9|『黄昏のヴェネ・ハ・レイユ』
〈枝典神歌・第13章『神々の黄昏』より〉
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かつて、天の帳がまだ裂かれていなかった頃、
混沌のただ中に、原初の天使ユハは眠っていた。
されど、時満ちてユハがまなこを開くとき、
空は叫び、火の玉が地を穿ち、
太陽は墜ちて、世界は永劫の黄昏に呑まれん。
竜の背にして環の獣――その名をウロボロスという。
彼は輪となりて天地を縛り、
過ぎし時と来たる刻を呑み込みて、
一なる流れに変じさせる。
時は層を失い、因果は崩れ、
子は父を忘れ、父は子に先んじて嘆かん。
かくして、大雪焉の時は訪れる。
それは神の吐息すら凍りつかせる冬、
息あるものすべてを白の棺に閉じ込めん。
大地は銀に覆われ、
声は凍り、灯は尽きる。
されど、されど人の子らよ、忘るるなかれ。
火を灯せ。祈りを絶やすな。
灯火こそが歴史の継ぎ目、
炎こそが過去と未来を繋ぐ唯一の契である。
蒼き焔絶えれば、その刻こそ終焉なり。
歴史の書は閉じられ、名なき時代が始まるだろう。
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09.『黄昏のヴェネ・ハ・レイユ』
――目覚めは、いつも静かに訪れる。
キロシュタインは、薄くまぶたを開けた。
そこにあったのは、見知らぬ列車の天井だった。鈍色の鉄と、経年で擦れた白。照明は淡く、ぼんやりと滲むような光を車内に投げかけている。
自分が、どこから来たのかも、どこへ向かっているのかもわからなかった。ただひとつ確かなのは――自分が「目覚めた」ということ。それだけだった。
長い横並びのシート。その中央に、
キロシュタインはひとり、ぽつりと腰を下ろしていた。
視線を周囲へと巡らせると、他の乗客たちの姿がまばらに見えた。彼らはみな、無言で座り、白い装束に身を包み、顔を半透明のヴェールで覆っていた。どこか聖職者のようでもあり、巡礼者のようでもある。誰一人として表情を読み取ることはできない。いや、彼らが本当に「人」であるかどうかさえ、わからなかった。
列車は、静かに揺れていた。
車体の底を這う金属音が、夢と現の境界線をじわりと削り取っていく。
キロシュタインは、ゆっくりと身体を起こし、車窓の外へと目を向けた。
そこには――
息を呑む、幻想の世界が広がっていた。
――
大地は氷に覆われていた。
山も、谷も、川も、すべてがその輪郭を失い、凍てついた鏡面のように大地を覆っている。どこまでも果てしない、白銀色の荒野。その氷の上を、キロシュタインを乗せたこの列車は、滑るようにして走っていた。
そして、遥か地平線の上――
地上に落ちた太陽が、世界の端に埋もれるように転がっていた。
もはや赤くも、眩しくもない。黒い球体と化したその太陽は、すべての熱を失い、さながら永遠の死を迎えた神の目玉のごとく。ただ静かにまぶたを閉じていた。
その太陽に、何かが巻きついている。
――それは、ひとつの巨大な骨。かつてそこにいた者の骸。
太陽の熱に焼かれ、溶けて、崩れた竜の骨だった。
幾本もの肋骨が、太陽を囲うようにアーチを描き、
尾の先が氷の地平に突き立っている。
その全体像は、まるで太陽の亡骸を護ろうとした、
哀しき守護者のようにも見えた。
――
空は、海だった。
天は蒼ではなく、深く透き通った琥珀色で、まるで逆さに映した海底のようにゆらめいている。――その中を、魚たちが泳いでいた。大きなエイが、ゆるやかに弧を描いて進んでいく。銀色の鱗をもつ群れが、雲のように流れていく。遠くには、ひときわ大きなクジラが、悠然と鳴き声をあげながら漂っていた。
空が、海であり、地が、氷であり。
そのあいだに、キロシュタインを乗せた列車が、静かに音もなく走っていく。
すべてが、黄昏色に染まっていた。世界全体が、まるで日没の直前で時間を止められてしまったかのように、柔らかな黄金の光に包まれていた。
それはまるで、夢の中にいるようで。
あるいは――夢の終わりに立たされているようだった。
◇
キロシュタインは、ここに至るまでの記憶を思い出そうとした。だが、それらはまるで鍵のかかった箱のように固く閉ざされている。■■、■■■■■、■■■……思い出すべき大切な友達の名前すら、黒い霧に覆われたように曖昧で、口にしようとしても声にならなかった。
小指と人差し指を立てて、『オルデキスカ』のサインを組む。
(約束……そう、わたしは■■と約束したんだ)
どんな状況でも冷静でいられるのは、
キロシュタインの意志の強さゆえだった。
そうして、キロシュタインが車内をゆっくりと歩いていると――
「――ガァァオ!!」
獣の鳴き声を真似たような叫び声とともに、いきなり背中をバシンと叩かれる。振り返ると、そこに立っていたのは、頭に竜の角が生えた一人の少女だった。――少女は鋭い犬歯をのぞかせながら、満面の笑みを浮かべている。
(なにがそんなに面白いのやら)
冷ややかな視線を向けるキロシュタイン。
だが、まったく気にする様子もなく――
竜の角の少女は、陽気に話しかけてくる。
「なぁ、お前、なんでこんなとこにいるんだ?」
「知らないわよ。気がついたら、ここにいたの」
「へぇ~、そかそか。――名前は?」
「キロシュタイン・ヴォルケ・ベッカー。
……長いから、キロとか、キロシュ――――」
「わかった!! じゃあ、キロだ。よろしくな!!」
そう言いながら、少女はガントレットを装着した左手を差し出してくる。キロシュタインは少し警戒しつつも、その冷えた手をそっと握り返した。
すると、少女は嬉しそうに手を上下にブンブンと振る。
「あのー、……痛いんですけど」
「あ、ごめんな。オレ、こう見えてめっちゃ力あるからさ」
「へー。そうなんですか」
「いやなんだよ、その冷めた態度は。
まぁいいや。――オレはラルカ、流創・ラルカだ。
あらためてよろしくな、キロ!」
あらためて、二人は握手を交わすのだった。
◇
「――つまり、記憶喪失ってやつなのか?」
「そうみたいね。全部ってわけじゃないんだけど」
「そかそか。……で。なんでキロは、そんなに落ち着いてるんだよ」
「ん? どういう意味?」
「いや、だってさ。こんな状況意味不明だろ?
それに加えて記憶喪失って。――もっと焦るべきだろ」
「焦る……というより、むしろ逆ね。
今わたし、すっごくワクワクしてるの!」
そう言いながら、キロシュタインは列車の窓を開けて、身を乗り出した。
「おい! あぶねーよ、キロ!」
「ふぅぅ……、――」
わぁぁぁぁぁああああ!!!
深く息を吸い込み、大声で叫ぶキロシュタイン。
さすがのラルカもその大胆な行動には驚いたようで、ヴェールで顔を覆った乗客たちも、不思議なものでも見るように視線を向けてくる。
息が切れるまで叫びきったキロシュタインは、
何事もなかったかのように、窓をぱしゃりと閉め、ふっと腰を下ろした。
「いや、怖いよ……」
ラルカは珍しく真顔でそうツッコむ。
「怖くてけっこう。
だって、こんな面白そうな世界――
叫ばずにはいられない、でしょ?」
澄ました顔でそう言うキロシュタインに、
ラルカは、嬉しそうに破顔した。
◇
「それで、ラルカ。あんたは、この世界について何か知ってるの?」
「急に真面目な話だな。……うーん、どこから話そうか」
ラルカは腕を組んで少し考え、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめた。
「キロ、たぶんお前は大雪焉に巻き込まれたんだ。
――ほら、落ちてくる太陽とか、竜とか見なかったか?」
「……ごめん。思い出せないわ。
でも、大雪焉については多少知ってる。
エデンシンカで読んだことがあるの」
「あー、あの分厚い本か。
よく読めたなぁ。オレ、一ページ目でイヤになって読むのやめたよ」
ラルカはそう言って、肩を落としながらため息をついた。
枝典神歌/エデンシンカ。――魔導教の正典であり、創世神話から英雄戦争に至るまで、人類の歴史が記されている。ラルカの言う通り、それは鈍器にもなりそうなほど分厚く、読み通すには相応の覚悟が必要だ。
「まぁ、アレを読んだことがあるなら話は早いか。
結論から言えば……世界は滅んだ」
「……ん?」
突拍子もない言葉に、思わずキロシュタインは声を漏らす。
「だから、世界は滅んだんだよ。
原初の天使・ユハが目覚めて、太陽が落ちて……
それで、全部終わった。それが真実であり答えなんだ」
ラルカは続ける。
「まぁ、とはいえ、本来ならそれでも心配はなかった。
世界が滅べば、また新しい世界が生まれる。
そうやって、この世界は流転を繰り返してきたんだ」
「――ラルカ。……あんた、一体何を知ってるの?」
キロシュタインが真剣な表情で問いかける。
「そうだなぁ……オレが知ってるのは、“世界の根源”ってやつだよ」
「世界の、根源……?」
「ま、その話はまた今度にしようぜ。
――キロ、そろそろ着くみたいだ」
ラルカはあからさまに話題をはぐらかしながら、席を立つ。
氷上を滑るように走っていた列車は、速度を落としていく。
どこかの駅に到着するらしい。
キロシュタインも立ち上がり、窓の外へと目をやった。
そこに広がっていたのは、
黄金の街だった。
「――ようこそ、ヴェネ・ハ・レイユへ。
ゆっくり話もしたいしさ、キロ、一緒に行こうぜ」
ラルカはそう言って、キロシュタインの手を引く。
列車が、黄金の街の駅にゆっくりと停車する。
黄昏に沈む幻想世界――
キロシュタインの、新たな冒険が始まろうとしていた。