11|『ユハ・覚醒』
地上世界――北大西洋の上空に浮かぶ、砂時計の形をした人工天体『アカシア』。その大広間に、ひとりの少女が立っていた。ミミズクを模したローブに身を包んだその姿は、まるで静寂の中に紛れ込んだ幻のようだった。
少女は壁面に描かれた落書きを指先でなぞりながら、呟く。
「……旅立ったんだね、ノア」
しかし、その言葉が届く相手は、もうこの世界にはいない。
がらんどうに靴音を響かせながら、その場を去っていく少女。
その先には、エメラルドグリーンの装甲を纏ったカルディアがあった――。
11.『ユハ・覚醒』
キロシュタインは、屋上庭園から眼下に広がるヴェネ・ハ・レイユの街並みを眺めながら、ラルカが語った『世界の根源』について思いを巡らせていた。人類の起源である二つの種族、そして、英雄戦争アストラマキアの真実……我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか――。
ただ一人の人間は、大洋に浮かぶ一艘の小さな船でしかない。
その一生をかけても、水平線の彼方に辿り着くことはないだろう。
それでも、なお――辿り着きたいと願う。
その想いこそが、生きるということなのかもしれない。
キロシュタインは、静かに大きく息を吸い込む。
胸いっぱいに、風と、この街の空気を感じながら――
深く、深く、呼吸をした。
――
黄昏の空に、銀の雪が舞い始める。
ひとひら、またひとひらと降り注ぐ光景を見て、ラルカが声を上げた。
「……なに、この雪……! まさか……ッ!!」
「ラルカ、どうしたの?」
「アイツ……この世界にまで……! キロ、こっちだ!」
「えっ?」
「走るぞ!!」
ラルカに手を引かれ、キロシュタインは訳もわからぬまま駆け出す。突如として降り始めた銀の雪は、見る間に勢いを増し、あっという間に視界一面を白く染め上げていった。光も、音も、声もすべて、形を失い溶けていくような不安定な感覚。
そのとき、クジラのような、
深く、震えるような鳴き声が街全体に響き渡る。
吹き付ける風と雪に、キロシュタインとラルカは思わず足を止めた。
そして――
キロシュタインは“それ”を見た瞬間、息を呑んだ。
「……なに、あれ……」
それは、ヒトの形をした巨大な“何か”――まるで神話から抜け出したような、現実離れした存在だった。磨かれた大理石のような白い肌。硬質な光沢をまとったその身体――背には、純白の天使の翼が生えている。頭部に刻まれた縦一列に並ぶ六つの眼のような模様が、虚ろな瞳で街を見下ろしていた。
全体像を見渡すことすらできないその巨躯は、浮遊しながら、静かに、ヴェネ・ハ・レイユの街を、影で黒く塗り潰していく。
ラルカはただ一言、
「――ユハ」と。そう言った。
*
黄昏の空に、銀の雪が舞う。
その光景はまさに、神話に語られる《大雪焉》そのものだった。【それは神の吐息すら凍りつかせる冬、息あるものすべてを白の棺に閉じ込めん。大地は銀に覆われ、声は凍り、灯は尽きる。】――雪は、触れるものすべてを永劫の静寂へと誘う。街も、人も、みな氷像と化し、沈黙する。ヴェネ・ハ・レイユは、たちまちのうちに銀に沈み、白に呑まれていった。大雪焉、それは運命。抗える者はいない。
握っていたラルカの手から、じわじわと熱が失われていく。
キロシュタインが彼女の名を呼んでも、答えはない。
ラルカは――天を見上げたまま。
空に浮かぶユハを見据えたそのままの姿で、すでに沈黙の氷像となっていた。
終幕。
……、終わってしまったのだろうか。
もう……何もかも……。
されど。
すべてが凍りついたその世界で、
ただ一つ、熱を持つものがあった。
キロシュタインの記憶――
彼女の魂は、凍てついた現実から、
灯火のように乖離していく。
――――、落ちる。
――、
「ここは……、どこ……?」
「……わたし……は、…………」
声が聞こえる。
温かく、優しい声――
胸の奥に届くような音色だった。
〈ふぁああ~~っ! 終わったぁあ~~!!〉
〈お疲れさま、キロッシュ。集中して喉かわいたでしょ。コーヒーでいい?〉
〈ミルクたっぷりで~~!〉
「この……声、は……」
「……お姉ちゃん……」
光が差し込む。
微かに青色を帯びた、それは――
――シアナス・ヴィント・ベッカー。
その名前を思い出した瞬間、
キロシュタインの魂に、青色のリンネホープが宿る。
そしてまた、別の声が重なる。
〈私、フェイト・ノア=ユーリスニュアは約束します〉
〈キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカーの親友になることを約束します〉
〈この先、彼女の人生になにが起ころうとも〉
〈たとえ、彼女自身が変わってしまったとしても〉
〈私、ノアは、キロシュタインの親友であり続けると〉
〈約束します〉
「……ノア……」
空色の光が差し込む。
記憶の断片が、音とともに降りてくる。
――フェイト・ノア=ユーリスニュア。
その名前を思い出した瞬間、
キロシュタインの魂に、空色のリンネホープが灯る。
キロシュタインは忘れていた“声”を思い出しながら、
その魂に、一つ、また一つとリンネホープを宿していく。
そして。一つ、また一つ、名前を呼ぶたびに色が灯る。
――ラテルベル・ラズライト。
――ツキナ|月涙。
そして、流創・ラルカ。
失われていた記憶のすべてが、
キロシュタインの魂に帰る。
そして、
彼女は光に包まれながら、
微かな吐息とともに、目を、覚ました。
こんなところで、
「終わらせない!!」
キロシュタインは、心の底から叫んだ。
ここにきて、忘れていたこと。失っていたもの。
――すべてを思い出したよ。
そうだ。わたしは、アルナゼリゼ音楽祭にツキナと二人で出かけて、そこでクーデターに巻き込まれて。そして……、謎の電話ボックスで何者かに撃たれたんだ。
受話器の向こうからは、ノアの声が聞こえた。
「……待ってて。必ず迎えに行くから――」
たしか、ノアはそう言っていたはずだ。
それから気がついたら列車の中にいて、ラルカと出会った。
間違いない。これは、わたしの記憶だ――。
なぜ、わたしは撃たれたのだろうか?
ノアの声が聞こえた理由は?
「わからないことだらけ……」
「……だけど今は――」
わたしは両手をゆっくりと動かし、感覚を確かめる。大雪焉によって凍りついていたはずの身体は、いつの間にか動くようになっていた。しかし、目の前には、氷像と化したままのラルカがいた。
空を見上げても、ユハの姿は見えない。
「ねえ、ラルカ。……聞こえる?」
……、
返事はなかった。
――
その時、背後から気配が走る。
「キロシュタインお嬢様。お待ちしておりまシタ」
振り返ると、そこに立っていたのは――
シルクハットを被ったガス灯だった。
頭部のガラス製ランタンには青い炎が静かに揺れており、火ではなく星明かりのような輝きを放っていた。灯の芯には時折、言葉のようなものが泡立つように浮かび、消えていく。
ガス灯は、あたかもそれが当然であるかのように、一本足の細い鋼脚をカツ、カツと響かせて歩き出す。そして、ぺらぺらと軽やかに喋り始めた。
「さァ、いきましょウ。コチらです。主が、キロシュタインお嬢様をお待ちでス」
「まって。行くってどこに? それに、お嬢様って何の話??」
「さぁ、さァ。コチラへ。ついてキテくだサイ」
どうやら、人の話をあまり聞かないタイプらしい。
ガス灯は竹馬のようにぴょんぴょんと跳ねながら、
屋上庭園を軽やかに進んでいく。
「まって、本当に待って。あの……ガス灯、さん?」
「ワタクシのことは“ウェクシルム”とお呼びくだサイ、キロシュタインお嬢様」
「ウェクシルム……ね、わかった。でも、それより――ラルカを置いていくわけにはいかないのよ」
氷像と化してしまったラルカを指差しながら言うと、ウェクシルムと名乗るガス灯は、少しの間うーんとうなり、考えるように青い炎をチカチカと点滅させた。
そして、ある閃きを得たかのようにこう言った。
「ではでハ、ワタクシをお使いくだサイ、キロシュタインお嬢様」
「……使うって、どういう意味?」
「ワタクシ、火力には自信がございマス」
少し呆れながらも、キロシュタインは両手でウェクシルムを持ち上げ、感覚のままにその頭の炎をラルカへ向ける。
――瞬間、魔法陣が幾重にも展開される。
そして、先端から放たれたのは、星色の炎を宿した一発の火球だった。
それは精密に、そしてやさしくラルカの身体を包み込むように着弾し――。
「ッ、あっちぃぃぃ~~~!!」
氷が溶け、湯気が立ち上る中から、
ラルカが蒸気まみれの姿で飛び出してきたのだった。
「こ、こげるかと思ったー!!」
蒸気のカーテンの中、
ラルカが両手で頭を押さえながら飛び跳ねている。
その光景を見て、キロシュタインは思わず吹き出してしまった。