにゆらめく空は澄み渡り、はるか遠く――地平線の果てに、かつて空にあったはずの太陽が埋もれていた。今は黒く変じたその球体に、巨大な竜の骨が巻きつき、永遠の眠りにつくように沈んでいる。
小舟は、静かにその太陽へと向かって進み続けていた。
まるで運命に導かれるかのように――。
12.『星泳ぐ舟とクジラの歌』
黄昏の空を、小舟が泳ぐ。
海をひっくり返したような、あべこべの空。その中で、光をまとう魚たちが、川のように小舟を取り囲んでいた。音も匂いも失われた、静謐な夢のなか。魚の鱗が、鏡のように光を反射し、ラルカの頬にやさしく映り込む。
そのとき。
空の底から、巨大な影が浮かび上がった。
一頭のクジラ――神話の主のように、ゆるやかに顔を出す。
水しぶきのような星々を撒きながら、低く、歌のように鳴いた。
世界が、その声に耳を澄ませる。
キロシュタインは、ラルカの方を見つめながら口を開いた。
「ねえ、わたし……記憶を取り戻したの」
「本当か! それはよかった」
「ええ。……ずいぶんと短い記憶喪失だったけどね」
「で、何か思い出せたのか? キロ」
キロシュタインは並んで泳ぐ魚の群れを見ながら、
「この世界に来るまでのこと、全部。……友達と一緒に音楽祭に出かけて、そこでクーデターに巻き込まれたの。太陽が空から落ちてきて、電話ボックスで……お腹を撃たれた。――で、気がつけば、電車にゆらゆら揺られながら、この世界にいた」
どこか寂しげに、それでも軽やかに言った。
ラルカはその話を聞いて、
一瞬だけ目を伏せてから――晴れ晴れと、笑う。
「ははっ! そいつは最高の物語だな! 次はどんな展開が待ってるんだ?」
「ほんと、最高よ。それに加えて、あんたから“世界の根源”なんてバカげた話まで聞かされてさ……。もうこれ以上、驚くようなことって、この先に残ってるのかな?」
黄昏の空で、クジラが歌う。
小舟は二人を乗せて、ゆっくりと、地平線の彼方へと向かっていた。